わが青春の国際学連:冷戦下プラハで9年半 元国際学連、石井保男さんが回想記

 ◇全世界を獲得したかった

 東西冷戦中、国際学生連合(国際学連)の日本代表としてチェコスロバキア(当時)に9年半滞在した石井保男さんの回想記『わが青春の国際学連』(社会評論社、2100円)が刊行された。1960年の安保闘争から50年。その記念企画の最後を飾るものだ。「全世界を獲得しよう」とした著者の数奇な運命には、冷戦史そのものが刻まれている。【鈴木英生】

 1959年、全日本学生自治会総連合(全学連)の主導権は共産党から共産主義者同盟(通称・ブント)へ移った。プラハの国際学連本部で活動する日本代表も交代させる必要があり、ブントにいた石井さんが派遣されることになった。

 石井さんは間もなく東京大医学部を卒業する予定だったが、しばらく将来を棚上げすることを決めた。当時の吉田富三・医学部長に報告すると、かつて尾崎秀実(ゾルゲ事件で逮捕)をかくまった話を聞かされ、「やるからには、徹底的にやってくれ」と激励されたという。

 石井さんは59年に出国。翌年の安保闘争で全学連は世界の注目を集め、国際学連内での発言力も増した。国際学連の大きな役割は途上国や植民地の学生運動支援だが、幹部の多くは東側のエリートで、大衆運動の経験がなかった。

 「大衆に呼びかける生き生きとした文言を知らない人ばかりで、声明や決議の草案は、かなり私が書くようになった」と石井さん。東側の唱える「反植民地主義」や「反帝国主義」は西側との覇権争いを正当化する言葉だったが、「植民地の学生と直接連帯していた私たちの言葉は違った」と語る。

 2、3年で帰国するはずが、皮肉にも、全学連の名を上げた安保闘争のために帰れなくなった。闘争の総括議論の末に全学連が分裂して、後継の代表を出せなくなったのだ。石井さんは「はしごを外されたが、開き直って活動に没頭した」。国内で対立する全学連各派も、国際学連の大会に来ると、石井さんと共に一つの団体のふりをした。

 既存の社会主義国に批判的な石井さんは、東側の代表に自国では読めない文献を貸すなどして、自分の考えを広めた。国際学連の周囲には、東側としては自由な雰囲気があったという。

 その雰囲気も、68年のチェコスロバキア自由化(プラハの春)の弾圧で消え、国際学連は活動停止になった。石井さんは西ベルリンへ移り、しばらく滞在した後、69年に帰国。73年に40歳で医師となり、今も現役だ。

 「今後の世界を考えるうえでも、冷戦の検証は必要な作業で、私の本を役立ててほしい。さらに、若い人が閉塞(へいそく)感を脱するためのヒントにしてくれれば。ブントが掲げた『全世界を獲得するために』という言葉は大げさだけど、それくらいの勢いがあったからやってこれた。そのことを知ってほしい」と話している。

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毎日新聞 2010年8月3日 東京夕刊



60年安保闘争から50年


60年安保闘争:50年 シンポや講演会など次々、今も混在する評価と傷跡

2010年7月 6日
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安保闘争から50年を機に東京大安田講堂で開かれたシンポジウム

 1960年6月15日、日米安保条約改定に反対する全日本学生自治会総連合(全学連)のメンバーが国会敷地内に突入し、混乱の中で東京大学生の樺美智子(当時22歳)が亡くなった。それから50年たった先月、安保闘争を振り返るイベントが東京都内で相次いで開かれた。その中での議論は、50年後の今もなお、さまざまな評価に傷跡も交じる戦後最大の大衆運動の姿を映し出していた。【鈴木英生、写真も】

15日に東京大安田講堂で開かれたシンポジウムは、近く公開予定の映画「ANPO」のダイジェスト版上映が軸だった。この映画を撮ったリンダ・ホーグランド監督、ノンフィクション作家の保阪正康さんらのほか、大作『1968』を昨年発表した後、ほとんど公の場に姿を見せなかった小熊英二・慶応大教授も登壇した。

 当時、同志社大の学生だった保阪さんは「あの運動は私の仕事の原点だ」と語った。安保闘争では、大学教員と学生の意見が近い例も多かった。樺の死後、当時の茅誠司・東京大学長は「警官の行き過ぎは明らかであり、学生を預かる者として抗議する」という声明を出している。司会の上野千鶴子・東京大教授がそのことを紹介し、高く評価した。

 安保闘争が途中から「民主主義を守る」運動に変質したことと、今の普天間問題が安保自体を問う姿勢につながらないことを重ねる議論もあった。このように、東京大でのシンポは「今生きている我々のために(安保闘争を改めて)記憶する」(小熊教授)という姿勢が印象深かった。

 60年安保闘争から9年後、全共闘の学生が安田講堂に立てこもり、機動隊に排除された。そんな場所でシンポが開かれたことも、運動の記憶を引き継ぐうえでの複雑さを象徴するかのようだった。別のイベントでは「大学を壊そうとした人たちに会場を貸すこの大学は懐が深い」と発言した人もいた。60年代末の全共闘運動と60年安保闘争を混同したようだ。

 早稲田大では同日、学生運動の元幹部らによる記念講演会があった。講師は加藤尚武・京都大名誉教授(哲学)と坂野潤治・東京大名誉教授(日本近代史)。内容は2人の専門分野に絡むもので、60年安保闘争とはほぼ無関係だった。だが、司会を務めたNPO法人理事の篠原浩一郎さんは「あの経験を引きずりながら学問を続けたお二人の話を、私たちの安保闘争の総括とできるのではないか」と語った。

 元幹部たちの闘争後の人生は多様だ。社会的に成功した人もいるが、大学教員になってから全共闘運動で学生側に立った人や、今も新左翼党派を率いる人も。安保闘争を主題にしない講演は、会場に来ない(来られない)元同志もいるという状況の複雑さを感じさせた。

 関連イベントの最後を飾ったのは、29日に新宿区内で開かれた佐藤優さんの講演会だ。元外交官で作家の佐藤さんは、60年安保闘争当時の指導的理論だった通称「姫岡国家独占資本主義論」について熱弁を振るった。大学入学(同志社大)は79年だが、同大には60年安保闘争の流れをくむ学生運動が残っていた。それに参加した佐藤さんは、今の日本が国家社会主義に近づいているのではないかと警鐘を鳴らし、「ブント(共産主義者同盟)の精神がつかんだ光を下の世代にも伝えたい」と話した。

 佐藤さんのように、全共闘後の学生運動にかかわった人は数少ない。安保闘争が「今と切れた歴史」として扱われるのも当然ではある。早稲田大での「60年安保闘争写真展」の会場に掲げられた全学連旗は引き継ぐ学生もなく、関係者宅で眠っていたものだった。とはいえ、10日間に計約1300人が同展を訪れた。若者が当時を知るスタッフに話を聞く光景も見られ、何がしかの「光」が継承されていることを感じさせた。





60年代のプラハ回顧 元IUS副委員長、冷戦下の9年つづる

2010722日(木) 朝日新聞夕刊より

 60年安保から半世紀。記念の出版が相次ぐ中、少し異色の回想録が出た。『わが青春の国際学連』(社会評論社)。著者は元国際学生連合(IUS)副委員長の石井保男さん(76)。全学連を代表してプラハの事務局に派遣されたが、安保闘争の総括などをめぐり母体は分裂。後継者が来ないため9年にわたり職にとどまった。稀有(けう)な経験を通して見た冷戦下、60年代の世界と日本が描かれている。

 「ずいぶんと遅くなりましたが、私を送り出した人と組織への報告書のつもりです」

 プラハに向け旅立ったのは1959年2月。東京大医学部の卒業を翌月に控えていたが、卒業すると学生でなくなってしまうので、卒業試験を半分残しての出発だった。

 運動に入るきっかけは医学部に進んだ55年の学園祭。米国の水爆実験の死の灰を浴び犠牲者が出た第五福竜丸事件があった翌年で、放射能の害毒を紹介する展示を企画。その時に知り合った仲間たちと学部自治会や全日本医学生連合の活動に参加し、58年には全学連の中央執行委員に選ばれた。医学生の国際セミナー開催が計画され、その交渉役という意味合いもあり、プラハ派遣が決まったという。

 到着した国際学連には東側からの代表しかいなかった。反ナチ運動を引き継ぎ、英国などの主導で46年に設立されたが、56年のハンガリー蜂起の評価をめぐり対立し、日本をのぞく西側は脱退し別の組織を立ち上げていたのだ。

 「私の立場はとても強かった。西側からはたった一人ですし、ゼンガクレンの活動は世界中に知られていた」

 世界中を飛び回った。キューバは3回も訪問し、ゲバラとも会った。パレスチナのガザ地区やキプロスなど紛争の現地にも足を運んだ。

 プラハで感じたのは国際情勢への人々の敏感さ。62年のキューバ危機では、「戦争は近い」と食料確保に走った。「日本では60年代は高度経済成長期とされますが、本来は朝鮮とベトナムという二つの戦争の恩恵を受けた発展だった。意識が島国のなかに閉じこもっていないでしょうか」

 プラハを去るのも国際情勢のため。68年、ソ連軍がチェコスロバキア(当時)に侵攻し制圧。国際学連は幹部が逮捕され機能を停止した。ベルリンへ逃れた石井さんは69年に帰国。その後、復学が認められ、現在も埼玉県で精神科医として働いている。

 いま痛感するのは「きちんと総括しない日本」だ。60年安保についても総括できていないが、一番できていないのは先の戦争だという。

 「ドイツはヒトラーのしたことをきちんと反省しないと、欧州で歩いていけなかった。口先だけではだめで、心からの反省をしないと欧州人として仲間はずれになった。それに対して日本は中途半端ですね」(渡辺延志)

 


安保闘争から40年余 国民投票法案「ノー」



元菓子大手社長「憲法守る心伝える」

 憲法改定の手続きを定める国民投票法案の審議が12日、衆院憲法調査特別委員会で大詰めを迎える。与党単独採決の可能性が高まるなか、国会前には朝から様々な護憲グループが集まり、慎重審議や廃案を訴えた。その中に、「60年安保闘争」に参加した元学生た
ちの姿もあった。
 「全日本学生自治会総連合」。色あせた水色の旗を掲げ、歩道で座り込みをしていたのは、60〜70代の男女。元全学連メンバーが中心だ。昨春、「9条改憲阻止の会」を結成し、3月からハンガーストライキを始めた。
 その輪に10日、京都から上京した新開純也さん(66)が加わった=写真右。政治の「現場」に立つのは三十数年ぶりだという。
 60年当時、京大教養部自治会委員長としてデモ隊を率い、安保反対を叫んだ。中退後も活動を続けたが、内部対立が重なり、一般からの支持も失った。
 心身共に疲れ、34歳だった75年、京大の先輩がいた和洋菓子大手「タカラブネ」に就職。経歴は社内でも知られ、経営側の一員とレて労働組合との交渉役も命じられた。マーケティングを学び、経営の面白さを知った。
 92年、社長に就任。バブル時代の事業の整理に取り組んだが、消費の低迷に加え、コンビニ業界との競争も強いられた。03年に民事再生法の適用を申請し、ブランドは新会社に引き継がれた。
 昨春、かつての仲間から「9条改憲阻止の会」に誘われた。学生運動でも企業経営でも挫折を味わい、最初は気が引けた。安倍首相の登場で危機感を強め、決心した。
 5月3日には、大阪で廃案を訴えるデモを計画している。「今は純粋に憲法9条を守るために抵抗したい。そんな思いを若い人たちに伝えないと」。かつて「岸内閣打倒」を目指した仲間たちと、岸氏の孫の安倍首相に挑むつもりだ。
(朝日新聞 2007年4月12日 木曜日 夕刊)

60年安保の同志再び

2006年6月16日(金曜日) 朝日新聞 朝刊



 かつて60年安保を闘った元全学連の「同志」たち約170人が15日、改憲阻止を訴えて国会周辺をデモ行進した=写真、筋野健太撮影。東大生、樺美智子さんの命が奪われた60年6月15日の国会突入から46年。平均年齢は70歳近い。高まる改憲論議に「死んでも死にきれない」と再び結集。
 「9条改憲を阻止するぞ」
 「平和主義を葬るな」と、雨の中、声を張り上げた。
 きっかけは、桃山学院大名誉教授の小川登さん(70)=大阪市=が教え子からもらった今年の年賀状。「改憲の動きに先生がどうなさるのか注目しています」とあった。安保闘争以後、政治運動からは距離を置いてきたが、1人で署名活動や国会傍聴を始めた。その活動に昔の仲間たちが共鳴し、この日のデモに。小川さんは「今は昔のような体力はない。70歳なりの闘い方で改憲の流れを断ち切りたい」。


     6/15行動に参加、賛同された皆さんへ 

9条改憲阻止の会 世話人  蔵田計成

あの日、現場でお会いした知友人の一人ひとりの笑顔を、そして、お会い出来なかった知友人のお顔を想い描きながら、キーを叩きはじめたところです。

参加された皆さん、互いにご苦労さまでした。札幌、江別、大阪で街頭行動に参加された皆さんにも敬意を表します。蔭ながら声援を送って下さった皆さんとも、明日への決意を共有したいと思います。それに、「声なき声の会」50名の方々にも心からエールを送らせていただきます。夜8時を期して、今年も、あの「国会南通用門」で献花されたそうで、その持続のしたたかさには畏敬の念すら覚えます。『たより』102を読ませていただいた限り、反戦、非戦、嫌戦への誓いは同質であると思いました。来年は、9条改憲阻止のための共通な接点が見出せるのではないかと、期待しています。

あいにく,当日のデモ参加者の知友人たちの多くとは、固い握手も、歓談もないままに、出会いだけで、その日は終わってしまいました。せめて、「また会おうな」と言葉くらいは交わしたかったのですが、そんな瞬時もなかったのが、唯一の心残りでした。でも、参加したという事実が、互いに交わし得た最大の言語であり、わずか1キロのデモ行進の肉体的代償となった「筋肉痛」が、友誼の証になったものと信じています。

やはり、当日も雨でした。確率的には、降水60%、曇り20%、晴れ20%、というのが、ネットで調べた過去5年間の降水確率です。当日の降雨についても諸説ありました。自然現象説に始まって、死者の感涙説、デモつぶしの政治的陰謀説など、真顔で語る人もいました。

そのような悪条件にも関わらず、当日は、200名を越す参加者(予想が的中!)があり、量的には上々の成功といえるでしょうか。出発時点では約170名でしたが、解散地点では230名近くに増えていました。この「増えたハプニング」については、後述します。その他、私達の青春を彷彿させたに違いない、若い学生諸君150名「個人参加グループ」の飛び入りを加えれば、老と若の対極世代による立派なデモ行進でした。

かって、闘わないための国民会議指導部の口実として「安保は重い」というセリフが喧伝されたた、遠い過去の記憶がよみがえります。安保闘争が始まったばかりの、59年初期でした。200名足らずの学生を指揮して国会デモをやっていた時期の「全学連書記局通信」風の表現を用いれば、実数400名近い隊列は「700名、堂々の国会デモ戦取」といった具合に、通達の見出しを飾ったものです。だが、そんなハッタリも、いまでは、「つわものどもの夢の後」です。

さらに、当時の全学連部隊は、国民会議の国会請願デモに対して、「お焼香デモ・ナンセンス!」と激しい批判をあびせたものです。ところが時代が過ぎ去って、批判したはずの立場とは逆な役柄を再演することになり、そのような歴史の巡り合わせの中に、大きな時代の変貌を感じ、苦笑を禁じえませんでした。しかも、隊列の中の若者から厳しい皮肉を飛ばされ、弁明して開き直るという苦々しい寸劇を演じる羽目になってしまい、ため息混じりの感慨を覚えました。

こんなエピソードもありました。先に触れたように、終着点で参加者が増えるというハプニングが起こりましたが、このようにデモの出発時に足並みがそろわない異常事態が発生したのは、新聞記事が原因でした。警備側との取り決めが二転三転して出発時間の変更を余儀なくされ、新聞報道の予告時間よりも早めに出発したからです。新聞記事にまで目配りをしないで、コトを進めてしまった、不注意が原因でした。

ところが、心配無用でした。遅れて参集された40名前後の人達は、突発的事態に対して機敏さを発揮し、無事隊列に合流を果たしました。その見事なお手並みは以下の通りです。

日比谷公園出発地点付近で、それらしき年輩者を探し出し、声をかけ合い、グループを作り、同時刻に野外音楽堂で集会中の自治労主催者に「強訴、直談判!」して、場内放送してもらったり、自宅の家族に「ネット検索」してもらって、デモ隊の動静を把握し、最後は、タクシーに分乗してかけつけたり、地下鉄に乗って国会議員面会所や、議員会館会議室を目指したそうです。

結局、60年安中派世代が引き起こした不始末を、同世代の経験、知恵、機転という連係プレーによって、互いに補完し合い、新しい連帯の輪を横に広げるという、予期しない結末を迎えることが出来たのは、救いでした。

久しぶりの邂逅には、興奮に近い感動を覚えました。おそらく、各自各様な思いを抱きながら、集まり散じたはずです。そこには、幾重も重なる世代が通過した、60年安保闘争という共通な原体験に寄せる思いが混淆していたのではないでしょうか。

そのような感慨とは別に、「いま、何故6/15だったのか」「そこにあったからだよ」と自問自答を試みてはみたものの、私自身が「呼びかけ人」の立場にありながら、明快な理由と根拠を提出することは出来ません。

確かなことは、歴史の逆動化現象が「剣が峰」に差しかかっているという深刻な歴史認識が、頭の中を駆けめぐっているという事実です。このまま、あと1歩を踏み越えれば、果てしない暗黒の世界に転がり落ちるに違いないという、歴史的教訓と、世代的経験に学んだ「確かな予感」に突き動かされながら、それを行動への逆バネにしているという事実です。

「9条改憲阻止!」という、たった1本のスローガンがもつ意味を、これほどまでに重く、ずっしりと背負い込んだ記憶は、あの「安保粉砕!」のスローガンを除いては存在していないような気もします。つまり、60年安中派世代にとっては、安保闘争が内面にひそむ「青春の原点」とするならば、改憲阻止運動は生きてきた証として重なり合う、「老いの原点」に位置付けようとしているのかも知れません。

その安中派世代にとっては、実に46年ぶりの国会デモでした。2〜3人を誘い合わせて参加したある友人は、60年安保闘争のあの挫折のあと、そのまま市井に在り続けた友人です。その友人は述懐していました。

「自分にとって過ぎ去った46年間は、昔流に言えば、『長い偽装転向の歳月』ではなかっただろうか、という気もする。それを裏付ける理屈もある。『果たして、自分は何をやり残したのだろうか…。しがらみも薄れたいま、何もやらないで、このまま終わってしまうと、きっと悔いが残るだろう』という思いが、日ごとに募るような気もするよ。」

おそらく、その友人は私同様にきっと忘れ物へのこだわりがあるに違いありません。その忘れ物を探すための、自己再生への旅立ちを試みようとしているのかも知れません。このような試みは、私や友人に限定するまでもなく、安中派世代に通底するような、共通な心象風景といえるかも知れません。

今回の行動への呼びかけに際して、留意したことが一つだけあります。それは、知友人達に対して不必要なプレッシャーを避けることでした。ところが、幾人かの知友人達にとっては杞憂でした。彼らは無意味な思惑を越えて、明確な意思表示をしました。

この事実こそは、私達にとっては大いなる希望です。生きざまの根底に流れている、このような土壇場に際してみるような、原点への回帰志向は、ほとんどの参加者が、容易に共有できる思いかも知れません。そのような思いの総和の一端が、1000通の呼びかけに対して寄せられた167通の賛同人であり、「6/15行動」に示された230名もの、最大公約数的な行動への動機や決意性だと確信しています。

私の出身校「早大安保全学連名簿」80名中、当日のデモ参加者は、現認できただけでも24名を数えました。なかには、46年ぶりに再会した仲間も3名〜4名いました。これは各種同窓会の人数を上回る数字ですから、老いたる者の心強さを実感させてくれました。おそらく、私同様「1度のぞいた井戸の深さは、終生忘れられない」のかも知れません。

問題は、この事実を確認した後の、その先にあります。9条改憲阻止運動の第二歩を、何を、どこから、どのように始めるか、共々知恵を出し合っていきたいと念じています。次の行動としては、ティーチインを予定しています。「9条改憲阻止! 私たちは何ができるか」。様々な立場や問題意識から意見を出し合って,次の行動への手がかりにしようというわけです。

皆さんのご意見を聞かせてください。どんなご意見、感想でも、明日への糧にしたいものです。1行でも、2行でも、心や、気持ちは伝わります。          

194-0021  町田市中町4-10-10  / fax   042-728-8024  携帯  090-3087-1714   メイル/ kurata@m2.ocv.ne.jp

追記   

      私の憲法第9条論・乖離論批判(レジュメ)     蔵田計成

第2次大戦中、すでに連合国側においては、太平洋憲章(41年)、カイロ宣言(43年)、ヤルタ協定(45年)にみるように、ファッシズム解体後の新しい国際的政治環境の中で、世界平和を実現・維持するための国際的枠組み作りが、具体的に検討されていました。

その基本理念は「国際平和主義」です。その平和理念を、一時的とはいえ現実政治の場において仮託・体現させようとしたのが日本国憲法9条です。その意味で、第9条は、世界史的教訓から学んだ、ある種の歴史的産物です。

ところが、憲法制定直後から、東西冷戦対立が始まりました。日本列島を反共不沈空母にするための占領政策の下で、政治的現実が、憲法理念を超えて先行し、乖離を始め、憲法は空洞化されました。

その意味で、河宮信郎も指摘しているように、日本国憲法は世界が平和を志向した、ある一時代の歴史の「隙間=瞬間」に生まれた憲法です。だから「憲法/押しつけ論」は、たんなる形式論理に過ぎないし、ましてや、憲法理念が具有する普遍的価値が揺らぐものではありません。

遅れて制定されたドイツ憲法は、始まったばかりの東西冷戦下で制定されたために、平和主義を憲法条項に規定しませんでした。しかし、ドイツは戦時領有下の領土を、フランス、ポーランドに割譲して、近隣諸国に対して自国の犠牲を払って謝罪し、ナチズムを徹底的に断罪し、戦前と決別しました。

これに対して、米軍統治下の日本では、天皇の戦争責任を不問にし、国民統合の軸として温存することによって、対ソ第3次大戦に備えるなど、強引な反動的反共・敵視政策を日米合作で演じてきました。その結果的な積み残しの一つが、近隣諸国への曖昧な戦後処理でもあったわけです。

その後も内部の矛盾を内攻させつつ、60年安保闘争の高揚を結節点として「軽武装・高成長路線」に転換させて、ひたすら経済大国への道を疾駆しました。だが、日米軍事同盟を規定する諸関係や基調路線は、東欧社会主義崩壊後も軌道修正させることもなく、いまや、アメリカ一極支配下の軍事一体化に示されるよに、半世紀を経て重大な転回点を迎えようとしています。

現在的には、先に触れたような戦後処理の曖昧さがもたらした現在的な国家間矛盾は拡大しています。しかも、その矛盾を誇大に喧伝し、利用して9条改憲という「世紀の陰謀」を企てようとしています。これほど、無謀で危険な愚策はありません。何故か。9条改憲は「平和主義を葬り去ること」を意味します。その限りで、現実と理念の乖離という政治的不整合や不都合がもたらす事態よりも、日米安保体制の矛盾の外化としての日米軍事一体化、戦争国家化、武断外交への道の方が、数十倍も、数百倍も不都合で、危険この上ない事態です。しかも、果たして何発の北のミサイルが致命的脅威をもたらすというのでしょうか。むしろ、改憲によって軍事的歯止めを取り払う危険の度合いの方が、遙かに深刻です。集団的自衛権の認定、核ミサイル武装化、徴兵制、軍事裁判復活など、自国の人民にとっても、断じて許せないことです。

戦争は、別な手段による政治の延長です。その悪しき政治としての戦争が、勝者に対しても、敗者に対しても、いかに愚かな代償を強いるか、これは明白な事実であり、過去、現在を貫く歴史の教訓ではないでしょうか。この歴史の教訓の中にこそ、9条改憲を阻止すべき最大の理由がある、と確信しています。


東京新聞2006年6月10日(土)朝刊

デモに行こう! 9条改憲阻止! 国民投票法案不要! 樺美智子追善!
6月15日 国会へ!

■2時〜3時 報告集会 場所:日本弁護士会館10階100会議室地下鉄各線とも「霞ヶ関」。優先順位:上京者・障害者・高齢者、入室不可は、隣接・日比谷公園の大噴水周辺で、待機、三々五々歓談
■3時40分 デモ出発 日比谷公園「霞門」、デモ・献花・国会請願
■5時〜6時 集 会  場所:衆院第2会館第1会議室、国会報告、問題提起:國広正雄氏、 報 告:9条をめぐる改憲阻止運動の現状

連絡先 〒160-000 新宿区四谷4-23 第1富士川ビル302 「9条改憲阻止の会」
問い合わせ 携帯 090-3087-1714  (蔵田)

呼びかけ人
青山到、味岡修、旭凡太郎、足立正生、井汲多可史、泉康子、奥田直美、栗山一夫、塩川喜信、最首悟、
平坂春雄、樋口篤三、望月彰、司波寛、鈴木達夫、鈴木迪夫、佐藤浩一、佐藤秋雄、
篠原浩一郎、仲尾宏、西村卓司、葉山岳夫、星宮昭生、前田知克、山中明、由井格
(世話人)代表 小川登、江田忠雄、蔵田計成、佐藤粂吉、平井吉夫、山田恭暉  

問い合わせ・連絡先  新宿区四谷4-23 第1富士川ビル302
「9条を守る会(仮)世話人会」

行動予定が更新されましたPDFがダウンロードされます


                行動アピール

 いま、「グロ−バリズム」という名の資本の妖怪が、地球上を徘徊しています。民族、宗教、文化のカベを突き抜け、資本主義的市場原理主義が世界を席巻しています。それは「ジャングルの掟」と言われる「弱肉強食」と同義であり、共同体の内外に広範な社会的格差、失業、貧困を生み出しています。そればかりか、無慈悲な競争を社会原理とするがゆえに、人々の心から、連帯感、共生観、思い遣り等の人間的な心の豊かさを奪い去ってしまい、いちじるしい格差社会を生み出しています。
 フランスにおいては、移民2世・3世の都市郊外暴動に続く、「新雇用法阻止」をめざした300万人の勝利的な街頭デモが展開されました。この街頭デモは、若年労働市場への新自由主義的な規制緩和、企業への柔軟化政策に対する労働者や学生の抵抗と反乱であり、議会制民主主義を越えた直接行動として、フランス的伝統の自己実現を図った闘いといえます。さらに、アメリカにおける移民法阻止を掲げた200万人の抗議デモも、現行の資本主義的繁栄が周縁部に波及・胚胎する矛盾を満天下に露呈しました。
 極東アジアにおいては、どんな事態が進行しているのでしょうか。「小泉靖国参拝」に端を発したせめぎ合いが、「独島」や「釣魚台」など国境をはさんだ政治的経済的対立として発現しています。これは、過去の帝国主義支配の結果としの抑圧国と非抑圧国との間の「国益」「民族益」という形をとった対立といえます。
 そうした事態を背景にして、アフガニスタン、イラク侵略戦争を嚆矢とした、アメリカの「テロ・ならず者国家」への先制攻撃論のしり馬にのって、帝国主義世界戦略の再編や戦略的転換と直接連動しながら、国内の「有事立法」や「周辺事態法」をもって本格化した日米軍事一体化をめざした、世界=極東軍事戦略の大転換がなされようとしています。そこには戦時体制への切迫した臨場感さえ伝わってきます。戦後60年余の歴史が、いまやかってない危険・破局・混沌の危機へと突き進んでいるかのようです。
 事態の本質は誰の目にも明らかです。万が一、国家権力の行使に縛りをかけていた憲法、とくに第9条の「平和主義」条項のタガが、いったんはずされてしまうと、事態はセキを切ったように悪夢の再現へと転がり落ちることは必定ではないでしょうか。最悪の事態への切迫感や危機意識を、行動への逆バネにして、おそまきながら行動を開始すべきではないかと考えるに至りました。
 今後、討論を深めていくのは当然としても、改憲阻止闘争がめざすべき唯一最大の目標は明快です。憲法9条が掲げている「戦争放棄(戦争しない)」(1項)と、その証としての「戦力の不保持、交戦権の否認」(2項)という二つの規定は、表裏一体をなしています。この第9条が掲げている「平和主義」をこそ、憲法理念として堅持するのは当然ではないでしょうか。
 平和主義に徹するその最大の理由はどこにあるでしょうか。そもそも、戦争というものは本質的には国家による政治的行為の延長として継起するものです。例えば、あの太平洋戦争の開戦理由も、「自衛のための戦争」として正当化され、「国権の発動」として引き起こされました。この事実が雄弁に物語っていることは、「侵略戦争」といえども「自衛のための戦争」という論理の詐術と、「国益論」を援用することによって、容易に合理化されてしまうということではないでしょうか。この歴史の事実から引き出すべき教訓とは何でしょうか。それは、「国際貢献」等の口実のもとに海外出兵を合法化するような危険と破滅への道ではなくて、「非戦」「反戦」「平和」「共生」への道であると確信しています。
 見逃すことができないのは、憲法と現実政治の乖離とその整合性という見え透いた理屈を押し立てて、改憲の正当化をはかろうとしている事実です。その背後では、「挙国一致」の国家的統合のカリスマとして、天皇制護持による民族主義や排外主義をも辞さない改憲への意図が露出しています。だが、「自衛軍」「集団的自衛権」を改憲規定し、日米軍事同盟の質的転換のもとで、アジア→中東→全世界に到る邪悪な侵略戦争への参加を合法化させることのなかに、どのような未来への希望があるというのでしょうか。
 一連の改憲策動の中で見逃すことが出来ないもう一つの問題点は、国の最高法規としての憲法に対する近代法的概念を原理的に逆転させようとしていることです。つまり、これまでの近代法体系における憲法概念は、国民の側が国家権力の行使に対して「縛り」をかけるものとして、憲法を位置付けていました。ところが、自民党改憲草案は、この憲法の概念規定のなかの主客の立場を、根本的に逆転させています。国家権力の側が、国民に対する「公の秩序」「公共の利益」を持ち出して、「義務」「責務」を課し、人民主権に対して逆規制を加えようとしていることです。
 「6.15国会突入闘争」から46年の歳月が過ぎました。あの60年安保闘争は、その後におとずれた「高度経済成長」と、その結果がもたらした「地球環境の深刻な破壊」という二つの経済的社会的状況にさらされる中で、固有の風化をとげた、といえるかも知れません。だが、そのこととは無関係に、いまや私達を取り巻く時代は、劇的な変貌を遂げており、政治的逆動化の真っ只中にあります。だが、多くの国民は、このような歴史への背理を決して許さないでしょう。国民の過半数が、「戦争放棄」「平和主義」に共感を示しているという社会的事実が明日への希望です。おそらく、いま眼前に進行しているこのような政治的事実と、過去の歴史の事実とを重ね合わせるならば、私達が、歴史の中から「真実」を取り出すことは可能であり、そのことが、限りなく未来への期待をつないでくれます。その期待感を実現するための唯一の手段は、いうまでもなく、私達一人ひとりが、今すぐにでも行動を開始することだ思います。
 私達は、これまで何をやり残し、何を為し終えなければいけないのか、歴史への現在的な関わり方を、互いに模索しているのではないかと思います。あらためてその延長線上に、「改憲阻止」をめざした行動への参加、支援、賛同、共感等のさまざまな関係性の構築を、誠実に呼びかけたいと思います。己の行動を最初の出発点にして、一人目の友人に語りかけ、二人目の知人につなげ、三人目の他人を求めて、連帯の輪を広げていきたいと思います。他の市民運動との合流も含めて一歩でも、二歩でも前に踏み出したいと思っています。私達の仲間内には、健康に不安を持ち、杖を頼りに参加を決意している人も少なくありません。でも、共通な想いは、ギリギリの決意を込めて改憲阻止を目指し、仲間への確かな波動を希求しているということです。
 併せて、志半ばで斃れた樺美智子さんや、おおくの御霊に対して、改憲阻止の決意を誓いたいと思います。世代を越えて、一人でも多くの人達が参加されるよう、心から呼びかけたいと思います。
             呼びかけ人一同

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北海道新聞 06/6/3 記事(8段抜きコラム)

元全学連 46年ぶりデモ

あの日と同じ「6・15国会周辺」

60年安保を闘った学生運動組織・全学連(全日本学生自治会総連合)の元メンバーたちが15日、憲法九条の改正反対を訴え、国会周辺でデモを行う10万人が国会を取り囲んだ大衆デモから46年。その後、当時の全学連関係者が集結しデモを行うのは初めてという。平均年齢70歳近い元学生たちは「若さは失ったが、平和への思いは変わらない」と意気軒昂だ。(編集委員 嵯峨仁朗)

平和への思い 今も変わらない

9条改正反対呼び掛け 樺さん追悼も

桃山学院大名誉教授の小川登さん(70)=大阪市=、著述業蔵田計成さん(71)=東京=ら33人が世話人・呼びかけ人となり企画した。みな当時の全学連の役員・主要メンバーだった人たちだ。

デモは15日午後4時、東京・日比谷公園を出発。46年前の「6・15デモ」で警官隊との衝突の際亡くなった女子学生樺美智子さんの遺影を掲げ、約一時間かけて霞ヶ関から国会周辺を行進する。樺さんが死亡した南通用門で献花を行う。今回は「国会突入」のない順法デモだ。

きっかけは、今年1月、小川さんに届いた教え子からの年賀状だった。「憲法改正の動きに、先生はどうなさるのか注目しております」と添え書きがあった。60年代の「政治の季節」が終わった後、政治運動から距離を置いてきた小川さんは「今こそ動かなければ」と心を揺さぶられた。「遺言状を書くつもりでの再出発だった」署名運動や国会傍聴など小川さんの動きを知った全学連時代の知人たちの輪が広がり、「6・15デモ」再現に行き着いた。軍国主義と飢えの時代を知り戦後民主主義の洗礼を受けた世代に、平和憲法は特別な輝きがある。

9条改正は見逃せない問題」と世話人の蔵田さん。「ここに至るまで、もっと何かできなかったのか、責任を果たしてこなかったという悔いがある。無念さを抱いて人生を終わりたくない」

蔵田さんらは5月下旬、全国の元全学連関係者ら千人にデモ参加を呼び掛ける手紙を送った。手紙を受け取った北広島市の主婦白石コウさん(65)は「あの後、それぞれ違う道を歩んできた同士がまた連帯できる」とうれしかった。全学連メンバーではなかったが、短大時代にデモに加わった。「当時は学生デモに市民がどんどん入ってきて大きく膨らんだ。今は政治への関心が低すぎる」と嘆く。15日は都合で参加はできないが、憲法を読む会など身近でできる運動で連携したいという。

約千通のうち、既に亡くなったり住所不明だったりで戻ってきた手紙も少なくない。

「賛同できない」と返事してきた人たちもいる。蔵田さんはいう。「いったい何人が再結集するのか、それもまた楽しみです」



あの日と同じ「6・15国会周辺」憲法9条を守れ! (東京新聞 2006年6月10日 朝刊)

元全学連46年ぶりデモ

60年安保を闘った学生運動組織・全学連(全日本学生自治会総連合)の元メンバーたちが15日憲法9条の改正反対を訴え、、国会周辺でデモを行う計画を進めている。1960年6月15日、日米安保条約改定に反対する学生、市民約10万人が国会を取り囲んだ大衆デモから46年、平均年齢70歳近い元学生たちは「若さは失ったが、平和への思いは変わらない」と意気軒昂だ。

 桃山学院大名誉教授の小川登さん(70)=大阪、著述業蔵田計成さん(71)=東京=ら33人が世話人・呼びかけ人となり企画した。みな当時の全学連の役員・主要メンバーだった人たちだ。

 デモは15日午後4時、東京・日比谷公園を出発。46年前の「6・15デモ」で警官隊との衝突の際亡くなった女子学生樺美智子さん=写真=の遺影を掲げ、約1時間かけて霞ヶ関から国会周辺を行進する。樺さんが死亡した南通用門で献花を行う。今回は"国会突入"のない順法デモだ。

 きっかけは、今年1月、小川さんに届いた教え子からの年賀状だった。「憲法改正の動きに、先生はどうなさるのか注目しております」と添え書きがあった。60年代の「政治の季節」が終わった後、政治運動から距離を置いていた小川さんは「今こそ動かなければ」と心を揺さぶられた。「遺言状を書くつもりでの再出発だった」

 署名運動や国会傍聴など小川さんの動きを知った全学連時代の知人たちの輪が広がり、「6・15デモ」再現に行き着いた。軍国主義と飢えの時代を知り戦後民主主義の洗礼を受けた世代に、平和憲法は特別な輝きがある。「9条改正は見逃せない問題」と世話人の蔵田さん。「ここに至るまでもっと何かできなかったのか、責任を果たしてこなかったという悔いがある。無念さを抱いて人生を終わりたくない」

 蔵田さんらは5月下旬、全国の元全学連関係者ら約千人にデモ参加を呼び掛ける手紙を送った。

 約千通のうち、既に亡くなったり住所不明だったりで戻ってきた手紙も少なくない。「賛同できない」と返事してきた人たちもいる。蔵田さんは言う。「いったい何人が再結集するのか、それもまた楽しみです」