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【芸能・社会】

まき子さん、初黒部 「裕次郎と見たかった」

2013年8月20日 紙面から

ひっきりなしに放水される黒部ダムで裕次郎さんに思いをはせる石原まき子さん=富山県立山町で

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 昭和の大スター、故石原裕次郎さんの代表作「黒部の太陽」(1968年公開)のロケ地、富山県立山町の黒部ダムが完成から50周年を迎え、19日に現地で記念セレモニーが行われた。裕次郎さんの妻で、石原プロモーション会長のまき子さん(80)も出席し、想像を絶する障壁を乗り越えてつくられたダムと映画に思いをはせた。まき子さんは「『黒部の太陽』に命をかけた」裕次郎さんが、心から愛した桜を植樹した。

 まき子さんが黒部ダムを訪れるのは初めて。ダムに到着したまき子さんは、まず171人の犠牲者の名が記された殉職者慰霊碑に献花し、深々と頭を下げた。まき子さんは「完成した“黒部”を裕次郎と見たかった」としみじみ。「元気なうちに見ないと裕さんに申し訳ない。心残りだった」と映画の舞台をようやく訪れ、ホッとした様子を見せた。途切れなく放水されるダムの壮大なパノラマをバックに、裕次郎さんの愛した桜も植樹した。

 「黒部の太陽」は、裕次郎さんが俳優生命をかけたこん身の映画。日活から独立し、63年に石原プロを設立した裕次郎さんは、大手映画会社で作る「五社協定」の圧力と資金繰りに苦労し、撮影では右手親指を骨折するなど困難を乗り越え、完成させた。

 映画製作で壁に直面した際、「裕次郎は桜の木が好きだった」というまき子さんは、桜にスコップで丁寧に土をかけた。また裕次郎さんが68年の映画公開日に記した「生涯心(に)残る日となることであろう」というメモの記念プレートが来年設置される。

 まき子さんは立山連峰を望む雄大なダムを前に「裕次郎は本当にすごい映画を撮ったんだなと思うと同時に、日本人はすごいダムを造ったんだなと感服した」と語った。「(裕次郎さんは)『来てくれてありがとう』と言ってくれてると思う」と静かに話した。

 前日の18日には大町市内で約1000人の観客を前に「黒部の太陽」の上映会と、トークショーを開催。昨年、石原プロは東日本大震災の復興支援を目的に、全国で157回「黒部−」のチャリティー上映会を開催したが、このとき大町市でも開いている。

 まき子さんはトークショー後、同市内の破砕帯(地層または岩石が粉々になっている。トンネル工事でぶつかると大量の水があふれる)を見学。ダム建設でも映画製作でも大きな壁となった難所を訪れ、「破砕帯を見ないと裕さんを語れないと思った」と感慨深そうに語った。

<黒部ダム> 富山県立山町にある日本最大級の水力発電ダム。アーチ式ドーム越流型で、高さは国内1位の186メートル、総貯水量は約2億立方メートル(東京ドーム約160個分)。1956(昭和31)年から工事が始まり、513億円の巨費と延べ1000万人の人手を投入。破砕帯に苦しめられ、171人の犠牲者を出しながらも7年後の63年に完成。世紀の大事業と呼ばれた。

<黒部の太陽> 木本正次の同名小説を映画化。裕次郎さんと俳優三船敏郎さん(故人)が共演し、1968(昭和43)年に公開。黒部ダム建設の苦闘を描いた物語。

 トンネル工事の出水シーンの撮影では、裕次郎さんが右手親指を骨折する事故も起きた。裕次郎さんの意向で長年映像ソフト化されなかったが、今年3月にブルーレイ&DVDで発売。映画のほかテレビドラマや舞台化もされている。

 

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