この慰霊碑は、敷地1万5000平米の平和慰霊公苑のなかにある。太平洋戦争戦没者慰霊協会が造園したもので、苑内の一角に寄付者の名前が刻まれている。それを見ると、抑留者と思われる個人以外に、日本の大企業の名がずらりと並んでいる。
不思議に思ったのだが、公園の入口に置かれた石碑の裏側を見て合点がいった。そこには、「題字 瀬島龍三」とあった。
元大本営作戦参謀の瀬島龍三は終戦から1956年までシベリアに抑留されており、帰国後は伊藤忠商事に入社し、戦後賠償や自衛隊への航空機納入などさまざまなビジネスで辣腕をふるった。その後、中曽根政権で第二臨時行政調査会の委員として国鉄や電電公社の民営化に尽力し、いつしか「昭和の参謀」と呼ばれるようになった。山崎豊子『不毛地帯』のモデルとしても知られている。
瀬島は11年間の抑留生活の多くをハバロフスクの収容所で過ごした。抑留者の慰霊のための施設としては最大規模の平和慰霊公苑は、日本の政財界に大きな影響力を持った瀬島の後押しを受けてつくられたのだろう。
だが瀬島に対しては、抑留者のあいだで毀誉褒貶が半ばしている。
瀬島は敗戦時、関東軍の参謀として、参謀長秦彦三郎とともにワシレフスキー元帥との「停戦交渉」に臨んだ。このとき日本兵の抑留と使役に同意したのではないかという“密約説”を一部の抑留者が唱えたからだ。
その後多くの歴史家がこの「昭和史の空白」を解明しようとしたが、ソ連崩壊後に公文書が開示されたことでその謎はあっさりと解けた。
誤解は、日本側がワシレフスキー元帥との会見を一貫して「停戦交渉」と記したことから生じている。たしかに「交渉」であれば、双方が意見を述べ合い妥協や合意に至ることになる。
だがソ連側からすれば、無条件降伏した日本軍にはそもそも交渉の余地はない。ワシレフスキー元帥は日本側に「命令」しただけであり、それに対して秦参謀長がいくつかの要望(お願い)を伝えたのが実態だった。“密約”も同じことで、相手が約束する以上、なんらかの対価を差し出さなければならない。だがソ連は一方的に好きなものを奪うことができたのだから、そもそも約束の必要すらないのだ。
シベリア抑留の正式決定は8月23日にスターリンが署名した「50万人の日本軍軍事捕虜の受け入れ、配置、労働使役について」と題された国家防衛委員会決定No.9898(極秘)によるが、それ以前から日本への宣戦布告と日本人捕虜の抑留が既定の事実だったことはさまざまな証言から明らかになっている。たとえば、日本人捕虜への民主化教育(共産主義の洗脳)を担当したイワン・コワレンコ(元共産党中央委員会国際部副部長)が「日本新聞」(日本人捕虜の宣伝工作のために発行され、収容所内で閲覧された日本語新聞)の編集長を命じられたのは7月末で、まだ日本とソ連とのあいだに戦争は始まっていなかった。
日本国に捨てられた人たち
とはいえ、抑留者が「自分たちは日本国から捨てられた」と考えたのは理由のないことではない。
戦況が悪化した昭和20(1945)年6月から、日本政府は中立条約を結んでいるソ連の仲介でアメリカとの戦争終結を模索しはじめる。鈴木貫太郎首相らは、天皇側近であった近衛文麿元首相を特使としてソ連に派遣し、ソ連首脳と終戦交渉の条件を決め、天皇の裁可を仰ごうとした。
だが敗戦必至の状況で、対等の交渉は望むべくもない。そこでソ連に対する譲歩案として、『対ソ和平交渉の要綱(案)』が極秘裏につくられた。
外務省の『終戦史録』にも掲載されている要綱(案)の第3項「陸海軍軍備」ロの項は、次のように書かれている。
「海外にある軍隊は現地に於て復員し、内地に帰還せしむることに努むるも、止むを得ざれば、当分その若干を現地に残留せしむことに同意す」
さらには第4項「賠償及其他」のイ項は次のように書く。
「賠償として一部の労力を提供することには同意す」
敗戦間際の日本政府は、“国体護持”と引き換えに日本兵をスターリンの奴隷にすることになんの躊躇もなかった。
遠くシベリアの地で、訪れる者もなく眠るひとびとの墓は、「国家」なるものの底知れない冷酷さを私たちに教えてくれる。
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<執筆・ 橘 玲(たちばな あきら)>
作家。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。「新世紀の資本論」と評された『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ベストセラーに。著書に『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術 究極の資産運用編』『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術 至高の銀行・証券編』(以上ダイヤモンド社)などがある。ザイ・オンラインとの共同サイト『橘玲の海外投資の歩き方』にて、お金、投資についての考え方を連載中。
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