大学時代、友人に「東京を出て多摩川を越えたら神奈川県」と教えられたことがある。西日本出身者としては素直に信じていたのだが、実際に当てはまるのは一部だけ。中流域では「多摩川を越えても東京都」だ。しかしかつては違った。八王子や町田、多摩川の手前にある調布や成城、吉祥寺も神奈川県だった。なぜ東京になったのか。事情を探っていくと、長年の課題である水源問題と、複雑な政治事情が浮かび上がってきた。
■多摩が東京になって120年
「今年は多摩地区が東京府(当時)に移管されてからちょうど120年にあたる記念の年です。いろいろイベントを計画しています」。東京都総務局行政部の担当者は意気込む。
都では2014年3月末まで「多摩の魅力発信プロジェクト」を展開している。今週末(8月24、25日)には立川市にある昭和記念公園で「多摩フェスティバル」を行う予定だ。多摩の地形・文化に関する講演や、アニメと縁が深い地域の特色を生かして、声優を招いたトークショーなどを企画している。
一般的に多摩地区とは、東京23区より西側に位置するエリアのことを指す。「東京都下」「三多摩」などと呼ばれることもある。
「三多摩」の名はかつて「北多摩郡」「西多摩郡」「南多摩郡」だったことに由来する。ただし世田谷区の旧砧(きぬた)村なども含まれており、必ずしも現在の境界線とは一致しない。北多摩郡にあった砧村は現在、成城や喜多見となっている。
財団法人東京市町村自治調査会が中心となってまとめた「多摩百年のあゆみ」(多摩百年史研究会編著)によると、この地域は明治維新後、「品川県」「韮山(にらやま)県」「入間(いるま)県」「西端(にしばた)県」などに分割された。西端県は愛知県碧南市を中心とした県だった。1871年(明治4年)に実施された廃藩置県の後、三多摩の大半は神奈川県に所属することになった。
三多摩が東京府に移管されたのは1893年(明治26年)のこと。なぜ、20年以上もたってから再編されたのか。
国立公文書館で当時の資料を探してみた。
移管を決めた「東京府神奈川県境域変更ニ関スル法律案」は、その理由について「水路ノ関係」だと記す。東京府を流れる上水道の水源が多摩地区にあり、管理のためには東京府に移管した方がよい、という趣旨だった。
本当にそうなのか。だったらなぜ最初から東京府に含めなかったのか。
多摩
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