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  • 【311の記憶 1】

    2013/08/10

    これから数回に渡り、
    3月11日、
    そして、そこから数日間の記憶について、この場で書いていこうと思います。

    以前から、総理補佐官として官邸勤務をしていた当時の事を、
    備忘録を兼ねて書き記しておきたいと思っておりました。
    これまで全ての事故調で証言し、多くの取材でも聞かれたことは全てを正直にお話してきましたが、
    聞かれていない事、記事にならなかったものも多数あります。
    重要な部分は既に既報の通りなので目新しいものはありませんが、
    それでも、政治から離れた今、区切りの意味も込めて、
    自分なりに覚えている事を全て書いておこうと思います。

    【予めご了承ください】
    主観的な修正はせず、余分な事であっても備忘録の意義も込めて記憶のまま吐き出し、淡々と書きたいと思います。
    そこには、私の弱さが、そして当時の官邸の善悪諸々が混在していると思います。
    それが被災された皆様に失礼になるような記述もあるかもしれません。何卒ご容赦ください。
    また、2年以上前の記憶をもとに書き記すため、事実として誤った部分があるかもしれません。
    それを事実を調べながら書くには、個人的に難しいのでご容赦ください。
    単なる記憶違いは後ほど訂正します。
    また、出来る限り実名で書きます。記憶が定かではない場合等は匿名にします。
    カギカッコも記憶のママ、書きます。多少の言葉遣いの違いはあるかもしれません。
    以上の事、予めご了承ください。

    ーーーーーーーーーーー

    3月11日の朝は早かった。というより、徹夜だった。
    朝6時に総理公邸に出向き、いつも通り総理答弁のレクに参加した
    その日は、菅総理の外国人献金絡みの記事が朝日新聞朝刊に載るとの事で、夜を徹して報道からの情報収集、答弁案の調整をしていた。寝ていなかった。
    朝6時でも空は真っ暗。

    種々の打ち合わせが終わり、9時前に国会に移動。委員会が始まり国会内各所を回って議員会館自室に帰る。
    会館自室でテレビを通して質疑をチェック。
    昼休み、修正すべき答弁等、総理と打ち合わせ。山は越えた感じ。

    午後、質疑も落ち着き、いよいよ睡魔に教われる。
    自室の椅子でウトウトしていたら緊急地震速報。
    それと共に大きな揺れを感じる。2時46分。
    免震構造の会館は大きく揺れた。窓から地上を見ると山王坂の木々が激しく揺れている。
    秘書室からは秘書の悲鳴に近い声。
    予算委員会中断。揺れが収まったのを確認して部屋をでる。

    補佐官車を会館に呼ぼうと思ったが、それよりは走った方が早いと判断。
    部屋を出るも、エレベーターが全機停止。
    12階の最上階から走って地上へ、そして官邸に走る。

    官邸5階の総理秘書官室に到着。
    総理秘書官らと席を共にしている秘書官室で様子を伺う。
    総理は執務室におらず、会議か。
    秘書官室で総理会見の原稿作り。

    総理、執務室に戻る。
    私も同時に執務室に入り、総理最初の記者会見の原稿の詰めの打ち合わせ。
    最初の会見ゆえ、情報は限られているから当然内容は乏しい。
    しかし、総理として、一刻も早く会見するべきとの判断。
    各省から集められた現時点での情報を盛り込んだ原案をもとに議論
    記憶にあるのは「各原発は正常に停止しています」との文言。
    当時、原発に無知であった私は「『停止する』するって良い事?悪い事?」と混乱していたから、記憶に残った。
    犠牲者、行方不明者等の当たり前の情報の中に、突如「原発」の文字が入っていたのも違和感として記憶に残ったのかもしれない。
    いずれ、簡単なA4一枚の会見原稿の完成。
    総理、会見へ。会見室まで同行。
    行き帰りのエレベーター内、非常に重い空気。

    会見から秘書官室に戻る。
    テレビからは仙台の津波の映像。黒い津波が田んぼを乗り越えていく生中継。
    「犠牲者が数名」との報道に、ある秘書官「これは数千のレベルになるのでは」。

    海江田経産大臣が総理宛に入室するので、秘書官と同席。
    大臣から「福島第一原発が正常に冷却できていない」旨報告。
    私は「さっきの会見で『正常に停止』と言ったばかりなのに『冷却?』何だろう」と、事の深刻さを今一つ理解していなかった。
    しかし、総理の異常な反応に事の重大さには即座に気付いた。
    総理は何度も大臣に、事務方に聞く。語調は抑えめ。
    総理「バッテリーがダメになっても、他のバッテリーがあるだろ。」。
    事務方「予備もダメです。全部津波で水没しました」。
    総理「乾かしても使えないのか」。
    事務方「一度海水に浸っているので、塩分でダメになっています」
    総理「大変なことだぞ、これは大変なことなんだぞ」。
    執拗に質問を繰り返す総理。

    以下、余談。
    ーーーーーーー
    これ以降の数日間、様々な事務方(保安院)が説明者として現れたが、
    原子力発電所の構造に詳しい人は現れなかった。それもあって、総理は一層「何が起きているか」を知ろうとしたと感じた。
    何人目かに、経産省安井部長が来て双方落ち着く。
    安井部長は「何が起きているか」「何をすべきか」ということを冷静に答える方だった。
    以後、安井部長の信頼は方々から厚くなった。

    当時の総理のスケジュールは、非常に突発的だった。
    震災を受けた対策会議、
    新たな大問題となった原発対策会議等々、
    極力形式的なものを排除してきたつもりだったが、
    特に原発は事が重大になると「会議を開かなくてはならない」的要素があって、何度も会議を開いていたように思う。
    加えて、震災の対策会議は事務局がしっかりしていたが、
    原発の会議は、どこが事務局なのかよくわからなかった。広い意味で経産省(実質保安院)との認識だったが、
    初めて起きた大事故ゆえ、システマティックな様子はなかった。すべては想定不足、訓練不足だと思う。
    ーーーーーーー
    以上。

    原子力緊急事態宣言に関して、総理は海江田経産大臣からの上申後直ちに、というタイミングでは出さなかった。
    「なぜ、宣言しなくてはならないのか」「その宣言をだすと、どうなるのか」を理解しようとしていた。
    理解の後、緊急事態宣言。
    この姿勢の善し悪し、その影響は専門家に任せる。

    この頃、午後7時過ぎ。
    正直、この日から数日間の時間感覚はない。

    全電源が喪失し冷却出来なくなった福島第一原発を抱えて最初に関与したのが「電源車」の確保。
    手配は東電、サポートは保安院という形になっていたと思う。
    官邸としては、その流れをチェック、そして省庁横断的なサポートが必要な場合は官邸から指示をだした。
    とにかく、福島第一原発に一台でも多く、一刻でも早く電源車を届ける必要があった。
    全国の発電所の何処に、何台電源車があり、福島第一まで何時間かかるのか、把握していた。
    陸上を走って向かう場合は、警察に連絡し高速の通行を許可するとともに先導をさせ(実際行われたかはわからない)、
    自衛隊のヘリによって空輸できないかも検討させた。
    東電からくるはずの電源車の仕様が防衛省に届いておらず、
    慌てて東電側にせっついたのを記憶している。
    結局、大きすぎ重過ぎでヘリでは運べなかった。
    総理執務室にホワイトボードを設置し、進捗状況を把握。

    その後、地下の危機管理センターへ。
    それこそ、危機管理上、構造は申し上げられない。
    ただ、総理と同時に入室したためか、想定しているセキュリティチェック等は受けずに入った。
    生物兵器や様々なことを想定した入り口になっていたが、素通りした。
    中は騒然。
    多くの情報が飛びかう。
    以後、危機管理センターに総理は陣取る事になる。
    細野補佐官と立ったまま打ち合わせ。今後の役割分担について。
    細野「俺は電源車やるから、寺田君は非難区域やってくれ」
    寺田「いや、電源車は私やります。今やってる秘書官とは私の方が長いので」
    細野「分かった。じゃ、俺はここに残るから、寺田君は上行ってくれ」
    ものの数秒の立ち話で役割を割り振った。
    34歳3期目の私にとって、39歳4期目の細野さんがいてくれた事は、強さも弱さも含め有り難かった。

    今回はここまで。