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人間の精神を骨頂まで高められる、とでも申しましょうか。
本来の宗教というものは、脳波のカギになるものにございます。仏教的にいえば「無我の境地」、キリスト教的にいえば「お召し」でございましょうか。民俗学用語でいうところの「トランス」でございますけれど、ある事物に普段のそれよりも集中しているとき、めくるめく快楽が脳内に暴れまわるのでございます。
ゆえに「エクスタシー」とも関わりが深いのでございますけれど。集中力がある子どもの頃と、生存が危ぶまれる危機的瞬間などには、よくこの「トランス・エクスタシー」状態になる人もおおくございます。見ているものが急に拡大してみえたり、時間の流れが急にゆるやかになったり、といった感じでありますね。
機能しているホルモンや脳波が違うのですけれど、おおむね、恍惚とした表情といいますか、あへ顔になることも多いものでございます。ヨガや禅も極めるとこれが起きますし、イスラム教系のスーフィー(演舞コーラン)教なども、目が回ることと上記のトランスが似ている、あるいは導引につかえることに起因しています。カトリックの修道女の祈りの最中の恍惚とした表情であるとか、催眠術にかかっている人の安らぎの心情とか、米粒に裸眼で般若心経を書く人の脳の活性度とか、そうしたものがトランスでございます。意図してできるようになるには、修養といいますか慣れが必要でございますが、無理やりやるとなると薬物でぶっとんだ状態になるのが手っ取り早いかもしれません、法に触れますが。
さて、このトランスの状態といいますのが、日本でいいますれば「神がかり」と申しましてな。アマテラスをイワトから出てこさせるためにアマノウズメが踊りだし神がかりとなった、というのが有名でございますが、……なんで神さまなのに神がかりになるのよ、というツッコミは本居宣長先生に怒られますので引っ込めまして、このアマノウズメ、トランスで忘我で気持ちよいエクスタシー状態でございますから、だんだんストリップになっていってしまって、周りにいた男たちがまた、その神がかりになったエロスにウッハァなトランスとなりまして「引きこもってんのに騒がしいんですけど」的にアマテラスが出てきて、めでたしとなるわけでございますな。
ここらへん、いわゆる宗教分類における「原始宗教」の構図なのですけれども。
まず、神が憑く、とか、神の言葉を語れる存在があらわれます。「モンスリ(物知り)」である場合は、その集団における歴史を、歌やメロディー、踊りなど心地よくで表現することも多いですが、「預言者」である場合は、トランスのもっとも気持ちよい状況下で集団が幸せに暮らすべき規律を思いついてしまったといったところでございましょうか。どちらにしても、現実の苦しみを、ふわりと飛び越えるのがトランスでありまして、そのトランス状態のとき、いわゆる賢者モードのとき、人間が満ちたりた平穏を導こうとするわけでございますね。セックスレスの夫婦に平穏はあるのか、という問いに逆面で通じる部分もございます。まあ、セックス抜きで賢者モードになる方法もあるのだ、ということでもありますけどな。
このトランス状態を一歩進めて、人間が天をあおぐ。砂漠の民(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)であれば月か星、森の民(神道、道教、ヒンズー教、ドルイド教)であれば太陽、安らぎや豊かさをもたらす天体に希望をみるわけでございます。人間の「手」は、ケモノやサカナを獲るために進化したというよりも、「果実」を採るためのもの、樹上に伸ばすために進化したのが「手」だという話がありますが、樹上よりもはるかに遠く「手」の伸ばせない場所にある球体に人間は憧れや畏怖をもつのでございます。球体に人間が魅かれるのは、人間がコミュニケーションをつかさどる顔が球体であるためと、やはり果実に球体が多いからでございましょう。
実りをつかさどる球体であるところの太陽は、砂漠の民だと「厳しい神」となりはしますけれど、もっとも目立つ天体である「太陽」に神聖を感じない文化はあまりないように思われます。
こうして天体に目をむける人間は、自然現象を暦というかたちで整理していく。こうしていきますと、だんだんと宗教が民衆に布教されていくかたちになっていくわけでございますな。いつなんどき、何が起こるかが、あの人にはわかるらしい、だから偉い、だからあがめよう、と。
アマノウズメの逸話は、このように、トランス、くわえてアマテラスという太陽=暦を示すものであると同時に、もうひとつ、性に関することも言及しています。
原始宗教の三本の柱が「トランス」「天体」「性」というものにございましてな、この性に関する取扱が多くの宗教で重要な戒律となってまいります。さきほどから、申しておりますように、賢者モード、トランスエクスタシーは平穏なる人間をつくりだす状態でございます。そして、セックスは、うまくすればこの状態をつくれるわけでございますな。性魔術のクロウリーをあげるまでもなく、道教にゆらいする房中術や、仏教にも交歓像(乱交をかたどった壁の彫像)とか、チベット密教の悟りの方法のひとつにも、ヒンズー教のシヴァの奥さんの興奮も、そういう感じでございます。
ただ、性行為は、やや暴力的な側面をももっておりまして、ゆえに、シヴァのリンガに歓喜する妻のカーリーは鬼より恐ろしい姿であらわされます。セムハム教(ユダヤ・キリスト・イスラムなどの一神教)でも、性に関しては抑制すべきものとされますのは、のべつトランスを得るためだけに性行為に及ぶのが浅ましい、……というより、権力を得る段階の宗教家がトランスを独占しようとしたものでもあるのかもしれません。
ともかく、子孫にも教義をつたえなければ人間の平穏さどころか、人間が滅亡してしまってどうにもならないわけでありますから、性に関しては繁殖行為として許されたり賞賛されたりするわけでございますが。もちろん、子を為すという神秘性を無視するわけにはいかないので宗教はその部分を後付したりしてうまいことやるわけでございます。もっとも、森の民の宗教では基本的には性におおらかだというのは、先のアマノウズメやシヴァとカーリーの例にもございますね。
さて、ようやく三大宗教の話をいたしましょうか。
いずれもいずれも、MAD映像として「トランス」チックであることは否定できません。たぶん、病み付きになると、本当にトランス状態になることは可能かと思われます。
三大宗教のなかではトランスにもっとも近づけるのはおそらく「ねるねる教」かと思われます。魔女という素材はそもそも「男根を持った女性像」「エクスタシーに至る原罪を忘れた女性」を意味しますので、性に関する問題もあつかっていなくは無いといえます。そもそも「魔女が大鍋をかきまぜる」というのも、性的な隠喩を多分にふくんでいて、日本神話だとイザナギ・イザナミがポコをもってこおろこおろとかき回しますし、ヒンズー教でも古代エジプト神話でもギリシャ・ローマ神話でも、まぜるという動作は「生み出す」「保つ」という象徴がつよい、子孫繁栄を意味しているものにございます。もうひとつ、天体あるいは球体にかんしては「ねるねる教」は一歩及ばずの感がありますが、後光と、「こうやってつけて」が一応それに該当しなくもないでしょう。
「ヴェルタース教」も、トランス、球体、性の三点とも大いにクリアしておりまして、三大のうちでは最も単純な宗教形態といえるやに思えます。あえて問題点をいうなれば、素材である魔王とその孫の伝導説話的でございまして、人物がふたりでてきてしまっていることから、信仰の集中となるべき本尊がやや弱まるという点でしょうか。「特別」を強調することで補っているととらえるべきか、むしろ逆効果であるか、宗教現象としては興味が尽きせぬところにございます。
熱狂的な「ドナルド教」においては、球体や性が剥落しているので、原始宗教として評価できない、というところでございます。ただし、素材がそもそも「道化」であることに着眼しますと、いちばん奥深いともいえるものと思われます。「道を化かす」あるいは「権力を馬鹿にして人たる道をしめす」というのが道化でございまして、やや隠者文学寄りといいましょうか、隠された真理はトランスの後におとずれるような予感を感じさせる興味深さがございます。
さて、このさき、原始宗教から発展していくには、現世利益が必要となってまいります。この宗教にすがったり、その本尊にいのったりすれば、どのように現世で利益があるのか。いちばん単純でいちばん難しいのは、心の平穏を与えることができる、という宗教の持ち味でありまして、現代の葬式宗教は本来そうした役目であるはずのものがビジネスとからんで無機質になってしまいましたが、はてさて、ニコニコ三大宗教の現世利益「この宗教に関わったらこんないいことがあった」というクチコミがどういうふうにか広まれば、本当に宗教団体が設立できそうな気がしなくもないのであります。
ま、教義と儀式と組織を整理しないと、本当の宗教団体にはほど遠いのではありますけれどもな。
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