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        _/  _/    _/  _/           Japan On the Globe (43)
       _/  _/    _/  _/  _/_/      国際派日本人養成講座
 _/   _/   _/   _/  _/    _/    平成10年6月27日 2,581部発行
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_/_/       地球史探訪:孫文と日本の志士達
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_/_/           ■ 目 次 ■
_/_/   1.国父孫文の生誕百年式典に招かれた日本人志士遺族
_/_/   2.宮崎滔天との出会い
_/_/   3.中国・台湾で祀られた日本人志士
_/_/   4.東京での中国革命同盟会結成
_/_/   5.中華民国の成立
_/_/   6.桂首相との日支協力の密約
_/_/   7.大アジア主義と東洋王道文化
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■1.国父孫文の生誕百年式典に招かれた日本人志士遺族■

     1966年11月12日、孫文生誕百年を記念する大式典が、
    政府主催のもとに北京で盛大に挙行された。故周恩来総理は、
    その記念演説のなかで「孫中山(孫文)先生の理想は、いまわ
    れわれの手のなかで実現されつつある」と述べ、中国はアヘン
    戦争以来、革命の歴史を積みかさねて今日の偉大な勝利をかち
    取ったのであるが、そのなかで、孫文の果たした役割は、永久
    に消えることはないであろう、と語った。この孫文の生誕百年
    祭には、孫文の独立革命を援助した多くの日本人志士の遺族も
    招かれたが、そのなかには、有名な宮崎滔天の遺児龍介・白蓮
    夫妻の姿も見られた。[1,p14]

 中共、台湾の両方から「国父」として、今も尊崇を受けている孫
文は、革命家としての30年のうち、のべ約10年を日本で過ごし
た。その間、多くの日本の志士と友情を結び、中国の為に一命を捧
げた日本人志士も少なくない。

■2.宮崎滔天との出会い■

 19世紀末の清国は、600万人足らずの満洲人が政府高官や軍
幹部を独占して、4億人の漢民族を支配する専制国家であり、20
0年の泰平に馴れて、政府は腐敗しきっていた。孫文は日本の明治
維新をモデルに、漢民族による近代的独立国家を作ろうと、「滅満
興漢」を掲げて、1895年(明治28年)広東での最初の武力蜂起を行
うが、失敗、海外に高飛びした。

 この孫文に目をつけたのが、日中提携によるアジア独立を目指し
ていた宮崎滔天であった。滔天は、横浜に潜伏していた孫文を見つ
け出し、語り合った。

     支那四億万の蒼生(人民)を救ひ、東亜黄種(アジア黄色人
    種)の屈辱を雪(そそ)ぎ、宇内(天下)の人道を恢復(回
    復)し擁護するの道、唯(ただ)我国の革命を成就するにあり

 と述べる孫文の悲壮の語気に、滔天は、

     誠に是(これ)東亜の珍宝なり。余は実に此時をもって彼に
    (心を)許せり。

 と後に記している。孫文もまた初対面の滔天の印象を「他人の急
を救わんとのこころざしやみがたき…現代の侠客」であると評した。 
[1,p33]

 宮崎滔天を通じて、孫文は日本の政府高官や志士達に紹介され、
人脈を築いていく。後の政友会総裁、首相の犬養毅、アジア各国の
独立を支援した頭山満などの知己を得た。

 この頃から、孫文は「中山」と号するようになった。日比谷公園
近くの中山忠能公爵(明治天皇のご生母・中山慶子の父)邸の前を
通ったとき、その表札を見てつけたという。この号が、今や台湾の
大通りの名になり、また生まれ故郷が中山市と改称されたいわれに
なっている。[2,p275]

■3.中国・台湾で祀られた日本人志士■

 孫文の革命への志に深く共鳴した一人に山田良政がいた。日本に
よって上海に建てられた東亜同文書院の教授をしていた山田は、19
00年(明治33年)、孫文とともに広東省恵州で兵を挙げるが、捕ら
えられ、殺害される。中国革命のために一命を捧げた最初の日本人
となった。

 孫文は山田の死を悲しみ、郷里弘前市に建てられた碑に、次のよ
うな文を寄せた。

     山田良政先生は弘前の人なり。康子閏八月、革命軍恵州に起
    つ。君身を挺して義に赴き、遂に戦死す。鳴呼(ああ)其人道
    之犠牲、亜州(アジア)の先覚たり。身は湮滅(いんめつ)す
    と雖(いえど)も、而も其(その)志は朽ちず

 1927年(昭和2年)11月4日、中国国民党は山田良政の建碑を
議決し、孫文の眠る南京、中山陵に建立した。

 台湾の忠烈祠には、後の中華民国のために命を捧げた33万人の
将兵が祀られている。日本軍との戦闘での死者も多い。その中で山
田良政はただ一人の日本人として、今もここに祀られている。

■4.東京での中国革命同盟会結成■

 1905年(明治38年)、日露戦争における日本の勝利は、アジア
の人民に独立への大きな希望を与えた。清国からも、2万人とも3
万人とも言われる留学生が日本にやってきた。孫文は滔天らの支援
を受け、「中国革命同盟会」を結成し、約3千の会員を集めた。

 法政大学に留学中であった汪兆銘も参加し、機関誌「民報」の編
集に携わった。民報は留学生や本国の青年達に革命への情熱を点火
した。当時、湖南で農民であったまだ十代の毛沢東も日本で発行さ
れた民報の愛読者だったといわれる。[1,p47]

(汪兆銘は、その後、日中戦争中に反共親日の和平運動を起して、
蒋介石に対立し、40年に南京国民政府を樹立した人物である。)

 しかし清国は日本が革命運動の温床となっていることから、清国
人学生の取り締まりを強く要求し、日本政府はこれを受け入れた。 
日本人志士達は強く反対したが、憤慨した数千人の留学生は帰国し、
これが後年の中国での排日運動の原因となったと言われている。

■5.中華民国の成立■

 1911年(明治44年)武昌での革命軍蜂起が成功すると、これに
呼応して、全18省のうち、15省で革命が成功した。辛亥革命で
ある。武昌での蜂起に加わっていた日本人志士約20名のうち、数
名が死傷した。

 日本人志士はさらに陸続と集まって、辛亥革命に参加した。北一
輝はこの時、参謀役として働いている。山田良政の弟純三郎と滔天
は、香港にいた孫文を出迎えにいった。

 滔天らに迎えられて、1912年(大正元年)1月1日、南京に入っ
た孫文は、大総統として、この日を民国元年とし、列国に向かって、
中華民国の成立を宣言した。犬養毅、頭山満の両巨頭を始め、滔天
その他の多くの志士たちも総統就任式に参加し、感激を分かち合っ
た。

■6.桂首相との日支協力の密約■

 その年の12月に桂太郎による第3次内閣が組閣された。滔天は
政界の陰の実力者秋山定輔を通じて、桂首相に孫文との協力を説い
た。孫文は国賓として来日し、桂首相と語り合う。その結果、

・新支那の建設は孫文にまかせる。日本は孫文の新政権を支援し、
  日支協力して、満洲を共同開発する。
・日支協力してダーダネルス海峡以東のアジア民族の自立達成(解
  放)に助力する
  
などの密約を交わした。日本と中国が相協力して、アジア独立のた
めに立ち上がるという孫文や滔天の大アジア主義が、両国の正式な
政策として採用されたかに見えた。

 しかし、桂太郎はまもなく急死し、孫文も袁世凱にその地位を奪
われて、失脚した。こうして日支提携密約は実現しなかった。孫文
は東京で、犬養、頭山、宮崎らの助力を得て、1914年(大正3年) 
中華革命党を結成する。まことに不屈の革命家ではある。

       しかし、われわれはまだ、日本に絶望してはいない。それ
      はなぜか、自分は日本を愛し、亡命時代に自分をかばってく
      れた日本人に感謝しているからである。また、東洋の擁護者
      としての日本を必要とするからである。ソヴィエトと同盟す
      るよりも、日本を盟主として、東洋民族の復興をはかること
      がわれわれの希望である。

 1923年に孫文がある日本人に語った言葉である。[1,p61] 以後
の孫文はソ連からの協力を得る方向に傾いていくが、孫文は日本と
の提携を諦めてはいなかった。しかし、共産主義勢力という新たな
攪乱要因も登場して、日支提携の望みはますます遠ざかっていく。

■7.大アジア主義と東洋王道文化■

 1924年軍閥間の争いに乗じて、馮玉祥は北京を占領すると、孫文
を大総統に迎えた。孫文は上海から北京に向かう途中で、わざわざ
日本により、神戸高等女学校で「大アジア主義」と題した有名な講
演を行い、こう述べている。

     日華両民族は共同戦線を結成してインドの独立を支援すべき
    である。中国と日本とインドの三国が一体となって起ちあがる
    ならば、西欧の帝国主義など恐れることは何もない。西欧の文
    化は、鉄砲や大砲で他人を圧迫し、功利強権をはかる覇道の文
    化である。これに対して東洋の文化は、仁義道徳を主張する王
    道の文化である。われわれは東洋の王道文化をもって、西欧の
    覇道文化に対抗しなければならない。すなわち仁義道徳を主張
    するということは、正義公理によって西欧人を感化することで
    ある。

 翌年3月12日、孫文は北京で肝臓癌のため、59歳の生涯を閉
じる。身命を抛った志士の一人、萱野長知が病床に呼ばれた。孫文
は「犬養先生、頭山先生は、お元気か」と聞き、さらに「わしが神
戸でのこした演説は日本人にひびいたか、どうか?」と問うたとい
う。

 孫文を国父として祀るために、南京に中山陵が作られた。1937年
(昭和12年)、日本軍は上海から南京を攻略したが、その時の総
司令官は松井石根大将であった。松井大将は孫文とも親交があり、
大アジア協会を作って、日中提携を唱えていた。松井大将はこの戦
争が長く日支間の相互怨恨の因とならぬよう民衆の慰撫に腐心した。 
特に中山陵に戦火が及ばないよう厳命し、それを楯に抗戦する支那
兵もいたが、なんとか保全に成功した。

 松井大将は帰国後、私財を投じて、熱海・伊豆山に興亜観音を建
立し、日支両軍の犠牲者の冥福を祈り、アジアの興隆と世界平和を
朝晩祈念していた。しかし敗戦後の東京裁判では「南京での司令官
として兵士の虐殺暴行に対して,十分に効果的な措置をとらなかつ
た」という訴因で死刑に処せられたのである。

 孫文の革命への志と、それを助けた滔天ら日本人志士は、錯綜す
る中国動乱の歴史の谷間にささやかな友情の花を咲かせた。今後、
日中両国が真の友好関係を作り上げるためには、かつて芽生えたこ
の友情を思い起こす所から始めるのも一つの道であろう。

[参考]
1. アジア独立への道、田中正明、展転社、平成3年
2. 台湾と日本・交流秘話、許国雄監修、展転社、平成8年

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