[BACK]
DATUMS 1995.10
キヤンガン、山下将軍降伏の地―フィリピンの心象風景

色平 哲郎  内科医

■いろひら てつろう
 1960年生まれ。内科医。東京大学中退後、京都大学医学部卒。信州佐久総合病院で研修後、京大病院を経て1994年1月から埼玉県三郷市のみさと健和病院勤務。医療とともに、アジアなど多くのNGOのネットワーク活動を展開している。
 1994年、東京地方裁判所の依頼で東京拘置所に収監中の、刑務官から暴力的行為を受けたと訴える外国人男性を診察し、地裁に鑑定書を提出。


  はじめてフィリピンへ行ったのは1986年、マルコス政権からアキノ政権に交替した直後のこと。マニラ市の郊外にフィリピン国立大学の留学生寮でアジア各国からの留学生と喋って暮らした。イラン、ネパール、ヨルダン、タイ、イラク、ヴェトナム、ガーナ、中国、韓国の男女の学生と一緒に飯を食い、プールへ行き、買い物に出かけたり、集会に参加したりした。
  一番親しくなったのが韓国出身のアンだった。控えめで小柄な苦学生の彼はアルピニストで、日本の加藤文太郎と植村直巳を尊敬する「単独行」者。冬季の日本北アルプスに単身入り2週間かけて風雪の中を主稜線まで往復してくる技量をもち、既にボルネオのコタキナバルとケニアのキリマンジャロを単独登頂したという。
  クリスマス休暇に彼と二人でルソン中部山岳地帯の小旅行に出た時には政府軍と共産軍の2ヶ月の停戦が発効していた。中部山岳地帯の最高峰MH.Pulogへのアプローチは3日、バスでバギオ迄、ジープニーで麓の村まで、そこで民宿して一気にピークへ。この山は今次大戦の激戦地だった場所で戦車や装甲車の残骸が残っていた。麓の村の短大の先生が親切にも自宅の2階を宿泊に提供してくれた上、一緒に登ろうということになった。実は彼の曽祖父は日本人だという。
  途中の高原都市バギオ周辺にも日系人は多数住んでいる。今世紀初頭スペインからフィリピンを奪ったアメリカは先ず高原に避暑地を建設した。この時中国は北清事変直後で苦力の供給を止めており、2千人の日本の若者が移民労力者として バギオまでの難工事に従事、このケノン道路の開削で多数が犠牲となった。
  現地の女性と結婚しておちついたのもつかのま、今次大戦の緒戦で日本軍がリンガエン湾に上陸、現地徴用された日系人二世は通訳として使われた。敗戦に際し、山下奉文将軍らはこの山中で最後まで抵抗、45年9月2日にキアンガンで彼が降伏して、フィリピン人にとっての悪夢の戦争は終了する。しかし日本兵は帰国できても裏切り者とされた日系二世は全員処刑され、日系人は長く山中に隠れ住んで現在に至る。
  山では仲間どうしの信頼関係が全てだ。韓比日の3人で風雨の中、ピークを踏む寸前のこと、小休止のときアンがコリアンと知らないフィリピン人の彼が言った「日本の占領下で最も残虐だったのはコリアンだった。赤ん坊を投げて銃剣でうけたのも彼らだった。皆がそう信じている。」一気に遭難しそうになったパーティを何とか支えつつ、私はキアンガンの将軍の亡霊を見たような心持だった。その后も各地でこの噂のような言説をきくたびに、愛国者たるアンの胸中が想われてならない。

[BACK]