島根県・隠岐郡西ノ島、日本海に囲まれた、この小さな島の一画に一人の日本人を称える石碑が、ひっそりと立っている。
刻まれている名は、山本幡男(はたお)。
この島には、彼の遺品を展示する記念館も存在するのだが・・実は、彼のことを知っている日本人は、ほとんどいない。
山本幡男とは、一体何者なのか?
第二次世界大戦が終局を迎えようかという、1945年。
山本幡男は、一家で日本を離れ、満州の戦場へと赴いていた。
妻・モジミが最後に夫に会ったのは、終戦間近のことだった。
山本はモジミに日本は戦争に負けるだろうことを耳打ちし、子供を連れ日本に帰るように言った。
そして「これからの時代、教育が子どもたちの一生の財産になる」と子供達の教育をモジミに頼み、再び戦地へと戻っていった。
それから2か月後、日本は敗戦。
モジミは、夫と連絡がとれないまま、4人の子どもを抱え、何とか帰国を果たし、その後は女手一つで、なりふり構わず働いた。
そして、終戦から7年後、ようやく夫から便りが届いたのだ。
ハガキは、当時のソ連から送られていた。
実は、満州にいた多くの日本人兵士たちは、終戦後 ソ連の捕虜となり、収容所で強制労働を強いられていた。
いわゆる、シベリア抑留である。
山本も、長きに渡り囚われの身となっていたのだ。
手紙には『まず、私が元気に暮らしていることをお知らせします。ご安心下さい。顕一はじめ、子どもたちがどう暮らしているか、一人前の教育を受けているか、気にかかってなりません』と書かれていた。
モジミは、意外にも元気そうな夫の言葉に、胸をなで下ろした。
しかし・・3年後。
山本が、遠いシベリアの地で亡くなったという知らせが届いた。
亡くなったシベリア抑留者は現地で埋められ、遺書や遺品も没収されるケースがほとんど。
何もかも分からないまま、紙切れ一枚で知らされた夫の死。
それから1年半が経ったある日のこと。
夫とシベリアで一緒だったという男が訪ねてきた。
見知らぬ男が持って来たのは、亡くなった夫・山本幡男の遺書だと言う。
内容は確かに、夫が遺族に向けて書いたものに間違いなさそうだったが、モジミにとってその遺書はあまりに違和感のあるものだった。
その筆跡は、これまで何十回も何百回も見返した夫の字とは、明らかに異なっていたのだ。
一体どういうことなのか?
実は、この不思議な遺書の裏には、壮大な奇跡の物語があった。
現在、リゾート地として多くの観光客で賑わう、ロシア・ハバロフスク。
だが、かつてこのあたり一帯には『ラーゲリ』と呼ばれる強制収容所が立ち並んでいた。
冬場は雪が吹きつけ、気温はマイナス30度にも及ぶ極寒の地で・・・1日10時間を超える重労働。
しかも・・朝夕の食事は、わずかなお粥と粗末な黒パンが一切れ支給されるだけ。
そんな地獄のような生活を、およそ65万人もの日本人が強いられたと言われている。
終戦から4年後。
ソ連政府は、『捕虜全員の帰国を完了した』と公式に発表したのだが・・現実はそうではなかった。
ハバロフスクの収容所『第21分所』には・・まだ多くの日本人が残されていた。
彼らは『ソ連に対するスパイ行為を働いた反乱分子』とみなされ『20年以上の強制労働』という、言われなき罪を着せられた者たちだった。
『ソ連に忠誠を誓えば、帰国できる』そんな根も葉もないウワサも流れ、日本人同士の密告、裏切りも日常茶飯事。
彼らの脳裏には『絶望』の二文字以外、何もなかった。
野島信介も、そんな地獄に送られた一人だった。
野島はハバロフスクに移送された直後、知り合いの折田から手製の本を渡された。
著者は山本北瞑子。
収容所内では、日本語のメモ書きを持っているだけで重大なスパイ行為とみなされ、『営倉』と呼ばれる独房に監禁されてしまう。
『営倉』に入れられ、命を落とす者少なくなかった。
そんな環境の中で、手製の本を発行することなど、自殺行為に思われた。
野島は、恐怖心から本を読むことができなかった。
そして・・その夜、野島は山本に声をかけられた。
山本北瞑子とは、あの山本幡男のペンネームだったのだ。
山本は、野島を俳句の句会に誘った。
野島はなぜそんな危険なことをしているのかと山本に訪ねた。
山本はの答えは「みんなでダモイ(帰国)した時、日本語を忘れてたらかっこ悪いでしょ」というものだった。
数日後、野島は句会の様子を覗き見していた。
それは、初めて見る光景だった。
山本を中心に、仲良く笑い合う面々。
当然、見つかったら、ただでは済まない・・。
山本は、なぜ危険を冒してまで、句会を開くのか?
野島は、隠し持っていた山本の本を、読んでみることにした。
その本には『故郷への想い』が、切々と綴られていた。
終わりの見えない、過酷な収容所生活の中で、野島は空を見上げることなどなかった。
しかし、山本の本を読んではじめて空を見上げる気持ちになった。
山本の本を渡してくれた折田は、希望を持つことが大切だと野島に言った。
それでも希望を持てない野島に折田は「まあ、そのうちわかりますよ、あの人に毎日ダモイダモイって耳元で言われてたら…」と言った。
折田の言葉通り、その後も・・山本は「昨日、現場に政府の高官が来てたんです。これは間違いなくダモイが近いってことですよ」と言い続けた。
だが、地獄を見て来た野島は、山本の言う夢のような話を簡単に信じる気にはならなかった。
そんなある日、彼らの運命を変える出来事が起こる。
1953年3月、ソ連の首相(独裁者)スターリンが死去。
国家体制がにわかに大きく変化し始めたのだ!
それから3か月後。
ついに戦犯として収容されていた長期抑留者が日本に送還されることが決定した。
ところが、なぜか帰国が許された者は全体のおよそ半数。
山本をはじめ、句会のメンバーの大半は、ソ連の収容所に残された。
それでも山本は希望を捨てず、残ったメンバーを励まし続けた。
だが・・・この時、山本の身体には、すでに異変が起きていた。
当初、中耳炎かと思われた病状はどんどん悪化。
そして検査の結果、末期の咽頭癌だと判明。すでに手遅れだった。
山本は、気丈に振るまっていたが・・・一人になると家族の写真を見ながら涙を流していた。
このままでは、大切な家族に何も伝えられないまま山本は死んでしまう。
句会のメンバーは山本に遺書を書いてもらおうと決意した。
そして、「万一の時のため、ご家族に伝えたいことがあれば、書いて下さい。」と一冊のノートを渡した。
山本は長い間何も答えようとはしなかった。
だが・・翌朝、彼が仲間たちに返したノートには、知力を振り絞り、家族に向けた切々たる思いが、15ページにも渡って記されていた。
遺書を書いてから、わずか2週間後、山本は45歳という若さでこの世を去った。
句会のメンバーたちは、『山本の思いを必ず日本に届けよう』、そう決意した!
だが、その死から、わずか1ケ月後。
突然行われた所内の抜き打ち検査により遺書は発見され、消却処分されてしまった!!
処分されてしまった遺書が一体なぜ、日本のモジミさんの元に届けられたのか?
時は、山本が遺書を書く前まで遡る。
収容所内では、頻繁に抜き打ち検査が行われ、許可されたもの以外のメモや手紙などは全て没収され、処分される。
安全な隠し場所など、この収容所内のどこにもなかった。
その時、野島がみんなで分担して全て記憶しようと提案したのだ!
そして、自分もそれに参加したいと申し出たのだ。
それぞれが山本さんの4つに分かれた15ページにも渡る遺書を書き写した。
自分が担当した部分を一言一句、全て暗記するために。
だが、それは危険な賭けだった。
もし、遺書の写しが発見されたが最後、その持ち主はスパイ行為を働いたとして、一生帰国できなくなる恐れがあったのだ!
しかし、彼らはさらに、それぞれが信頼できる人間に秘密を明かし、作戦への協力を頼んだ。
全ては、絶対に遺書を、日本に届けなければならないという信念だった。
帰国できるとしても、それが何年先になるか、何十年先になるかは誰も分からない。
ひと月が過ぎ、ふた月が過ぎても、その日は訪れなかった。
もし見つかれば、一生帰国できないかもしれない。
そして半年が過ぎ、1年が過ぎた。
それは、まさに、命がけの闘いだった。
すでに、シベリアに連行されて10年あまり。
その頃、日本では急速に戦後復興が進み、『もはや戦後ではない』が流行語となっていた。
だが、1500キロ離れただけの北の大地で、未だ戦い続けている男たちがいた。
そして、山本幡男さんの死から2年、ついにその時はやってきた!
1956年10月、日ソ共同宣言が調印され、戦犯として収容されていた日本人抑留者全員の釈放と帰国が急きょ決定!
その年のクリスマスイブ。
最後のシベリア抑留者を乗せた帰還船が、日本に向けて出港したのだ。
終戦から、実に11年が経っていた。
そして1か月後、遺書を記憶したメンバーの一人が、山本の住所を探し当てた。
ついに、念願だった遺書を届けることができたのだ!
モジミさんは「やっと、やっと謎が解けました」と言った。
実は、山本さんが亡くなってから1年後。
戸叶里子衆院議員ら、日本の議員団がソ連を訪問、収容所を視察したのだ。
その帰り際のことだった。
折田が万が一のため、遺書を書き写したノートを戸叶議員に預けていたのだ。
今日、男性の話を聞くまで、なぜ遺書が夫の字で書かれていなかったのか、全く分からなかったのだ。
お礼をいうモジミさんに、「この遺書の言葉に僕らがどれだけ救われてきたことか・・だからこそ、あの地獄を生き抜いてこれたんです!山本さんの遺書が、僕たちを生きて、日本に帰してくれたんです!」と言った。
日本の明るい未来を案じ、妻や子に、その意志を託して亡くなった山本幡男さん。
妻モジミさんは、その後も、子どもたちの教育に全てを捧げ、21年前、83歳で他界した。
長男の顕一さんは、幡男さんが亡くなった年に、東京大学に入学。
卒業後は両親の意志を継ぎ、大学教授として、長年教鞭を取り、多くの若者たちを社会に送り出してきた。
そんな顕一さんには、今も心に響く、遺書の一節があるという。
それは『最後に勝つのものは道義』という一節だ。
終戦から68年、帰国時に平均43歳だった、シベリア抑留者たち。
今はそのほとんどが、亡くなっている。