「一冊の本だけを読む人に気をつけよう」 --西洋の諺

騒動の実態とは
_SL500_AA300_

最近のメディアを見ると、ばかばかしさにうんざりすることが多い。小さな話を大騒ぎをして世の中を混乱させ、2週間後には忘れてしまう。2週間前の麻生氏の「ナチスに学べ」発言は予想通り沈静化して、私はうんざりした。今度はマンガ『はだしのゲン』の騒ぎだ。
松江市教育委員会が、マンガ『はだしのゲン』に閲覧制限をかけたと共同通信が報じた。そしてネットが騒ぎ、他メディアが追随し、批判的に伝えている。事実関係は報道によると、次のようなものだ。(中国新聞8月13日記事

1・汐文社(東京)発行の『はだしのゲン愛蔵版』全10巻の学校図書館での閲覧を島根県松江市教育委員会が制限した。(当初6巻以降という一部報道があったが、同教委によれば全10巻という。それに基づき第一次原稿を書いた。御詫びして訂正する。)

2・市教委によると、昨年12月に小学校全35校、中学校全17校を対象に開いた校長会で、本棚に置かず倉庫に収める「閉架」とするよう口頭で求めた。作品を所有する各校は要請を受け入れ、閲覧を制限している。学校長の許可があれば、読めるそうだ。

3・制限の理由は同教委によれば「歴史認識の問題ではなく、あくまで過激な描写が子どもにふさわしくないとの判断だ」という。中国大陸での旧日本軍の行動を描いたシーンでは、中国人の首を切ったり女性に性的暴行を加えたりする場面があった。

4・市民からの要請があったことが検討のきっかけだ。

原爆投下の残酷な描写があるが、それは閲覧させてもよかったと思う。しかし後半部分の規制は当然かけるべきと私は考えている。

「政治主張」をなぜ小中学生に推奨するのか

このマンガは、広島で被爆した作者中沢啓二氏の体験に基づいて書かれた。私は小学校時代に読み、後半は部分的にしか読んでいない。そしてかなり前なので記憶もあいまいだ。前半で家族が原爆によって殺されたシーンは衝撃を受けた。原爆の惨状と、人の死がなまなましく書かれ心に残った。しかし、その凄惨さが嫌になり、熟読はしなかった。もちろん、評価する人がいてもいい。

しかし同書は反原爆だけを訴えるマンガではない。

問題のある場面を紹介したい。私も中学生時代にぱらぱら見て、不快感を持った描写だ。日中戦争の回顧で、日本軍が「中国人の首を面白がって切り落とした」「女性器の中に一升瓶を突っ込んだ」など、凄惨な描写をしている。(批判画像1、ネット上のリンク)(指摘ありこの部分、日本人が朝鮮人に行った行為とされたという。本がなく、確認できない。そうだとしたら余計に伝聞と思われ、偏向が強い。)

そもそも、この描写は大変過激である。小中学生に進んで読ませるべきとは思えない。

帝国陸軍について、私は素人戦史マニアとして、多少は詳しい。私は防衛庁戦史叢書(公刊戦史)の『北支治安戦』などを読んだが、上のような事実は記載されていない。なぜこんな専門書を読んだかというと、防衛省が自衛隊のイラク派遣で、民衆宣布対策で参考にしたためだ。旧軍は大戦後期の治安戦では兵士の民衆への暴行を取り締まっている。反乱を抑制するなど、軍事上のメリットが大きいからだ。

もちろん旧軍には残虐行為はあったであろう。しかし旧ナチスドイツが欧州で、旧ソ連がドイツ戦で行ったように、組織で統一的な命令の下で残虐行為を展開した形跡はない。『はだしのゲン』に記された事実が記された戦史書、公文書があったら、教えてほしい。伝聞情報など、あやふやなものしかないはずだ。子どもにいいかげんな情報に基づく、一方的な情報を教えてはいけない。そして嘘は日中戦争で亡くなった、日本、そして中国の戦死者に失礼である。

また、この本の後半は天皇制についての批判的な言説を繰り返している。(批判画像2)この問題は複雑であり、政治的な主張を年少期に強調して教えるのは好ましいことではない。

広く知られていないが『はだしのゲン』では、前半と後半では掲載誌が違う。前半で作者は、被爆体験を中心に描き、少年ジャンプに連載された。後半は左派系市民誌『市民』、日本共産党系の論壇誌『文化評論』、日教組の機関紙『教育評論』(いずれも今は廃刊)で連載されている。

後半には政治主張が多く、残虐場面と日本への批判を繰り返し、マンガの雰囲気が変わった。問題のある政治団体の「プロパガンダ」に公立小中学校は加担してはならない。また教委の判断は、過激な描写への懸念によるものだ。それも判断として妥当であろう。

一部のネット情報では、極右勢力が松江市の決定に介在したとされる。人種差別、反韓国、反中国のデモや過激行動で目立とうとしている「在特会」という団体などだ。しかし私は行政取材の経験が長いが、「在特会」という「チンケ」(下品な言葉使い失礼、ただそれしか言葉が思いつかない、つまらん集団だ)な団体の抗議程度で、行政が動くとは思えないし、実際にそうではない。同教委事務局によれば「市議会での指摘を受け事務局の担当者が読み、各関係者の意見を聞いて判断した。描写が過激だった」という。主張に正当性があることが判断に影響した。

私は記者として、言論の自由は絶対に守らなければならない国民の権利であると考えている。『はだしのゲン』を発禁にすると公権力が行動したら、反対に立ち上がる。

しかし問題は、偏向した主張のある本を教育現場に置かないという程度ものだ。仮に右派の人が「サヨクの残虐行為を強調した本を置け」と騒いでも、私は反対する。そして本の廃棄をした訳ではない。自己決定で読めば良いし、親が買い与えてもいいではないか。松江市の判断は、許容されるべきものであろう。ただし前半部分だけの自由閲覧をさせてもいいとは思うが。

もっと大切なことは多くの読書経験

この問題で騒ぐ人たちは、なぜ抗議ということに無駄なエネルギーを使うのか、不思議に思う。メール、電話を合わせると、数千件の抗議がきたそうだ。どうせ焚き付けたメディアは、2週間すれば忘れてしまうのだ。ちなみに図書館の備品への対応で、事務局の判断で決めたが、今後教育委員会が最終決定するという。

私は抗議の暇があったら、もっと大切なことに目を向けるべきと思う。大切なこととは、「子供に多様な読書経験をさせるべき」ということだ。

私は小学校時代から、学校の図書室、公立図書館をかなり使い込んだ。どの図書館の児童室にも、戦争もの・原爆ものは棚一つ分と、大量にある。その中で、原爆を語る素晴らしい文学はたくさんある。私は井伏鱒二の『黒い雨』、原民喜の『夏の花』『鎮魂歌』、峠三吉(共産党員だが)『原爆詩集』、永井隆の『長崎の鐘』も小中学校時代に読んだ。

yuunagi_l1日本ではマンガは、表現の分野で成長を続け、才能のある人を集める。私が心に残ったのは大人になって読んだ『夕凪の街 桜の国』(こうの史代 双葉社)だ。幸せをつかもうとした女性が、被爆による健康被害で10年後に亡くなる。その残酷さと、静かで美しい日常の対比に、胸が苦しくなった。凄惨さを強調した70年代のマンガ『はだしのゲン』と違って、最近のマンガで表現方法も洗練されている。

エネルギー問題、福島原発事故を調べ続ける私にとって不思議だったのは、福島原発問題でデマを拡散している人が、なぜか「『はだしのゲン』を守れ」と騒いでいたことだ。同書で私は「ピカの毒が移る」と、広島の人が差別されたことを私は初めて知った。無知と差別による悲劇を同書の作者の中沢啓二氏は批判した。

それなのに21世紀、これだけ情報があるのに、私たち日本人は過ちを繰り返してしまった。筆者は福島デマを流す雑誌経営者を記事『「福島で人は住めない」--放射能デマ騒ぎの悲しい結末』、また別の人物を一例に『「放射能測定、この人はうそつきだ」--郡山市民に訴えられた中学教師』という文章で批判した。この人たちのツイートを数ヶ月ぶりにのぞいたら、予想通り「『はだしのゲン』を守れ」と騒いでいた。福島を差別する自分の行為を反省せずに正義を語るその愚かしさに、私は改めてあきれ、その精神状態を疑った。

皮肉を込めて言えば、恐怖を強調したプロパガンダだけに触れた子供は、おかしな大人になってしまうのかもしれない。

西欧の諺に「一冊の本だけを読む人に気をつけよう」というものがある。一冊の本に過度に関心を向け、一つの思想に凝り固まることをうながすのではなく、子どもには、多様な本を読ませる読書経験を持たせるべきだ。

石井孝明
ジャーナリスト
メール・ishii.takaaki1@gmail.com
ツイッター:@ishiitakaaki