[トップページ] [平成12年一覧][人物探訪]][210.7 昭和時代][222.07 中国:中華民国時代]
---------------Japan On the Globe(140) 国際派日本人養成講座 _/_/ _/ 人物探訪: 汪兆銘〜革命未だ成功せず _/ _/ _/ 売国奴の汚名を着ても、汪兆銘は日中和平に賭けた。 _/_/ 中国の国民の幸せのために。 -----------------------------------------H12.05.28 24,923部 ■1.失敗すれば、家族全体が末代までも批判される■ 今、父が計画していることが成功すれば、中国の国民に 幸せが訪れる。しかし失敗すれば、家族全体が末代までも 人々から批判されるかもしれない。お前はそれでもいいか。 汪兆銘は17歳の娘、汪文琳にこう問いかけた。時に1937 (昭和12)年。汪兆銘は国父孫文の大アジア主義を継承して、 日中の共存共栄こそ中国国民の幸せに至る道である、と確信し、 中国共産党や蒋介石とは異なる独自の道を目指した。 結果はこの言葉の後半そのままとなった。妻は獄死、子ども たちは海外にちりぢりとなった。汪兆銘本人は「漢奸」(中国 の売国奴)と今でも非難されている。そしてなによりも、彼が 幸せを願った中国の国民には、さらなる戦乱と、共産党独裁政 権のもとでの圧制という過酷な運命が待っていた。 汪兆銘を抜きにしては、近代中国の悲劇も、日中関係の不幸 も語れない。 ■2.革命の決心■ 1925年2月24日、孫文の病状が絶望的になった時、後継者 の筆頭として汪兆銘は代筆していた遺言を孫文に聞かせた。孫 文は満足そうにうなづき、「大賛成である」と言った。そして 3月12日、死の前日に署名をした。汪兆銘は自分の代筆した 遺書を、孫文が一字一句も直そうとしなかったことを生涯の誇 りとした。[1,p113] その遺書は、「余は国民革命に力を致すことおよそ四十年、 その目的は中国の自由平等を求むるに在り」から始まり、「現 在革命未だ成功せず」という有名な一句を含んでいる。 孫文は、1894(明治27)年、広州で最初の革命の兵を挙げ て以来、宮崎滔天など日本の朝野の志士の支援を受けて、革命 運動を続けていた。[a] 日露戦争後、東京には清国の留学生が1万人以上も滞在し、 日本の驚異的な発展に続こうとしていたが、汪兆銘もその一人 だった。1905(明治38)年、孫文の二度目の来日を機に、中国 同盟会が東京で設立され、汪兆銘はわずか22歳で書記長に抜 擢された。そして機関誌「民報」で健筆をふるった。24歳の 時に発表した「革命之決心」には次の一節がある。 革命の決心は、だれもが持っている惻陰の情、言うなら ば困っている人を見捨てておけない心情から始まるものだ。 たとえば子供が井戸に落ちていると聞けば、だれもが思わ ずその子を救いたくなるだろう。[2,p93] ■3.兵乱は絶えることなく■ 1912(大正元)年、辛亥革命が成功し、清朝は滅びたが、実権 は北洋軍閥の総帥袁世凱が握った。その後の中国の政情につい て、汪兆銘は「国民党史概論」において次のように論じている。 [1,p103] 彼(袁世凱)の死するや、部下の将領は四分五裂して蜂 起した。その混乱状態は、今日に至るまで全く収束されて いない。・・・それ以来北方の反革命家は大軍閥となり、南 方の変節せる革命党員は小軍閥となった・・・かくて14年、 兵乱は絶えることなく、中華民国は太陽なき暗黒となった。 1921(大正10)年、中国共産党が結成された。この時、レーニ ンの秘書マーリンが、上海での共産党代表大会に参加し、孫文 とも会って、新経済政策を吹き込んだ。また中国共産党員がコ ミンテルンの指示で、次々と国民党に入党し、主導権をとろう としていた。 孫文の遺書にある「革命未だ成功せず」とは、まさしくこの ような内憂外患の状況であった。 ■4.ソ連の魂胆■ 孫文の死後、国民党右派の中心人物となったのが、蒋介石で あった。蒋は、日本陸軍で4年ばかり学んだ後、1924(大正13) 年に新しく設立された黄埔軍官学校の校長となった。長年の失 意の経験から、革命には近代的軍事力が不可欠であるという孫 文の構想であった。 蒋介石はその前年にソ連を訪問し、その侵略的な意図をかぎ つけて、孫文に次のような報告をしている。 ソ連はまるで誠意を持っていない。・・・ソ連共産党の中 国に対する唯一の目的は中国共産党をその分身とするこ と・・・ 彼らのいわゆるインターナショナリズムとか、世 界革命とかも、その実はウィルヘルムU世の帝国主義とな んら変わることなく、ただ名前を変えて世間を惑わそうと するものだ。[1,p121] 蒋介石は孫文の死後、共産党勢力の排除に乗り出す。上海で クーデターを起こし、南京国民政府を設立して、武漢の国民党 中央と対立するまでに至った。 一方、汪兆銘も偶然、ソ連から派遣された国民政府最高顧問 ボロディンへのコミンテルンからの訓令の内容を知り、ソ連の 真意を知った。そこには、汪兆銘、蒋介石らを駆除すること、 クーデター後、コミンテルンの命令に従い党の改組を行うこと、 などの内容があった。中国共産党は、まさしくソ連共産党の手 先であり、それと組んでいることは、中国の自主性を奪われる ことであると気づいた。 こうして汪兆銘と蒋介石の見方が一致し、両者は協力して32 (昭和7)年、南京で国民政府を組織した。 ■5.汪兆銘・蒋介石の日中和平路線■ この前年、満洲事変が勃発していたが、汪兆銘は「一面抵抗、 一面交渉」という基本姿勢を示した。その前提は、孫文の遺訓 でもある「日中戦うべからず」であった。汪兆銘は青年時代に 日本で、アジアの自立と解放を学んだ。現在の日本は、国際的 な孤立や経済的苦境から大陸進出を企んでいるが、内心は中国 との協力、提携を求めているに違いない。軍事的には抵抗しつ つ、外交的には妥協と歩み寄りを求める。 33年(昭和8)年、塘沽停戦協定が締結された。35(昭和10)年 には、広田弘毅外相が議会での姿勢演説で、日中双方の「不脅 威・不侵略」を強調し、日本はアジアの諸国と共に東洋平和お よび、秩序維持の重責を分担する、と主張した。 この誠意に満ちた演説は、中国側に好感をもって迎えられ、 一週間後、蒋介石は次のような声明を発表した。 中国の過去における反日感情と日本の対支優越態度は、 共にこれを是正すれば、隣邦親睦の途を進むことができよ う。わが同胞も正々堂々の態度を以て理知と道義に従い、 一時の衝動と反日行動を押さえ、信義を示したならば、日 本もまたかならずや信義をもって相応じてくることと信ず る。[1,p190] このような形で、汪兆銘と蒋介石の指導のもと、日中和平路 線が着々と進められたが、これを喜ばない勢力もあった。35 (昭和10)年11月、国民党六中全国大会で、汪兆銘はカメラマン に扮した刺客から3発の銃弾を受けた。危うく一命はとりとめ たが、療養のため、ヨーロッパへ渡った。 ■6.「最後の5分間」から蘇生した中共軍■ 日中和平を喜ばない勢力の一つに、中国共産党があった。蒋 介石は、30(昭和5)年からの数次にわたる共産軍掃討作戦を進 め、36年頃には共産軍は数万人規模にまで落ち込み、蒋介石の 表現によれば、掃討戦は「最後の5分間」の段階に来ていた。 [3,p364-374] 共産軍が最後の拠り所としたのが、「一致抗日」をスローガ ンとして中国人の民族意識に訴える宣伝戦であった。各地で在 留邦人を狙ったテロ事件が続発し、日中和平を阻もうという動 きが激化した。汪兆銘は後に次のように述べている。 中国共産党は、コミンテルンの命令を受け、階級闘争の スローガンに代わるものとして抗日を打ち出していたので す。コミンテルンが中国の民族意識を利用して、中日戦争 を扇動しているの私は読みとりました。謀略にひっかかっ てはなりません。[2上,p246] 共産軍を「最後の5分間」から蘇生させたのが、36(昭和11) 年11月の西安事件であった。蒋介石が西安で共産軍掃討戦を 行っている張学良を督励するために訪れた時、突如逮捕監禁さ れた。8年前、父親・張作霖を日本軍に爆殺され、満洲から追 われた学良は、抗日意識の盛り上がりに乗じて、共産党と通じ たのである。 共産党がモスクワの指示を仰いだところ、スターリンは蒋介 石を釈放し、「連蒋抗日」を命じた。蒋介石を殺せば、国民党 軍により中共軍が壊滅せられ、汪兆銘がトップとなることを恐 れたものであろう。蒋介石を殺すべしと考えていた毛沢東は真 っ赤になって怒ったと伝えられている。[3,p374-380] 西安事件で蒋介石と共産党との間でどのような密約が交わさ れたのかは分かっていないが、蒋介石は国共合作・抗日へと方 針を急転換し、掃討戦を中止した。さらにこの7ヶ月後の廬溝 橋での日中両軍の衝突が起こり、ここに33年5月の塘沽停戦協 定から4年2ヶ月にわたる日中和平の時期は終わりを遂げた。 (31年9月の満洲事変勃発から、45年8月の大東亜戦争終戦ま でを「日中15年戦争」などと称する言い方があるが、この期 間は合計しても13年11ヶ月にしかならず、なおかつ4年2ヶ月 もの和平期間を無視している。学問的な用語というより、コミ ンテルン史観に基づくプロパガンダ用語と解すべきである。) ■7.我は苦難の道を行く■ 西安事件の直後、ヨーロッパでの療養から帰国した汪兆銘は、 国民党副主席の地位についていたが、戦いの陰で日中和平工作 を進めた。 人々は、簡単に抗日を国内統一の手段にしようなどとい うか、抗日戦争で負ければ我々は滅亡するのだ。いちかば ちかの賭けに出て滅亡した場合誰がどう責任をとるのか。 [3上,p136] 蒋介石は表に対日抗戦を叫びつつ、裏で汪兆銘に和平工作を 進めさせ、また反共を信じながら、表で容共を説いていた。し かしその間、国民政府軍は上海、南京、漢口と敗走を続け、重 慶にまで追い込まれた。そして撤退のたびに、南京、武漢、長 沙などの都市を焦土作戦で火の海とした。この状況下では、日 本側の条件を呑んで、和平を選ぶしかないのだが、それをすれ ば共産軍に蒋介石打倒の口実を与える。 中日戦争の見通しは明るくない。中国を救うには日本と の和平しかないと自分は考えており、近く重慶を出て、別 の地から和平工作を手がけるつもりだ。どこに抜け出そう と、戦争している相手国と和平ルートをつくる役割は、周 囲から非難中傷を受けるのみならず、危険も伴うに違いな い。しかし、自分が身を捨てる覚悟でにやり遂げるつもり だ。[3上、p166] 39(昭和14)年、汪兆銘は蒋介石に対して、「君は安易な道を 行け、我は苦難の道を行く」との書簡を送り、重慶からハノイ に脱出して、以後、単独で日本政府との交渉を進めた。それは、 冒頭の言葉にもあったように、成功すれば中国の国民に平和を もたらすが、失敗すれば末代まで「売国奴」の汚名を着せられ るまさしく「苦難の道」であった。 ■8.革命未だ成功せず■ 汪兆銘の重慶脱出と呼応して、雲南、四川、西康、貴州の四 省が同盟して、対日和平に立ち上がる根回しが進んでいたが、 蒋介石に阻まれてしまった。 汪兆銘は国民政府の分裂を避けたかったが、事ここにいたっ て、日本政府の援助のもとに、翌40年、南京に新政府を樹立し た。しかし日本政府も蒋介石政権との和平ルートを模索するな ど腰が定まらず、汪兆銘政府を正式に承認したのは8ヶ月も後 だった。 41(昭和16)年5月、来日した汪兆銘は、日本国民の熱狂的な 歓迎に感激した。また昭和天皇に拝謁し、日中間の「真の提 携」を願っているとのお言葉に、この一言だけで訪日目的の大 半は達せられたと述べた。「日中戦うべからず」との孫文の遺 訓を抱く汪兆銘は、昭和天皇と日本国民に相通ずる心を見いだ したのであろう。 同年12月8日、日米開戦。汪兆銘は次のように言った。 この戦争は間違いです。日本はアメリカと組んでソビエ トと戦わねばならないのです。真の敵はアメリカではあり ません。しかし、こうして開戦した以上わが国民政府はお 国に協力します。同生共死ということです。[4,p83] 44(昭和19)年3月、南京で病に倒れた汪兆銘は、名古屋で治 療を受けたが、11月10日帰らぬ人となった。南京空港から公館 までの道のりを民衆が詰めかけて、棺を迎えた。 翌年、日本が敗れ、南京政府も瓦解した。孫文を祀った中山 陵の傍らに作られた汪兆銘の墓は、蒋介石の指令で爆破された。 その蒋介石も共産軍に敗れ、やがて台湾に逃げ込む。 汪兆銘が国民革命に一生を捧げて救おうとした中国人民には、 共産党独裁政権のもとで、大躍進や文化大革命で数千万人が餓 死するなど、さらに過酷な運命が待っていた。そして今に至る まで一度も民主選挙で自らの政府を選んだことがないという点 では、清朝時代の人民と変わらない。「革命未だ成功せず」。 [b,c] ■リンク■ a. JOG(043) 孫文と日本の志士達 中共、台湾の「国父」孫文は、革命家としての30年のうち、 のべ約10年を日本で過ごした。その間、多くの日本の志士と友 情を結び、中国の為に一命を捧げた日本人志士も少なくない。 b. JOG(109) 中国の失われた20年(上) 2千万人餓死への「大躍進」 c. JOG(110) 中国の失われた20年(下) 憎悪と破壊の「文化大革命」 d. 「大アジア主義」講演 孫文(ホームページ抹消) ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) 1. 「人われを漢奸と呼ぶ」★★、杉森久英、文芸春秋、H10.6 2. 「我は苦難の道を行く・上下」★★、上坂冬子、講談社、H11.10 3. 「大東亜戦争への道」★★★、中村粲、展転社、H2.12 4. 「私の見た中国大陸五十年」、小山武夫、行政問題研究所、S61.8 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■前号「汪兆銘〜革命未だ成功せず」について Watanabeさんより 汪兆銘の日本への期待と信頼に対して、我々は何らかの形で 応えないといけないのだろうと感じています。汪兆銘を理解す ることがかつての日本のおかれた国際情勢を理解する新しい視 点としても必要なのでしょう。「現在革命未だ成功せず」との 思いを抱いて日本で亡くなった汪兆銘が中国においていまだに 「漢奸」の汚名を被っていることは、心が痛みます。せめて日 本国内においては彼の志を理解する人の輪が広がる事を願いま す。そのひとつとして彼をまつる神社があってもいいのだろう と思います。 ■ 編集長・伊勢雅臣より 日本統治時代の台湾で民衆のためにつくした森川清治郎巡査 は、義愛公と呼ばれ「日本人の神様」として祀られています。 (JOG108) 日本で汪兆銘の神社を作って「中国人の神様」と してお祀りするのも良いことでしょう。なにしろ日本は八百万 の神々が住みたまう「神の国」なのですから。
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