日の丸半導体の躍進にいらだち…米の圧力が生んだ“管理貿易”
産経新聞 8月17日(土)11時0分配信
【ニッポンの分岐点】日の丸半導体(2)
官民一体となったプロジェクトで、昭和60年代に世界のトップに立った日の丸半導体。DRAMを中心に世界シェアの5割超を握り、日本の半導体産業は絶頂期を迎える。だが、国の根幹を担う半導体産業の凋落(ちょうらく)を、米国は黙ってみていたわけではなかった。米政府は政治の力で圧力をかける手段に出た。
■高まる米のいらだち
50年代からの日の丸半導体の躍進に、米国では急速に「日本脅威論」が高まっていた。
52(1977)年3月にはインテルなど米国の主要半導体メーカーが「米国半導体工業会(SIA)」を結成。通産省(現経済産業省)が主導した51年の「超エル・エス・アイ技術研究組合」など官民一体となったプロジェクトが日の丸半導体の躍進につながったとして、日本の半導体産業の“官民癒着”を米国政府に訴えた。
メディアも日本の脅威と米国の苦境ぶりをあおった。米経済誌「フォーチュン」の56年3月号には、日本メーカーを相撲力士に見立て、米国勢を模した米国人ボクサーに対峙(たいじ)させたイラストが誌面を飾った。「日本半導体の挑戦」とのタイトルで掲載された記事で、フォーチュンは「米国はDRAM競争で日本に負けるかもしれない。負けたとすれば、半導体産業のみならず、コンピューター産業の将来を危うくする」と、国力低下への懸念を強く訴えた。
そうした米国側のいらだちが頂点に達したのは、日本電気(現NEC)が半導体売上高で米メーカーを抜き、世界首位に立った60年だった。同年6月、日本製半導体の勢いに危機感を募らせた米メーカー側は不公正貿易に対する報復措置を定めた米通商法301条を基に日本側を提訴。さらに当時、日本の主力であったDRAMなどをダンピングで米通商代表部に訴えた。
民間の動きに押される形で米政府も行動を起こす。米政府は日本市場の「構造的な閉鎖性」を糾弾。そのうえで301条を盾に、日本側の輸出自主規制と日本市場での外国製半導体受け入れを迫ったのだ。
■焦点となった数値目標
繊維や鉄鋼、テレビなど、それまでの日米貿易摩擦では、日本が輸出で手心を加えるか、米国からの輸入に配慮するという歴史が繰り返されてきた。だが、今回の半導体交渉で日本政府は、これまでの通商交渉とは米国のいらだちは次元が違うと感じていた。
「日本が勝ち過ぎ、日本の半導体製品のシェアが米国に及ぼす影響が日米関係を揺るがしかけていた」。当時、通産省で電子機器課課長補佐を務め、半導体交渉に携わった鷲見(すみ)良彦(61)はそう振り返る。軍需にも利用される半導体は経済だけではなく、国の安全保障上の問題となる基幹産業として米国が重要視しており、単なる工業製品ではなかったからだった。
「何とか数値目標を認めてくれ。役所もわれわれも抵抗できない。日米関係に関わるんだ」。半導体をめぐる日米協議が進行していた61年夏ごろ、渡辺美智雄通産相(当時)は日本電気の関本忠弘社長(同)らメーカー側首脳に、日本市場における外国製半導体シェアの数値目標受け入れを懇願した。
だが、メーカー側はなかなか首を縦に振らなかった。「ダンピングは米メーカーの言いがかりだ」。日の丸半導体の躍進は、製造技術や微細加工技術を向上し、競争力を高めた結果であるとの自負があった。それでも世界最大の米国市場で販売できなくなる事態だけは避けようと、最終的にはメーカー側も譲歩せざるを得なくなる。
日本製半導体の「最低価格」を取り決めるダンピング輸出防止と、日本市場の外国製半導体への開放を柱とする日米半導体協定が結ばれたのは61年9月。数値目標については、付属文書であるサイドレターに「日本政府は外国製半導体の日本市場シェアが20%を超える期待を認識し、実現を歓迎する」と盛り込まれた。
■日本の“おごり”
協定締結後も、米国側の圧力は執拗(しつよう)だった。数値目標を「政府による約束」と解釈した米政府は62年には協定不履行を日本側に突きつけ、パソコンやテレビなどに100%の関税を課す対日制裁措置を発動する。日本側は抵抗しつつも要求をのむしかなく、平成3年に改定された協定では外国製半導体について「日本市場のシェアを20%以上」とすることが明文化された。結果的に日米半導体協定という“不平等条約”は10年間続くことになる。
だが、不平等とはいいながら、半導体協定には日本側にもメリットがあった。「制限つきながらも継続して米国と商売ができる実利」(鷲見)を確保できたからだ。価格を縛る一種の“管理貿易”が続く中、日本メーカー側も安定した価格で半導体製品を米国市場に売ることで大きな利益を得た。事実上の「カルテル」が日米両国で維持され、米政府の思惑通り米メーカーも復調していった。
半導体協定が長期にわたり、不平等な形で続いた背景には、日本側の「おごり」もあった。日米半導体交渉で「タフネゴシエーター」と呼ばれた当時の通産省審議官の黒田真(80)は「日本の半導体は明らかに米国を追い越し、米国側の現実を理解してやらねばいけない立場にあった。日本の半導体産業の競争力は世界のトップだとの認識が交渉の下地にあった」と語る。
日立製作所で半導体事業を担っていた牧本次生(76)も「日本が圧倒的に強くなり過ぎたことで、不平等な協定下でも競争力に影響は少ないと思っていた」と振り返る。
しかしこの間、半導体産業には大きな地殻変動が起きようとしていた。半導体協定の実利を享受し、安穏としていた日本メーカーはその動きを完全に見過ごし、日の丸半導体の競争力は徐々にそがれていった。=敬称略(是永桂一)
【用語解説】日米半導体協定
米半導体メーカーのシェア低下を背景に、昭和61年9月に日米間で締結された半導体に関する通商協定。日本製半導体のダンピング輸出防止と外国製半導体の日本でのシェア拡大を骨子とする。20%強とした外国製半導体の数値目標については、日本が「努力目標」ととらえたのに対し、米国は「政府による約束」と解釈、米国は数値目標の不履行を繰り返し訴えた。平成3年の改定で外国製半導体のシェアを20%以上とすることを公式に明記。8年に期限切れで失効した。
最終更新:8月17日(土)14時43分