阿哈馬江(Ahmadjan)のホームページ より
帳 主 の 雜 感 
東久邇宮と酒 


 稔彦王東久邇宮](のち東久邇稔彦)は、本ホームページで對象となるべき人々の中でも最も超絶した事績を殘してゐること、疑ひの餘地がないと思はれるが、今囘は、東久邇稔彦『やんちゃ孤独 菊のカーテンの中の一人の人間記録読売新聞社(読売文庫)、昭和三十年六月初版)−− 歩兵第二十九連隊中隊長(大正三年十二月〜大正四年十二月)・第二師團長(昭和八年八月〜昭和九年八月)として所縁のあった仙台の『河北新報』に連載されていた −− に記されてゐる囘想の一つを取り上げてみたい。同書の一四五頁に曰く。
 体が丈夫なので酒はよく飲みましたが、日華事変中、漢口で病気をしてから、深酒はやめました。しかし、今までに酒で失敗したことは一度もない。体が丈夫なせいもあるが、私のような境遇にいると、つい酔って不覚をとるのは恥であるという、緊張した気持もあったからだと思います。また豪傑ぶっていくら飲んでも酔わないのを、自慢にしていたのでしょう。前後不覚に酔ったことは一度もありません。ばかな話ですが、大勢の人を相手にして、コップや茶わんでガブガブ飲んで態度をくずさず、豪傑然といばっていました。そのおかげでほんとうに酒に酔うという楽しさを知りません。酒の味もわかりません。むしろ不幸な話だと今では思っています。
 この殊勝なる告白を一讀した皇室關係者のなかには、吹き出すか或は微苦笑するか或は呆れ果てゝ絶句した向きも少なからずあつたものと思はれる。何となれば、例へば、『宣仁親王日記』昭和十年一月一日條(『高松宮日記』第二巻(中央公論社、一九九五年六月)、三四三頁)に、
 午後一時すぎ、秩父宮【雍仁親王】へ御年賀に上りしところ御留守にて少時まつ。御歸りあり。今澄宮【崇仁親王】のところにて朝香【鳩彦王】・東久邇【稔彦王】・竹田【恒徳王】・北白川【永久王】各宮皆さまにて散々およひになり、私【宣仁親王】のところへいらつしつたとのことに、他家をまはるのをやめて、御祝をいたゞくのもソコ々々に歸る。
 朝香樣【鳩彦王】シタヽカに御酒まはり「私は獨りモノダ」とて散々オナキ出シニナリ、東さん【稔彦王】がまたツラレてボロ々々泣き出すサワギ。やつとおかへしす。
とあり、また、『梨本伊都子日記』昭和十六年十一月四日條(小田部雄次『梨本宮伊都子妃の日記』(小学館、一九九一年十一月第一版)、二六二〜二六三頁所引)に於る「皇族親睦會」に就ての記載に、
 皇族ばかりの内わのより合いとはいへ、此時節柄故、まじめになさればよいものを。・・・・・(中略)・・・・・ 八時ごろ食事も終ったが、後でレコードをかけ、みづほ踊りがはじまる。これも一寸ならばよし。しかし、ひつこく何度も々々々くりかへし總踊り、其上其レコードでダンスがはじまり、組合つて、しかも年がひもなく朝香宮【鳩彦王】と東久邇宮【稔彦王】が御はじめになる。それにいつも遊ぶ事を初言なさるは竹田宮【恒徳王】、どうもにが々々しく思はれるが、それが又何度も々々々つゞくので、九時十五分になったから東伏見大妃【周子】と御相談してもうこの位御つき合ひしたらよいだろうと御先きに引上てかへつた。
 いつも々々々酒のみはこれだからだらしがなく、皇族がこれでは今後が思ひやられる。今の中年の御方々からこんな事がはじまり、こまつた事だ。何でも親睦といふ事は酒のんでさわぐ事だと心得てゐられる。・・・・・
とあり、皇族の内輪の酒席に於る稔彦王の醜態は中々のものであつたことが推測されるからである。
 この一例から見ても明らかなやうに、後日に作成された囘想録の類に於る主觀的な敍述は、他の一次史料の敍述によつて客觀化・相對化する必要がある。この「史料批判」といふ方法が近代歴史學の「いろは」の一つであること、歴史學研究に專門的に從事する者であれば當然わきまへてゐる筈であるのであるが、近年なほ、かゝる研究上の基本を輕視するが如く自身の所論に都合の良い記載のみを「よいとこ取り」して作された論文・著作を目にすることが少なくない。誠に殘念なことゝ思ふ。
(平成十三年十一月五日 誤字訂正アリ




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