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■■ Japan On the Globe(319)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

        人物探訪: 山田良政・純三郎兄弟
                       〜 孫文革命に殉じた日本武士道
         清朝の圧政と列強の収奪に苦しむ民衆を見て、革命支援
        に立ち上がった二人の武士道精神。
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■1.複雑なる大陸■

     香港空港からバスに乗って北上1時間。大陸との「境界」に
    着く。パスポートを見せて香港からの「出境」手続きと大陸へ
    の「入境」手続きが必要だ。「境界」線をなす4メートルほど
    の高い金網フェンスの上にはさらに鉄条網が張られている。い
    まだに香港と大陸は別々の国家である。
    
     無事「入境」して、さらに2時間ほど東北方向に走ると、よ
    うやく恵州市に着く。広東省の重点発展地区として、シェル、
    フィリップス、松下、ソニー、三星など、国際的大企業が製造
    拠点を置いている。「人口はどれくらいですか」と案内の人に
    聞くと「公式統計では320万人ですから、実態は4,5百万人っ
    てとこですかね。」とはなはだ心許ない。
    
     荷をほどいた高層ホテルの21階の部屋から、外を眺めると、
    夕暮れの街並みに、砂塵かスモッグか、濃いもやがかかってい
    る。近くの大きな交差点には何故か信号がなく、乗用車、バス、
    トラック、オートバイが我先に突っ込んでくるので、身動きが
    とれなくなっている。
    
     中国はまさに複雑なる大陸国家である。そしてこの複雑なる
    現代中国が形成されたのは、孫文の辛亥革命以来の、これまた
    複雑な紆余曲折があったからである。その最初の火ぶたはこの
    恵州で切られた。その最初の蜂起に日本人志士が参加し戦死し
    ている、と案内人に言うと、「えっ。そんな事があったんです
    か。」と驚いた。

■2.革命前夜の中国へ■

     その日本人志士・山田良政は明治元(1868)年1月元旦、津軽
    藩士の長男として、青森県弘前で生まれた。長じて青森師範学
    校に学んだが、食事を不満とする寮騒動の首謀者として退学処
    分となった。本当の首謀者は友人だったのだが、その家が貧し
    く、退学になると学問を諦めるしかないので、自ら身代わりに
    なったという。古武士のような無私の心を持っていたのだろう。
    
     同郷の著名な言論人・陸羯南(くがかつなん)を頼って東京
    に出た。陸から「日本として、いま大切なのは清国の研究であ
    る」と諭された良政は、中国語の勉強に励み、北海道昆布会社
    の上海支店勤務を命ぜられて、大陸に渡った。
    
     1894(明治27)年8月、日清戦争が勃発し、良政は陸軍通訳
    官として従軍する。この頃には良政は完璧に中国語を話し、有
    数の中国通となっていた。戦争終了後、海軍に依嘱されて、ロ
    シア、ドイツ、フランスなど列強の中国の利権を狙う動きを探
    った。
    
     北京に出た良政は、清朝の圧政と列強の収奪に苦しむ民衆を
    目の当たりにし、諜報活動を続けながら、在野の志士として清
    朝政府内に台頭してきた康有為ら、変法(改革)派と親しく付き
    合うようになった。彼らは清朝を救うために、日本の明治維新
    に習って、上からの改革を断行しようとしていた。

■3.決死の北京脱出■

     1898(明治31)年6月、康有為らは光緒帝を擁して近代国家
    建設に乗り出し、新式陸軍の創設、民間の商工業・農業振興な
    ど、次々に新法を布告した。しかし光緒帝の叔母・西太后を担
    ぐ守旧派は、9月21日、武力をもって変法派を弾圧した。
    光緒帝は幽居の身となり、康有為はかろうじて逃げ延びること
    ができたが、同志6人は捕らえられ、刑死した。いわゆる「戊
    戌(ぼじゅつ)の変」である。
    
     その晩、良政のもとに日本人同志が集まっている所に、変法
    派の侍講(皇帝の教授役)・王照が飛び込んできた。極度の興奮
    に顔色は青ざめ、手足をぶるぶる振るわせて、守旧派のクーデ
    ターが起こったことを伝えた。皇帝を救わねば、という王照を
    説得し、背広を着せて、良政は戒厳令下の深夜の都を脱出しよ
    うとした。見つかったら最後、良政も命はない。
    
     小舟を雇って天津に向かう。途中、総督府の蒸気船とすれ違
    って、臨検を受けるかと緊張したが、覚悟を決めて酒盛りを始
    めると、先方は疑いもかけずに通り過ぎていった。ようやく天
    津に着いて、停泊していた日本の警備艦・大島に王照を収容し
    た。そこに清朝の捕吏がやってきたが、艦長・荒川中佐は毅然
    たる対応で撃退した。この後、王照は日本に亡命し、良政の要
    請で陸羯南にかくまわれた。この事件で、良政は革命同志の間
    で一躍、有名になった。

■4.孫文との出会い■

     中国の革命運動を支援する犬養毅(後の政友会総裁、首相)
    は同様に康有為も日本に亡命させた。おりしも1895(明治28)
    年に広州での武装蜂起に失敗した孫文が日本に来ており、犬養
    らは両者を協力させようとするが、うまくいかない。康有為や
    王照ら変法派はあくまでも清朝の改革を目指していたが、孫文
    ら革命派は清朝を倒して漢民族による中国を作らねばならない、
    と考えていたので、所詮、妥協の線を見出すことはできなかっ
    たのである。康有為らが傷心を抱いて日本を去っていくと、日
    本の志士たちの気持ちは急速に孫文の革命派に傾いていった。
    
     1899(明治32)年7月、孫文は神田三崎町に居を構えていた
    良政を訪ねた。同志たちから孫文の話は聞いていたが、会うの
    は初めてであった。良政はすでに清朝の改革だけでは清国は救
    われない、と痛感していたので、孫文の革命思想を聞いて、た
    ちまち意気投合し、その場で同志としての支援を固く約束した。
    
     1900(明治33)年早春、良政は5月に開校となる南京同文書
    院の教授兼幹事として赴任することになった。この書院を設立
    したのは東亜同文会。「同文同種」である日本と中国の提携を
    早くから説いていた貴族議員議長・近衛篤麿を会長とし、「支
    那を保全する」「支那の改善を助成する」ことを目的としてい
    た。陸羯南も会員に加わっており、良政の中国に関する知識と
    語学力を買って、強く教授に推したようだ。この南京同文書院
    は将来の日中提携のための人材育成を目的としており、第一期
    生15名の中には弟の純三郎もいた。
    
     この前年秋に、良政は弘前で妻とし子を迎えていた。良政は
    「落ち着いたら迎えにくる。それまでは両親を頼む」と言って、
    あわただしく上京し、そこからさらに南京に渡ったわけだが、
    これが永久の別れになるとは知る由もなかった。

■5.台湾総督府の革命援助■

     その頃、中国では義和団の暴動が華北一帯に広がっていた。
    北京も暴徒に占拠され、公使館区域を守るために、柴五郎中佐
    率いる日本軍将兵が獅子奮迅の活躍をしていた頃である[b]。
    
     孫文は義和団の乱と清朝の衰退を見て、革命の好機到来と、
    7月に香港海上に停泊する佐渡丸の船中で、宮崎滔天(とうて
    ん)ら日本人志士たちと、蜂起の場所を恵州と定め、具体的な
    手筈を整えた。その後、孫文は訪日して資金・武器・弾薬を調
    達しようとしたが、思うように集まらない。そこに良政から、
    台湾へ行って総督府民政長官・後藤新平と交渉するよう連絡が
    入った。後藤新平は良政の叔父で初代弘前市長、後に衆議院議
    員となった菊池九郎に目をかけられ、親交を続けていた関係で、
    良政とも懇意だった。孫文はその勧めに従って、9月27日に
    台湾に赴く。
    
     良政も同文書院の教授を辞して、同志と共に台湾に向かう。
    この時、弟の純三郎は、なぜ俺を入れてくれん、と良政の同志
    に怒りをぶつけた。良政は同志に頼みこんで「俺はこの運動に
    入って死ぬつもりをしている。兄貴が死ぬのに、弟まで誘い込
    むことはないじゃないか」と言った。
    
     孫文と良政は台北で落ち合って、後藤新平と台湾総督・児玉
    源太郎に会い、恵州挙兵の援助を求めた。児玉は、革命軍が恵
    州を占領し、海岸線のある陸豊、海豊に着いた時に、3個師団
    分の武器を手渡そうと約束をした。日本が後押しして親日革命
    政権が華南に出来れば、という目論みがあったようだ。
    
■6.破られた革命軍支援の約束■

     孫文は日本の援助があれば革命は成功すると自信を持ち、た
    だちに秘密結社三合会の首領・鄭士良に蜂起の指令を送った。
    それに従って鄭士良は10月6日、恵州三洲田で蜂起した。こ
    れが中国革命の最初の烽火となった「恵州起義」である。
    
     孫文は台湾を基地として、恵州革命軍に指令を与えつつ、児
    玉総督・後藤長官と会談を重ねた。一方、良政は孫文の命を受
    けて、海豊で兵を挙げるべく現地に入った。
    
     ところが、たまたまこの時、日本では内閣交代があり、山県
    有朋から政権を引き継いだ伊藤博文内閣は、西洋列強との協調
    を方針として、中国の内政への不干渉政策をとり、孫文への武
    器提供や日本人将校の革命軍への協力を厳禁した。これで児玉
    総督の武器供与の約束もすべてご破算になってしまった。
    
     事ここに至っては蜂起の継続は不可能と判断して、孫文は海
    豊にて挙兵準備を進めていた良政ら同志数人を鄭士良の軍営に
    派遣し、状況説明と臨機の処置を一任した。この役は良政が自
    ら買って出たようだ。もともと津軽武家の生まれで、貧しい友
    人のために退学の身代わりまでしてやる良政のことである。自
    らの口利きで日本が革命援助を約して孫文らが立ち上がったの
    に、政権交代とは言え約束を裏切る結果となってしまった。良
    政が耐え難い思いをした事は想像に難くない。孫文の密使とし
    て革命の最前線に赴くことは、せめてもの罪滅ぼしであったろ
    う。
    
■7.良政の最期■

     良政らが鄭士良軍営に到着した時は、すでに弾薬は尽き果て
    ていた。良政の説明を聞いて鄭士良は革命軍の解散を決意した。

     密使としての役割はこれで済んだので、本来なら良政がこれ
    以上、革命軍につきあう義理はなかった。しかし良政はあえて
    撤退する軍と行動をともにした。敗軍を見捨てて立ち去ること
    は津軽武士の誇りが許さなかったであろうし、また祖国日本が
    革命援助の約束を破った負い目もあったろう。
    
     撤退する革命軍の背後から清国官軍が襲いかかった。10月
    22日、恵州東方の三多祝において、良政は殿(しんがり)と
    なって戦う最中に捕らえられた。中国服をまとい、荒縄を腰に
    巻いていて、日本人とは名乗らないまま処刑されたという。遺
    品の金縁眼鏡や千ドルという大金から、指揮官・港兆鱗は日本
    人の宣教師か何かであろうと思い、国際問題になることを恐れ
    て、遺体を埋葬したあと厳重な箝口令を布いた。

■8.孫文の情義■

     12年後の1912(明治45)年、孫文はようやく辛亥革命に成
    功し、翌年、準国賓として来日して、東京谷中の寺院・全生庵
    に「山田良政之碑」を建設した。この時に孫文は次のような追
    悼の辞を述べている。
    
         恵州の失敗は決して戦いの失敗ではない。日本政府がも
        しも前内閣の方針を守ったならば、児玉氏も依然その方針
        を改めずに我々を援助し、武器の輸出と将校の従軍とを禁
        じなかったであろう。
        
         従って余が内地潜入の計画も破れずに、その上、優秀な
        兵器と軍事知識を持った有能将校の指揮を得て、士気はこ
        れが為に振い、その勢いをもって進撃したならば、恐らく
        天下の情勢は今はからざるものがあったであろう。革命軍
        も挫折せず、君も亦断じて死なずにすんだであろう。
        [1,p74]
        
     この時に孫文は、良政の両親と未亡人とし子と会見し、「良
    政さんが中国革命のために、外国人として初の犠牲者となって
    下さったことを、全中国国民を代表してお礼申し上げます」と
    述べた。
    
     孫文は1918年の夏には、部下を恵州に派遣して、良政の遺骨
    を探させたが見つからず、やむなく持ち帰った三多祝の土を純
    三郎に手渡した。さらに1919(大正8)年には幕僚を使わして、
    弘前の山田家の菩提寺・貞唱寺にもう一つの碑を建て、自ら碑
    文を書いた。
    
         山田良政先生は弘前の人なり。康子閏八月、革命軍恵州
        に起つ。君身を挺して義に赴き、遂に戦死す。鳴呼(あ
        あ)其人道の犠牲、亜州(アジア)の先覚たり。身は湮滅
        (いんめつ)すと雖(いえど)も、而も其(その)志は朽
        ちず。

     孫文は不屈の革命家であると同時に、情義に篤い人物だった。

■9.純朴なる日本武士道の発露■

     良政の弟・純三郎は、兄の遺志を継いで、長く孫文に付き従
    ってその革命運動を助けた。辛亥革命の成功の後、孫文は中華
    民国臨時大総統に就任したものの、北洋軍閥の雄・袁世凱に妥
    協して総統を譲った。しかし袁世凱は帝政復活を目論み、それ
    に反対する孫文は第二革命を企てる。以後、中国の革命運動は、
    各地の軍閥や共産主義勢力、さらには日本を含む列強が入り乱
    れて複雑な展開をしていく。
    
     孫文は不撓不屈の革命家生涯を、1925(大正14)年3月12
    日に終えた。満58歳だった。肝臓ガンが悪化して病床につい
    て以来、純三郎は終始、枕頭を離れずに世話を続けた。「革命
    未だ成功せず」という有名な遺書には、臨終に立ち会った家族
    後継者十数名が署名したが、純三郎は異国人なので遠慮した。
    
     純三郎は、その後も長く上海に住んで、革命の行く末を見守
    りつつ、時折、蒋介石や日本政府に献言を行ったが、果てしな
    く乱れる大陸情勢に為す術はなかった。日本の敗戦とともに、
    五十余年住み慣れた大陸を引き揚げ、1960(昭和35)年、東京
    にて83歳の生涯を終えた。1976(昭和51)年、弘前の貞昌寺
    境内に兄良政の記念碑と並んで、純三郎の記念碑が建てられ、
    蒋介石の筆になる「永懐風儀」(永遠に君の情誼を忘れず)の
    碑銘が刻まれた。
    
     孫文の革命が始まってすでに百年以上も経ったが、今もなお
    大陸では複雑怪奇な情勢が続いている。しかし少なくともその
    起点において示された山田良政・純三郎兄弟の義挙は、純朴な
    る日本武士道の発露であった。
                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(043) 孫文と日本の志士達
   中共、台湾の「国父」孫文の革命運動を多くの日本人志士が助けた。 
b. JOG(222) コロネル・シバ〜1899年北京での多国籍軍司令官
   義和団に襲われた公使館区域を守る多国籍軍の中心となった柴五郎
   中佐と日本軍将兵の奮戦。 
c. JOG(140) 汪兆銘〜革命未だ成功せず
   売国奴の汚名を着ても、汪兆銘は日中和平に賭けた。中国の国民の
   幸せのために。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 結束博治、「醇なる日本人」★★、プレジデント社、H4

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