「戦争、二度としてはいけない」=シベリア抑留の元少年兵—過酷な経験、後世に

 太平洋戦争終結から15日で68年。当時、中国や東南アジアなどの戦線に赴き、現在も高齢を押して過酷な経験を後世に伝えようと活動を続けている旧日本軍の元兵士らに話を聞いた。「憲法9条は絶対に守るべきだ」。絞り出した声が重く響いた。

 1944年12月に19歳で旧日本軍に召集された加藤正寿さん(88)=東京都文京区=は旧満州(現中国北東部)で終戦を迎え、そのままシベリア(現ロシア東部)に抑留された。約3年4カ月に及ぶ抑留生活の末復員したが、仲間の多くは厳寒の地で命を落とした。加藤さん自身も、共産圏から帰って来たという理由だけで、長い間、就職先も見つからなかった。10年ほど前から、都内の小学校などで自らの戦争体験を伝えている加藤さんは「『国のため』と言われ戦地に行ったのに。戦争なんか、二度と起こしてはいけない」。そう語気を強めた。

 終戦間際の45年8月、旧満州で上官から「あす、ソ連(現ロシアなど)が攻めて来る。爆薬を胸に抱いて戦車の下に飛び込め」と指示された。「私の人生は随分短かったな。せめてもう一度、母親に会いたかった」。覚悟を決めた直後、退却命令が出て命を永らえた。

 新京(現長春)で武装解除された後、街中を歩いていた日本人女性がトラックでソ連兵に連れ去られるのを目撃した。「兵隊さん、助けて!」。加藤さんらに向かって女性が叫んだが、銃も剣もなく、助けられなかった。「戦争に負けるということは、こんなにみじめなのか」と思い知ったという。

◇復員後は就職差別

 その後、抑留されたシベリアでは、鉄道敷設のため森林伐採など重労働を強いられた。9月から翌年5月まで大地は雪に覆われ、食事は朝は一片のパン、昼は麦のおかゆ、夜も大豆の粉のスープだけ。栄養失調などで毎日3〜5人が死んだ。20人が一度に亡くなった日もあった。一緒にいた約1500人のうち、450人ほどの仲間が異国の地で命を落とした。

 48年12月に京都・舞鶴港に戻ったが、ソ連から帰って来たというだけで、就職試験は軒並み落とされ、10年近く無職のまま。親に食べさせてもらう状態が続いたという。「国からは何の支援もなく、一昨年になってやっと、わずか25万円の特別給付金を受け取った」と加藤さんは憤る。安倍政権の下で改憲に向けた動きが進んでいることについても、「今の国会議員は2世や3世ばかりで、戦争を知らない人ばかり。過酷な現実に目を向けようともせず、おかしな話だ。(戦争放棄を定めた)憲法9条は絶対に守るべきだ」と訴えた。 

[時事通信社]

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