◆待っていてくれた
妻、ゆり子が亡くなって20日あまりがたった。47年間一緒だったから、僕の体の半分が引き裂かれたようだ。時間が癒やしてくれるとは、未だ思えない。
余命数カ月、の宣告は突然だった。5月末、ちょうど大相撲夏場所千秋楽の日。翌日、サンクトペテルブルクに出発するということで二人でトランク2つ並べて荷造りをしていた。その時、妻の言葉が少しもつれるので軽い脳梗塞かと思い、大相撲の都知事杯授与の行きがけに病院に置いてきた。その帰りに結果が出た。悪性脳腫瘍だった。
サンクトペテルブルクにはもちろん一人で行ったが、スイス・ローザンヌでのプレゼンテーションの前日、7月2日に危篤になった。「帰るまで待っていてほしい」と飛行機に乗った。ごく近い周辺にしか病気のことは話していないから、正直きつかった。笑顔で五輪招致を訴え、一人になると祈った。
妻は待っていてくれた。そして名古屋場所千秋楽の21日、65歳で永眠した。安らかな表情だった。
◆こんな男とよくぞ
よくぞ、こんな男と結婚したな、と妻は何度か聞かれたことがあったようだ。僕のおいもその一人。お悔やみでくれたメールに「ミカドの肖像で大宅壮一賞を受賞し、やっと名前が売れてきた20年前、若気の至りで聞いた」と書いてあった。
ゆり子とは信州大学時代に知り合った。19歳と18歳、目と目が合った瞬間、光の速度で一心同体で生きると決めた。だが、周囲には不思議に映ったようだ。全共闘時代、就職活動はせず、卒業直前に結婚して東京・沼袋のアパートに住んだ。ビルの窓ふきや工事現場のがれき片付けをした。金に興味はなかった。作家の夢を追いかけていたから。
おいはこう聞いた。「展望もなく東京に出てきて仕事をいくつも変える。26歳で長女が生まれても社会から距離を置いて肉体労働をし、30代でやっと作品を書くようになった。そんなリスクの高い男と、どうして」。
◆最大の理解者
ゆり子は「彼は自分のことを天才だと思っているのよ」とあっさり答えた。それを信じてずっと付いてきた。おいは今でもその言葉を驚きとともに記憶している。考えてみれば妻は相当の変人だ。
だが、変人ぶりなら僕も負けない。10代のころ、まだ何も書いていないのに、石原慎太郎さんや大江健三郎さんを超えて最年少で芥川賞をとる、と息巻いていた。二人とも受賞が23歳。最初は記録を超えねば、ともがいたが、まったく違う「新製品」をと考えているうちに時間がたった。作家として夢想した僕の作品は、純文学も批評もミステリーもノンフィクションも学術論文も兼ね備えた欲張りな新製品だった。従来型のどのカテゴリーにも当てはまらないから文学賞はなかなかもらえないのだが、従来の「形」にはまらなかったから今の僕があるとも思っている。ゆり子はずっとそんな僕の横にいた。最大の理解者、支持者だった。
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