第三章 江戸(1603-1867年)
安定した幕藩体制により、地震の記述が急増します
たぬき家康が豊臣家を滅ぼし、徳川の封建体制で安定したこの時代はマツケンサンバが白馬に乗るなど、平和を謳歌しながら、最後は毛利と島津の怨念が復活して、頂点から引きずり降ろされてしまいました。
幕末は、井伊直弼が政権を握っていた頃、とてつもない震災が江戸と近畿を襲い・・・。
南海トラフ域での大地震が2度発生
江戸時代になると、大地震の回数は急激に増えます。1年あたりの地震回数は0.69回と、鎌倉・室町と比べて10倍近く。おおよそ2年に一度は日本のどこかで大きな揺れを観測しました。
これは幕藩体制となり、諸藩の記録が詳細に残されたせいでもあるでしょうし、平和が続き、物資(紙や硯)の流通が安定したせいでもあるでしょう。
そしてこの時代は大きな被害の地震が頻繁に起き、富士山も大噴火をしております。
M6.1以上の地震・・・103回
M8.0-9.0クラスの超巨大地震・・・6回
M6.0(M5.0-6.0含む)の地震・・・40回
規模不明の大地震・・・38回
総数・・・184回(264年間)
1年あたりの地震回数・・・0.696回
上記をご覧いただければおわかりのとおり、江戸時代はたびたび超巨大地震に襲われました。M8.0以上の地震のみを抽出しますと・・・。
◆1611年 M8.1『慶長の三陸沖地震』
東日本大震災と同じ規模と目されている。伊達藩で多数死者
◆1703年 M7.9-8.2『元禄地震』
江戸時代の関東大震災。小田原での被害が大きく津波も発生
◆1707年 M8.6『宝永地震』
日本最大級の地震の一つ。高知に巨大津波。これも南海トラフ
◆1793年 M8.2『寛政地震』
伊達藩が再び被災。宮城県沖での巨大地震。家屋損壊は1千軒以上
◆1854年 M8.4『安政東海地震』とM8.4『安政南海地震』
再び南海トラフが連続して・・・
1854年辺りは、まさに呪われた時期でした。
このM8.4の2つは南海トラフ地震ですが(1日ズレて発生。恐ろしい・・・)、 これに先立って7月9日にもM7.25の地震が伊賀・伊勢・大和(近畿地方)で発生。さらに翌1855年にはM7.5『江戸地震』が起きて、日本の東西で大打撃を受けるのです。
実はこの時代、安政の大獄で暴れまくった井伊直弼さんが恨みを買いまくり、桜田門外の変で殺されるという事件が発生します。現代の歴史授業で、井伊直弼さんは、どちらかというと悪者扱いです。
が、地震への対応などを見ると、むしろ有能な方だったのではないか?という疑問がふつふつと湧いてきます。なんせ、明治維新後に政権を取った人々にとって、彼は悪者でなければならない存在でしたので、そういう印象操作もあるのでは・・・と思ってしまうのです。蛇足でごめんなさい。
では明治・大正へ!
第四章 明治・大正(1868-1926年)
期間は短いですが頻度は上がる明治・大正
薩長土肥が政権を握りながらも一部で内戦が起きたり、実は結構ドロドロだったところから国を立て直し、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦へと勝利を重ね、大正デモクラシーにモボ・モガというなんだか意外に自由な雰囲気のときに・・・。
我が国最大の内陸型地震が発生
明治・大正時代で最も衝撃的な地震は、間違いなく関東大震災でしょう。日本の首都圏を襲った直下型地震は、現在でもその危険性が指摘されており、政府や首都圏自治体はたびたび防災・減災訓練やアイデアを出しております。
1923年の関東大震災は、実際、どれぐらいの被害だったのか? 死者・行方不明者は約10万5000人、住居全壊約10万9000戸(半壊10万2000戸)、焼失約21万2000戸。熱海を襲った津波は12メートル。現代だったらどうなってしまうのでしょう・・・。
M6.1以上の地震・・・43回
M8.0-9.0クラスの超巨大地震・・・4回
M6.0(M5.0-6.0含む)の地震・・・10回
規模不明の大地震・・・2回
総数・・・59回(58年間)
1年あたりの地震回数・・・1.017回
明治・大正期には、日本の内陸地震としては最大の『濃尾地震』が起きております。
岐阜県西部を震源としたM8.0の地震で建物の全壊が約14万戸(半壊が約8万戸)、死者が約7200人、1万箇所以上での山崩れも起きるなど、凄まじい揺れを起こしております。
このときは岐阜県を中心に北北西―南南東方向に総延長約76kmの断層が出現したとのことです。ハンパじゃない・・・。
第五章 現代とマトメ(M6.0以上、本当は何回起きていたんだろう・・・)