◆掛川・宇山さん 「墓地判明の父、いいほう」
旧満州(中国東北部)ハルビンから旧ソ連に連行され、銃殺刑に処せられた父親の埋葬地を捜し続けた掛川市の主婦宇山冬実さん(68)が、モスクワにある墓地で無言の対面を果たしたのは二〇〇八年だった。あれから五年。宇山さんは「埋葬地が分かった犠牲者はいいほうです」と語る。ソ連によるシベリア抑留で死亡した日本人は五万五千人とされる中、戦後六十八年たった今も身元や埋葬地が特定された人の確たる数字は不明のまま、歴史の闇に消えようとしている。
旧満州の国策会社、満州電信電話会社の政治部長だった冬実さんの父・宇山禄郎(ろくろう)さんは終戦直後の一九四五年九月、ハルビンの自宅からソ連当局者に連れ去られた。ロシア語が堪能だったために対ソ諜報(ちょうほう)活動をしたと嫌疑をかけられたとみられる。三十三歳だった。生後八カ月だった冬実さんには父親の記憶すらない。
禄郎さんの妻・代志枝さんは、冬実さんを背負って引き揚げ待機所を一年二カ月も転々とし、祖父のふるさとの掛川市に身を寄せた。薬剤師として一家を支え、再婚はしなかった。夫を捜しに引き揚げ船が到着する舞鶴港(京都府)を四〜五回訪ねて「やっぱり、だめだったわ…」と落胆した母の表情を冬実さんは覚えている。
冬実さんが中学二年のころ、禄郎さんが「ハバロフスクの収容所で戦病死した」との死亡公報が届いた。冬実さんは「気丈な母が一晩泣いていました」と振り返り、それをずっと信じてきたという。
ところが二〇〇〇年七月、シベリア抑留時に銃殺された日本人十五人のリストがロシアで見つかり、禄郎さんの名前があることが判明した。命日は四七年四月九日。刑執行の場所はモスクワ。ソ連崩壊後に禄郎さんの名誉回復がなされていたことも分かった。代志枝さんが八十四歳で亡くなる半年前だった。
冬実さんは、シベリア抑留者の死亡名簿を作成している新潟県糸魚川市の村山常雄さん(87)や他の遺族などと連絡を取り、禄郎さんの足どりを追跡。「確かな場所が分からなくても、墓参りをしたい」と〇八年九月、モスクワにある「圧政犠牲者追悼の地」を訪れた。墓誌にロシア文字で「ウヤマ」と記されているのを確認し、死後六十一年目にして墓参が実現した。
作曲家チャイコフスキーを愛し、「チエホフの一生」という翻訳書を出版するほどロシア通だったがゆえに、スパイ罪に問われた禄郎さん。冬実さんは「父の埋葬地を必死に捜していろいろなことが分かり、怖くなりました。戦争がなかったらここ(掛川市)に居なかったと思いますが、もう過ぎたことです」と語り、理不尽な運命によって生命を絶たれた父親を通して、戦争の罪を問うている。
<シベリア抑留> 太平洋戦争直後、旧満州などに駐留していた元日本兵や軍属などが、対日参戦した旧ソ連によってシベリアやモンゴルへ連行され、森林伐採などの強制労働をさせられた。厚生労働省によると、約57万5000人が抑留され、寒さや飢え、衰弱、病気などで約5万5000人が死亡したが、今も1万7000人余りの消息が不明のままになっている。
この記事を印刷する