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佐藤教授顕彰会事務局だより
佐藤教授論説紹介
はしがき
日本は国家草創の時以来中国文化の影響を強くうけながら発展をつづけて来たから、中国の文物の摂取には常に敏感で、書籍の輸入には特に熱心であった。奈良時代の遣唐使がその資を傾けて中国書籍の購入に努めたことは、「旧唐書倭国日本伝」 にも指摘されて居り、中国人の目をひいたところである。江戸時代の鎖国期にも、幕府や諸藩は長崎に来航する中国船のもたらす良書善本を争って買い求め、その所蔵の多さを誇りとした。こうして、政治・道徳・宗教はもちろん、医薬・天文暦数・技術工芸・文学をはじめ稗史・雑書にいたるまで、あらゆる分野の中国書が輸入され、日本人の知識・技能・情操を培ったが、なかんづく、「史記」「漢書」をはじめとする史書は、中国歴代王朝の栄枯盛衰を知るためだけではなく、中国文化を理解する基礎として重要視され、国内でも盛んに復刻が行われ、武士社会では教養を養う為の必読書と考えられていた。 このように日本人の目が中国に向けられていたのに対して、中国人の日本に対する関心はどうだったろうか。いうまでもなく中国の正史その他の書にも日本についての記述は相当多く見られるところであるが、中国にとって日本は東夷諸国の中の一国にすぎない存在と考えられていたから、宋時代までの記事は日本の地理や朝貢関係のことが記述の大部分を占め、日本民族が極めて自尊心の強い民族であること、派遣されて来る使節の中には礼儀正しい教養ある人が多いこと、日本国王の地位は一つの家系が相承けてこれを占め、中国のような易姓革命がないこと、国内ではすぐれた刀剣を産出すること等に特に注意が払われている程度であった。明代に至り、日本人海賊が盛んに出没して中国沿岸地帯が大きな被害を受けるようになったことから、中国人の間には、これを撃退して被害をくいとめるためにも日本に関する知識を深めることの必要が痛感されて、日本研究の気運が勃興するようになり、「籌海図編」「日本一鑑」「日本風土記」「日本考略」その他幾つかのすぐれた日本研究書が著されるようになり、日本の地理や軍事のみならず政情・言語・文学等にまでも注意が向けられるようになった。しかしその後日本海賊の活動が鎮静化し、また鎖国政策の結果日本人の中国渡航が杜絶するにつれ、その気運も衰えていった。江戸時代の鎮西下にも中国からは毎年かなり多数の貿易船が長崎に渡来しているが、その乗組員の殆んどが商人や水夫で、しかも日本滞在中の居住は原則として唐人屋敷の中に限定されていたから、彼等の問から日本研究書が生みだされることは少く、僅かに唐人屋敷の中から日本を観察した荘鵬の「袖海編」の存在が注目される程度である。 中国史書が多くの日本人に読まれたのに対し、日本の史書は、古事記も日本書紀以下の六国史も中国に紹介されることはなく、僅かに宋代に留学僧然によって「王代略記」という年代記風のものと思われる文献がもたらされ、また江戸時代に中国商人によって「吾妻鏡」が伝えられて、一部の文人の注意をひいたことがあるが、吾妻鏡もその記載内容を彼等が読解したわけではなく、日本人が、漢字を、中国人には理解しがたいような配列で記して文章を作っていることに好奇心を寄せたにすぎないもののようである。幕末にいたり、西洋各国と国交を持つにいたった徳川幕府が、中国との国交回復についても考慮するようになり、その交渉の瀬踏みとして文久二年(一八六二)に貿易名儀で官船千歳丸を上海に派遣したのにつづいて、元治元年(一八六四)に健順丸で幕吏山口拳直らを派遣したが、この時、上海道台応宝時は山口に対して岩垣松苗の「国史略」を所望しているから、当時中国にはこの書のことが知られていたものと思われるが、あいにく幕吏らの問に同書の持ちあわせがなかったので、山口は代りに顧山陽の「日本外史」を贈った。その後武器購入その他の用件で幾つかの藩からも上海に武士を派遣して居り、頼山陽の「日本外史」・「日本政記」などが中国人の問に持ちこまれるようになった。また維新後、両国間に条約が締結されて、明治六年その批漁書交換のため外務卿副島種臣が特命全権大使として北京に派遣された時には、日本政府は総理衛門(筆者注、正しくは総理各国事務衛門、外務省に相当する中国の機関)に「大日本史」10部、総理英門管下の同文館(筆者注、外交官養成のための外国語学校に相当)と大使一行を世話してくれた官吏孫士達に同書各1部を贈り、また同文館の雇教師で多くの米書を漢訳している米人マ-テン (中国名丁韙良)に「日本外史」一部を贈って居る。こうして日本の史書も次第に中国に紹介され、中国人の問に日本に対する関心と日本を研究しょうとする気運が生まれるようになっていった。なお、この小論で明治前記と云うのは、およそ日清戦争以前を指すものであるが、日本暦と中国暦とでは月日に多少のずれがあるので、中国書籍の成立時期などについては、中国年号にょって記し日本年号を併記しておいた。
一 使東述略と日本雑事詩
明治六年(l八七三)四月に日清修好条規が効力を発することになり、これに基いて日中両国はそれぞれ相手国に使臣を駐在させることになった。日本は、同年十一月二十四日山田原義を初代中国駐在公使に任命したが、山田は赴任しないうち、更に別の官職聖戦ずることになったので'実際に中国に赴任して事実上の初代公使となったのは、明治七年二月二十二日に任命された柳原前光である。一方中国側は日本よりややおくれて、明治十年一月十五日(光緒二・一二・二)侍講何如琴璋を初代の駐日公使(出使日本大臣)に任命したが、折から日本では西南戦争が起って政情不安となっていたので、しばらくその成り行きを見るため、出発は一時延期され、彼が随員を伴って北京を出発したのは九月十日(光緒三・八・四)で、上海で軍艦海安号に塔乗し、途中長崎・神戸・大阪等に寄港して各地で実情を視察したのち、外務省が横浜に準備していた仮公使館に入ったのは翌十一年一月十六日(光緒三・一二・一四)、その間に随員と共に上京して天皇に信任状を捧呈したのは十一年一月四日(光緒三・一二・二)のことであった。 彼はこの赴任に先立って出来るだけ日本のことを知っておこうと努め、頼山陽の「日本政記」や「日本外史」にも目を通して居るから、日本についてはかなりの予備知識を持っていたものと思われるが、初代公使としての使命感に燃え、赴任の途中の出来事や見聞や所感を日記に記してこれに「使東述略」と題し、途中で作った六五篇の七言絶句をまとめて「使東雑詠」と題した詩集と共に、一種の赴任報告書として北京の総理街門に提出した。これらの書には、公使一行が日本国内いたるところで日本国民のあたたかい歓迎をうけた情況、各地の在日華僑の生活、日本国民の衣食住の有様をはじめ、日本国民の間には中国で噂されているよう洋模倣の風潮が盛んではあるが、孔子や儒教に対する崇敬心もまだ根強く存在していること、日本政府の紙幣乱発政策のため、国民経済が苦鏡に陥っていることなど、当時の日本の世情を指摘したうえ、「使東述略」 の末尾には、「赴任の途上耳目に触れたことや風土や政情には、考えても十分に分らず、人に問うてもはっきりせず、書物で調べてもよく分らぬ点もあるが、知り得たところは大体記した。この国の政治の得失、内外の有様、自然や人事に関する情報は、いろいろと比較検討し、実地に調べてみなければその要領を得ることはむずかしいが、しばらく時間をかけて熱心に研究すれば事情を明白にすることが出来ると思うから、その際には別に詳しく記して御参考に供したい。こうすることが'使臣たるものの当然なすべき任務であると思っている」という意味のことを記し、日本のことをひきつづいて研究してゆくことが必要であると論じている。当時の慣行から考えて、「使東述略」「使東雑詠」の二書は総理街門から官版として印刷に附されたのではないかと思われるが、それとは別にこの書は民間からも異なった幾つかの版で出版されている。このことは、この二書が中国の知識人の間で注目をあびていたことを物語るものといえよう。 何公使と共に来日した随員には、副公使(副使)張斯桂をはじめ、すぐれた文人が多かった。張斯桂は何公使よりも年長で、幕末に中国から輸入されて日本人に国際法の知識を与えた「万国公法」という書に序文を記している人で、当時の日本の知識人の間ではすでに相当に名前の知られている人物でもあったが、ここに注目すべきは、書記官(参賛官)としてその下にいた黄遵憲である。黄遵憲(号、公度)は来日の時三十歳、何公使の縁戚に当る人であるが、来日直後から日本の歴史と現実とに強く興味を覚え、日本に関する綜合的な研究書を著述してみたいと考え、あらゆる分野についての関係文献の渉猟をはじめた。当時漢詩文に親しみ中国に好感を寄せている日本文人の間では、東京に中国公使館が開設されたことを喜び、公使館の人達との交際を求めて来訪する者が少なくなかったから、黄はそれらの人々にも積極的に接触して、疑問とする事柄を徹底的に質すと共に、彼等から書籍を借覧したり、各地に文献を採訪したりして熱心に研究を進めた。彼は早くから詩人としてのすぐれた素質をあらわし嘱目されている人でもあったから'研究を進めてゆくにつれ、強く興味をひいた日本の色々な事物について、次々とこれを七言絶句の詩にまとめて一篇毎に説明文を附し、一五四篇の詩から成る「日本雑事詩」二巻にまとめ上げ、光緒五年(明治二一)春その稿本を同文館に提出した.同文館はこの書の価値を認め、同年冬に官版として北京で之を刊行したが、その後この書は、黄の友人の王韜が香港で経営していた循環日報館から、更に日本では東京の鳳文書房からも印行され〜詩の題材の新奇さと着想の新鮮さのほかに、中国では新日本事情を紹介した詩集として、日本では中国人が日本の事物を詠んだ詩集として、日中双方の文人の間で非常な好評を博し、ひきつづいて日中両国の書店が争って出版するようになり、中には著者の了解もとらずに無断出版するものも出て、幾種類もの異った版本が現れるにいたった。 日本雑事詩がとりあげた事柄は、日本人石川英がこの書に記した跋文に「上は神代より下は近世に及び、其の間時世の沿革'政体の殊異、山川風土、服飾技芸の微も悉く網羅して還すこと無し」と述べているように、皇室のことから庶民の日常生活の端々にまで及んでいる。一例として、東京について詠じた詩とその説明文を次にあげてみよう。(訳文は実藤恵秀・豊田穣両氏訳〔生活社版〕による) 前朝覇王識寵蟠 前朝の覇王 龍蜂を識る 富岳荒川極大観 富岳 荒川 大観をきはむ 留與東遷新定鼎 東遷して新たに鼎を定むるに留與して 寓家春樹錦城寛 寓家の春樹 錦城ひろやかなり 全国のうちで、武蔵、上総がいちばん平坦で肥沃である。江戸はもとは遠山某の居城であった。徳川家康は初めは三河におこったが、豊臣秀吉が'家康にかたっていはく、「江戸は覇気のあつまるところである。君はここに城を築いて住むがよからう。」そこで家康はここに従って石をつんで城を築き、大阪城とおなじやうに塁を高くし濠を深くした。徳川氏が大政を奉還すると、参与大久保利通は、ここに遷都せられんことを請うた。翌明治元年、つひに東遷せられ、幕府の建物を宮殿とせられた。むかしの都は、大和以外では、摂津、近江、長門、豊前に一度はおかれたことがあるが、 東京はじつに最初である。およそ東京府所轄の戸数は四十三万五千九有余戸である。 「日本雑事詩」の一書をまとめた時、黄の頭の中では、日本に関する綜合的研究書の書名も「日本国志」とすることに決まり、これに盛るべき内容の構想も相当程度出来上っていた。このことは、日本雑事詩の説明文の中に「詳しくほ日本国志の○○志を見よ」という表現が随所に見られることによって知ることが出来るが、日本国志の完成にはなお数年を要しているので、同書については後述することにする。
二.日本地理兵要と東槎見聞録
「日本雑事詩」が出版された明治十二年は、日中両国間の緊張が一つのピークに達した年でもあった。それは、江戸時代を通じて琉球は一つの王国ではあるが、日中両国に隷属する両属状態を保って来ていたのを、明治五年日本政府は一方的にここを日本だけの領土と認め、琉球国を改めて琉球藩として鹿児島県管轄の下におき、藩王に対してはその後繰り返して中国との隷属関係を絶つことを強要したが、琉球側がこれを容易にうけいれないために、この明治十二年四月、圧力を以て琉球藩を廃して沖縄県としたからである。中国はこの処置を認めず、日本政府に抗議し、日中両国間に外交上のはげしい応酬が繰り返されて、ついには一触即発開戦にも至りかねないような危境すら生じ、明治十四年には何公使が日本に対する抗議の態度を示すため本国に引揚げるにいたり、翌十五年二月新たに黎庶昌が公使として着任した。 琉球問題をめぐる紛争についての外交交渉は、何公使の引揚げ後も中国政府と北京駐在日本公使館との間に続けられたが、折柄、清国とロシアとの間にイリ地方の国境紛争問題が生じたこともあり、清国は対日関係の一層の悪化を避けようとして多少協調的な態度を示すようになった。その結果両国の間に妥協の気運が生じ、日本は宮古八重山諸島を譲って、中国を背景とする小型の琉球政権がそこに樹立されるのを黙認する代り、中国は先の日清修好条規のうち日本が調印直後から改訂を要望している幾つかの条項を日本の希望に副って改訂するのに同意するという、いわゆる分島改約案の方向で話合いが進み、調印の一歩手前まで達したが、たまたまイリ問題が中国に有利に展開して来たため、中国は態度を硬化させて調印を拒み、このため琉球問題は一時棚上げの状態となった。しかも一方朝鮮では、日中両国の覇権争いのための新しい対立が高まり、明治十五年、同十七年の両度に亘り、京城事変が勃発するなど、日中両国間の緊張は依然として鎮静しなかった。 黎庶昌公使もすぐれた知識人で、こうした背景のもとでも職掌柄からも多くの日本文人と親しく交わり、本国の中国ではすでに失われてしまっていてかえって日本に残っている漢籍を捜し求めて、みずから「古逸叢書」を編纂するなど、日本研究にも意欲を示したが、彼の随員のl人挑文棟はまた注目すべき人物であった。桃は黎公使の任期終了後も、後任公使徐承祖の要請によってさらにその随員となり、徐公使の任期が満了する明治十九年まで前後六年間日本に在留し、その間黄遵憲と同様に、日本の綜合的研究を計画した。桃が在日期間中に書いた文章を集めた「東槎雑著」の中には「日本国志凡例」という文章が収められてあり、彼の計画していた日本研究書の書名も黄と同じく「日本国志」であったと思われる。この「凡例」によれば、彼はこの「日本国志」には光緒八年(明治一五)正月に着手し同十年(明治一七)九月に全一〇巻を完成したとして居り、その内容は、日本の各道を国に分け、国毎にその彊或・形勢。沿革・郡数・戸口・田圃・租税・府県治・軍政・学校・名邑・山薮・原野・河東・湖沼・港湾・岬角・島喚・暗礁。燈台・歴船・浮標・工場・物産の二四部門に分けて記述したものであることが知られ、いわば日本政治地理学書ともいうべきものであろう。傳雲竜が後述の「東槎閲見録」に寄せた序文の中で、かつて自分は姚文棟から「著すところの志の第三冊を示されたことがある」と記しているのは、この「日本国志」のことをいっているのだろうと思われるが、不幸にして私はまだ本書の版本を見たことがないので、本書が実際に出版されたかどうかを詳にすることが出来ない。この点については大方の御教示を得たいものである。 「東嵯雑著」の記載によれば、姚文棟には日本に関しこのほかにち鉱産考・陸海紀程考・火山温泉考というような著書もあるようであるが、ここに注目すべきは、彼には光緒十年(明治一七)に総理街門から刊行された「日本地理兵要」一〇巻のあることである。この書は彼が、日本の陸海軍人がみな内務省から頒布された「清国兵要地理志」を所持して、平素中国の軍事地理を研究し講習しているのにひきかえ、中国の軍人が最も注意すべき隣国日本の地理についてほとんど無知の状態であることを憂慮し、彼等にも日本の軍事地理の研究に関心を持たせるために、また一つには他日起り得べき異変に備えて中国から将校を派遣して日本近海を測量させる際の参考に資するためにもと考え、日本の陸海軍人達が常に請読している「兵要地理小志」を中心とし、それに他の請書を参照しながら編集し、その稿本を総理衝門に送り、これを日本地理教本として印刷して各軍営に配布されたいと要請したのに対し、総理街門がこれにこたえて印行したものである。 この書の内容は、彊域・東海道・畿内・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道・北海道の各篇に分けられ、その各々について沿革・地理・風土・風俗・産物などを詳述したもので、その中には明治九年五月開拓中判官長谷部辰連らの千島巡航記録、明治九年九月の千代田塑軍艦の相・豆・駿・遠各州の水路測量実験記録、明治十二年九月筑波艦が日本一周航海を行った際の実験記鐘、その他多数の記録も含まれて居る。主要部分がほとんど日本書を漢訳したものであるから純然たる著書とはいえないが、前記の琉球問題や朝鮮問題から生じた日中両国間の緊張の中で、中国人に対して国土に関する具体的な知識を与える上で寄与するところがあったものといえよう。 公使館員として日本に来た中国人の中には、中国ですでに失われた古いって日本に残っているものが少くないことを知り、これに興味を持つ人が多かった。光緒十年(明治10)一月第三代公使徐蔑視の随員として来日した陳家麟も研究心旺盛な人で、日本に関して熱心に人に質し文献を渉猟し、来日四年目の光緒十三年(明治二一)冬「東槎見聞録」四巻を公げにした。この本は過去から現在までの日中関係を概観した文を巻頭に置き、以下次のような五八項目から成る構成である。 巻一 経緯、暦算、気候、時刻、彊域、形勢、山川・湖・温泉・湊布、沿海・湾・ 港・岬・ 隅・島・映、航海里程、田地、建置、府県治・郡数、皇居、戸数・人口・神 社・寺院、橋梁・ 辛数・船数、物産、名勝・古鏡、皇宮・離宮・東西官・署考 巻二 皇統、親王、将軍世系、華族・士族'歴史、政治、官制、刑罰、学校、文 字、書籍、逸書、 経学・経学家、史学・史学家、古文・古文家、詩学、医学・医学家 巻三 貨幣、国債、賦税、銀行、鉱山、兵制、燈台、製造、鉄道、電線、郵便、通 商 巻四 氏姓、時令、人情、風俗、屋舎、街市、飲食、服飾、婚姻、喪葬、祭飛、人 物、芸事、方技、流寓、遊観、雑載 すなわち、自然・歴史・文化を網羅する日本百科事典的なもので、前述の「使東述略」「日本雑事詩」「日本地理兵要」なども利用して引用しており、当時日本を綜合的に論述したこのような書籍が作られることを求めていた中国社会の要望にこたえたものである。 本書には客観的な記述のみにとどまらず、各所に著者の批判見解が示されているが、その態度は比較的公平である。当時中国人の問では、日本が明治維新後は従来の太陰暦を放棄して太陽暦を採用し、服装を洋風に変え、漢籍を蔑視していることを、長い間恩恵をうけて来た中国文化の圏内からの離脱をはかっているものと受けとり、日本に対し嫌悪感を示すのが一般的であった.陳の所論の中にもこのような考え方は幾らか見られるが、彼は一面、日本の新政にすぐれた点のあることをも認め、率直に之を評価して次のように述べている。「更革するところのもの若干'請求するところのもの若干,講求するところのもの若干条、学校を立て、鉱香を整え、鉄道を開き、銀行を設け、以て横幕・電線・橋梁・水道・農商務各事に及べる。これ利政なり。服色を易え、漢字を廃し、刑罰を改め、紙幣を作り賦税を加えたる、人を用うる、凡そ曾て外国に赴くもの及び外国語言を能くする者は賢否の論なく-皆之を用うる、大小官署近く皆洋房に改造せんとする、飲食また西式に仿う、跳舞の属、これ弊政也」。また漢字からかな文字を作ったことにより、日本では蘇女子でも書を読み手紙を書けること(文字)、百工技芸、用具は元来はみな中国を模倣していたものを、近時は巧みに西洋のものも取り入れて中国以上のものを作るようになり、また次第に西洋の技術を習得して、はじめフランス人の力によって運営していた横須賀ドックの如きも明治十一年には一人のフランス技師も招碍せずに日本人だけでやっていること(製造)等を指摘している。日本では男女混浴が行われ、銭湯の女湯では男の三助が働いているが男女関係は厳であること、盗賊や乞食が少く、乞食はまた温和であること(風俗)、日本人は庭を愛し、士大夫の家は華麗ではないが林木蔚蔚として居り、貧家でも花木竹石を楽しんでいること(屋舎)、宴会は大小となく酔わずに帰る人はいないこと(飲食)、日本では字を書いた紙を大切に扱う風習が学者文人の問にすらなく、道路汚濊の中へ平気で棄てるのはまだしも、婦女子の如きはこれを便所の尻ふき紙に使って平気でいること(莱)など、日本人と中国人との問の生活慣習の相違を指摘しているのも興味あるところである。なお本書には、陳の友人王肇の作図した「日本四大島 (筆者注、本州・四国・九州・北海道)全図」が附されている。
三 日本国志
光緒五年(明治二一)「日本雑事詩」が公刊された時、黄遵憲の頭の中ですでに「日本国志」の構想の大網が出来上っていたことは前に記したところである。彼はその後も精力的にこのための研究を進めていたが、明治十五年(光緒八)サンフランシスコ総領事として赴任することになり日本を離れ、しかも総領事の仕事が繁忙を極めたため、日本研究の仕事は二時中断のやむなきにいたった。総領事として在米勤務すること三年、明治十八年任期を一応果して本国に帰還する途中、彼は日本にたち寄り日本文人達との旧交を温めているから、この時「日本国志」完成の情熱にはあらためて新しい火がともされたものと思われる。翌年彼は政府から再びサンフランシスコ総領事として赴任することや南洋諸島巡察の任に就クことを懇望されたが、「日本国志」編纂の初志を貫職ためこれらの栄蔵を固辞し、家居してその編纂に専念し、非常な苦心を重ねながら翌光緒十三年(明治二〇)五月ついに中東年表(筆者注、東は日本の意味)・国統志・隣交志・天文志。地理志・職員志・食貨志・兵志・学術志・乱読志・物産志・工芸志の一二部から成る全40巻の大著を完成し、その稿本を総衛衝門に提出するにいたった。 この書の凡例の第一に、「史筆に本国を尊び外国を卑記することは狭陋の見であり、史家の記述はよろしく実録に従うべきである。殊に日本は朝貢国ではなく、国書往来対等の礼を用いている国である」と記して居ることは、著者の史学者としての公平な態度と、この書が合理的な思考の産物であることを端的に物語るものである。記述内容は詳細であるが、史実を客観的に叙述するにとどまらず、各志のそれぞれの項目には、「外史氏論」として著者の解釈や意見をつけ加えて史論を展開して居り、ここに中国人によるはじめての詳細かつ系統的な研究書が出現したと云うことが出来る。はじめ「日本国志」の編述を計画した頃、黄遵憲は、当時の中国人一般の風潮や、来日後交際するようになった日本人漢学者達の考え方の影響もあり、旧慣をすてて西洋文明の摂取に傾斜している日本の政府や国民の態度に対しては批判的であった。しかしその後アメリカに赴任してその政治や社会の実情を見聞するうち、彼の見解にも微妙な変化が生じ、日本政府のとっている開化政策についてもある面ではその成果を積極的に評価し、むしろ中国政府も同様の政策を行うべきであるとさえ考えるようになっていった。彼が「日本国志」を総理衛門に提出したのは、中国政府や国民の問で日本に対する軽視の風潮が強く、いたずらに対日強硬意見を主張する者が多いのに対して、明治維新後の日本の力は必ずしも侮るべきものではなく、軽々しく日本との戦争を起すべきでないことを、中国政府に警告する意図もあったのだと理解する人もある。日本国志は光緒十六年(明治二三)広州の富文斎から刊行され、文人の問に注目を浴びたが、中国国民の問に広く読者を得ることもなく、中国政府も黄の意図を十分-みとることなく、強硬な対日態度をとりつづけた結果、明治二十七年旦清戦争となり、中国は大敗を契してしまった。日清戦争が終ったのち中国国民の問に敗戦に対する深刻な反省が起り、日本を見直そうとする気運が急激に高まるにつれて、「日本国志」はあらためて中国国民の問で脚光を浴びるようになり、浙江書局の大型版本をはじめとして活字本。石印本・袖珍本等種々の版が相ついで出版され、また黄の意見を記した「外史氏論」のみを集めて、これに「日本国志序」と題したものまで刊行されるにいたった。このことはこの本が戦後の中国人の問でいかに歓迎されたかを物語るものであろう。戦後出版本の末尾には党籍二十二年(明治二九)十一月付で梁啓超が記した後序が掲げられているが、梁はその中で、「自分は今この本を読んで、日本の強いゆえんを知ったが、黄噂憲がこの書を著して以来十年、この書を流通せしめず、中国人をして日本を知らしめず、日本に備ゝ見ず、は黄の罪であり、憤懣に耐えない」という意味のことを記している。これは逆説的に、日本研究書としての本書の価値を高く評価し、この本に注意することを怠ったことを中国国民の犯した過失として批判したものといえよう。国民党の長老の一人戴季陶(号、天仇)は、民国十七年(昭和三)刊行した「日本論」の中で次のように記している。 「中国から日本に留学した者は決して少くない、的確な数字は分らないが、少くとも約十万人はいる。此の十万の留学生が、日本てふ命題に対しどれだけの研究をしているかといふに、余の知りたる範囲に於ては、三十年前に黄公度氏が「日本国志」といふ書を著した以外、日本のことを単独に論じた書籍がない。」 この記述は必ずしも全面的に正確であるとは云えないが、日本国志が昭和初年に至るまで長期に旦って中国人の間で、中国人による日本研究書として高い評価を得て来たことを物語るものとはいえよう。 なお、「日本国志」 を出版した光緒十六年(明治二三)黄遵憲は再び官途につき、在英中国公使館の参賛官としてロンドンに赴任し、翌十七年(明治二四)七月から二十年(明治二七)十一月までは総領事としてシンガポールに駐在したが、ロンドン在勤中彼はさきに出版した「日本雑事詩」の増補改訂に着手している。これは、前述のように同書は出版後好評を博して多くの版本が現れたが、中には最初に出版された官版同文館本に付けられていた訂正表による訂正を行わず誤ったまま印刷しているものもあり、また著者に無断で出版したうえ更に文字を誤まっているものなどのあることが判明したことの外に、「日本国志」を著述している間に日本に対する黄の見方や考え方に変化が生じ、はじめの詩文の中には彼の意に満たないものが生じていたため、はじめの一五四篇の詩文のうち来篇かを削除したり改めたりしたほか、まったく新しいものをも加え、総計二〇〇篇としたものであり、光緒二十四年(明治三一)按察使代理として郷里の湖南省長沙に居た時、同地の富文堂から「日本雑事詩」の定本として出版した。従って先の原本とこの定本とを対比することにより、黄遵憲の日本に対する考え方の変化の一端を窺うことも出来る。
四 日本新政考と遊歴日本図経
アへン戦争の敗北以来、中国でも軍事面を主として西洋文明摂取の必要が論ぜられるようになり、保守派の反対と戦いながらも、漸次実施に移されつつあった。明治二十年(光緒二二)清朝政府が員外郎主事級の若手官僚二一名を三年の期限で諸外国に派遣し、各国の情勢を視察させたのも、こうした動きの一環であったが、この時日本・アメリカ・ペルー・ブラジル・キューバ・カナダの計六カ国の視察員を命ぜられたのは、刑部主事顧厚焜 (号、少逸)と兵部侍郎傳雲竜(号、懲元) の二人である。彼等はまず上海から日本に向い、明治二十年十一月十二日 (光緒三一・九二一九)長崎に到着してから翌二十一年五月二十九日(光緒一四・四二九)横浜からアメリカに向け出帆するまでの約七カ月と、帰途明治二十二年五月二十七日(光緒一五・四・二八)横浜に着いてから十月十九日(九・二五)上海に向けて長崎を離れるまでの約五カ月、前後合せて約一二カ月を日本に滞在し、その間ともに熱心に日本の研究に当り、顧は早くも往路の日本滞在中に、樽は本国に帰ってから、それぞれその成果を著書としてまとめあげている。 まず顧厚焜についていえば、彼は日本滞在中に横浜・横須賀・名古屋をはじめ京阪神地方を旅行し、各地で陸海軍諸機関・官公署・宇校・工場・公園の視察はもとより、商況・民情・風俗等にも注意を払い、また種々の文献や資料を蒐集し、日本語文献の播訳などに公使館員の協力をえながらそれを整理し、アメリカ出発の前月たる光緒十四年三月,これを「日本新政考」二巻にまとめ上げて印刷に附した。この書の初版本は恐らく日本で印刷されたものと思われるが、現在筆者が所持しているのは,のちに梁啓超が編纂した「西政叢書」に収められている石印本のみで,あるので、この点は後考をまちたい。 「日本新政考」は洋務・財用・陸軍・海軍・考工・法治・紀年・爵禄・輿地の九部から成り、それを更に細分して合計七三の項目としている。例えば,洋務部は奉使考・各国使臣考・通商考・出口入口貸考。輸出物産考・商買戸数考・商輪考・海里考・灯台考・浮標礁標考・鉄道考・電線考・府県電信局考・新聞考に分けられている。例言の最初に、「この編は日本の新政について述べたものであるから、従前の事蹟については詳しくは誌さない」と断っているように、この書の大部分は、明治維新後の新政、さらに云えは、この書の編まれた明治二十年当時の日本の法規制度や産業経済の実態などを記述し、関係一覧表や統計表等を掲げたものであり,中国人の問に明治維新後の日本の旧物破壊が特に宣伝されて観念的な対日批判が多かったのに対し、日本の実情の一面を具体的に知らせる上で寄与するところがあったと思われる。黎庶昌公使はこの書に序文を寄せ、日本は「明治改元してより、あげて唐制は之を廃し、西法を尚ぶも、時に困って宜を制するただは善変に非ずとは謂うべからず、君子の人の国を観るや、第に其の長を取るのみ」と記して、明治維新に一つの理解に示しているが、顧の立場もこれに近いものであったと思われる。顧の「日本新政考」が日本の現状把握に主力を住いだのに対して、現状考察のみならず過去にまでさかのぼって研究し、また、法規・制度姦治・産業等に止まらず広く文化の面にまで視野を拡げて深く考察したのは、傳雲龍の「遊歴日本国経」三○巻である。この書は黄遵憲の「日本国志」と同じく日本百科事典とも称すべきもので、天文・地理・河渠・国紀・風俗・食貨・攷工・兵制。職官・外交・政事・文学・芸文・金石・文教の一五部から成り、例えばその中の風俗部は人情・形体・族類・党目(筆者注、政党のこと)・服飾・飲食・居処・礼俗・歌舞・歳次・方言の子目に分れているように、全体では子目の数は一八三に達している。 彼は前後二回に旦る日本滞在中、この書の著述のために驚くべき熱意をもって資料の蒐集を行なうと共にその分析研究に当り、原稿の一部はアメリカ旅行中にすでに出来上っていたようで、帰途日本に立ち寄った際に賓公使にそれを示し、公使からその仕事を完成するよう激励を受け、昼夜原稿の補充訂正に当り、帰国後四カ月にして業を完成している。 この書に叙文を与えた黎庶昌は、その文中に、樽は「好学深思の人」であり、彼のこの度の旅行を見るに「昼間は研究してやまず、夜も勤めて怠らず」と記している。この六カ国旅行中の傳の日記は別に「遊歴図経余紀」と題し出版されて居るが、この日記によって「遊歴日本図経」が作られてゆく過程を詳しく知ることが出来る。例えば、官工表その他の草稿を作った光緒十五年七月十日の条には,「鶏鳴きしも草未だ脱せず」と記し、陸軍分営表などの原稿を作った同月十九日の条には、「この夜、漏尽くるも末だ寝ねず」と、外国人在日本表その他を書いた八月四日の条には、「つねに墨枯れ筆禿び力支え難ければ、輙ち自ら責めて期迫ると日ひ、これより四鼓すなはち起きて机に伏す」と記して居り、旅行中すでに着々と内容をまとめていたことがわかり、この書が並々ならぬ努力の結昌であったことを知ることが出来る。 本書の内容は極めて詳細である。たとえば巻二から巻六までの五巻を占めている地理の部分について云えは、記述に加えて四至八到表。沿革表。府県分彊表・郡村繋国表・ふ海辺険要表・港湾深測表・灯台表・昼灯表・民設旧灯明台表・暴風信号標表・国郡表・宮室表・官署表・東京街道表。府県庁到東京里表・府県庁孔道支道表・商港繋年表・中外名港里表・北海道閉路表。島表・山表。火山表など種々の表を掲げ、またその中東京街道表の如きは東京市内各区の全町名を、府県庁孔道支道表には全主要街道の宿駅の名称や宿駅問の距離を記している。また地理を理解するのに地図なくしては不可能であるとして、道府県各一枚、合計四六枚の銅版による明断な地図を附して居り、その地図の中の港には水深までも記している程である。なお、この書の中の日本の芸文志には、清代の中国人が日本のことを記浸した書として、前述の「使東述略」「日本雑事詩」「日本地理兵要」「東槎見聞録」および後述の王韜の「扶桑遊記」その他をあげているが、黄遵憲の「日本国志」はあげられていない。これは、「遊歴日本囲経」が出版された光緒十五年(明治二二)には黄の「日本国志」はすで完成していたが、まだ出版されていなかったので、樽は同書を見ていなかったために外ならない。
む す び
以上、明治期の日中国交回復から日清戦争開始に至るまでの間に中国人によって著された日本研究書の幾つかをとりあげて説明を試みたが、この時期に中国人が日本について記したものは、もちろんこれにとどまるものではない。国交回復後、公用・観光・商用・視察・研究をはじめいろいろの目的で日本を訪れる中国人が次第に多く、彼等の中にはその旅行記や視察記等を公刊した者も少くない。 王韜(号、紫詮)の「扶桑遊記」もその一つで、彼は明治十二年日本を訪れたが、当時中国で著名なジャーナリストであり文学者であったから、日本の学者文人の間から到るところで大歓迎をうけ、日記であるこの旅行記三巻は、栗本鋤雲が訓点を施して明治十二年から十三年にかけて東京の報知社から発行され、日中文化交流の記録としてもてはやされた。また、同年日本の軍事情勢偵察の要務を帯びて来日した王之春の旅行記録 「談濠費」 (筆者注、濠は日本を意味する)も注目すべきものであるが、この小論では紙数の関係上残念ながらとりあげることが出来なかった。他日論及する機会を持ちたい。(昭和56・8稿)
注 (1) 例えば、福沢諭吉はその自伝の中で、青少年時代に読んだ書として、論語・孟子・詩経・書経・豪求・世説・左伝・戦国策・老子・荘子等をあげたのち、「歴史は史記をはじめ前・後漢書、晋書、五代史、元明史略と云ふやうなものを読み、殊に私は左伝が得意で、大概の書生は左伝十五巻の内三、四巻で仕舞ふのを、私は全部通読し、凡そ十一度繰返して、面白い処は暗記して居た」と記している。 (2) 岩生成一編、「外国人の見た日本」(筑摩書房刊)第一冊の中に、さねとう・けいしゅう訳「唐人屋敷」の題名で、その全訳文が収められている。 (3) 拙稿、「中国人と吾妻鏡」(日本歴史第一八八号〔昭和三九・一〕所収) (4 ) 新村出、「元治元年に於ける裏更の上海視察記」(「遠西叢考」所収) (5) 「日本外史」は光緒四年(明治一一年)には上海の讀史堂から繙刻出版されている。その本の評閲者銭子琴は序文で「叙事簡萩、議論明通、褒貶微顕、真良史之才、文章矩艧也」と評している。(中山久四郎、「近世支部の日本文化に及ぼしたる勢力影響」) (6) 日本外交文書、第六巻、九六号文書附記 (7) 実藤恵秀氏はこの両者を合せて訳し、「初代駐日公使何如璋の赴任日記」と題して、同氏の「明治日支文化交渉」(昭和一八年、光風館刊)に収めておられる。 (8) 張斯桂は明治七年の台湾事件の際にも、中国政府代表潘霨の随員として台湾に派遣され、西郷従道との交渉に当っている。(西南紀伝、上一巻) (9) 黄遵憲の詩人としての地位と業績については、島田久美子「黄遵憲」(岩波書店刊、中国詩人選集二集、第一五巻)の解説文に詳しい。 (10) 帰国後に何如璋は馬尾船政大臣に任ぜられたが、明治十七年の清佛戦争で福建省の馬尾船廠はフランス海軍の攻撃でたちまち潰滅状態に陥り、この時彼がいち早く敗走したことで世人の非難を浴びている。(小沢籍郎、「清佛戦争見聞録」) (11) 姚文棟は日本から帰国した後に.ベルリンの中国公使館に赴任している。井上哲次郎は明治十九年から同二十三年まで同地の東洋語学校で日本語の教授に当ったが、その間に姚と交際して居り、井上が帰国する際に姚は送別の詩を贈っている。(井上哲次郎、「懐旧録、八十八年を顧みて」) (12) 黄遵憲の詩集である「人境廬詩草」の注釈書を著した銭萼孫は、光緒二十一年に袁爽秋が黄に対して「日本国志の稿本がいたずらに総理衛門の高閣に置かれて一、二の人以外は見ることが出来なかった。もっと早く公刊されていたら、主戦の暴論もなく、二億の賠償金も必要がなかったろうに」と語っていることを挙げて、光緒十六年は「日本国志」の印刷が開始された年であり。本書の印刷完成は光渚二十一年(明治二八)であろうとしている。(「人境廬詩草箋注」上巻、年譜) (13) 安藤太郎訳、「日本論」(八州書房刊)二五貢。なお、矢野文雄が中国駐在公使として北京にいた頃(明治三〇⊥二二年)、梁啓超は、「日本国志」の記述に基いて日本のことで矢野に色々の質問を試みたが、矢野は、同書は二〇年前のものであり、これを以て現在の日本を忖度してはならないと注意したという。(桑原隲蔵、「東洋史説苑」) (14) 定本「日本雑事詩」は、実藤恵秀・豊田穣両氏訳で昭和十八年に生活社から刊行され、さらに同四十三年には平凡社から東洋文庫の一冊として出版されている。この本には、定本だけではなく原本の体裁や内容も分かるように周到な配慮が施されている。 (15) 拙稿、「明治初年に於ける一中国人の日本偵察記」(日本歴史、第三五号〔昭和二六・四〕所収) (執筆時、国士館大学教授・国史学) 備考:本稿は「人文学会紀要14号」(国士舘大学 昭和57年)に掲載された論説を佐藤教授顕彰会事務局が体裁的修正を加えたものである。
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