要領 『皇室典範改正私案』 の解説について     青々企画代表 田中 卓 (第20回)

 前回(第19回)をアップしたのは7月27日であった。それに「次回につづく」と書きながら、1旬余を経てしまったが、それはその間に、私の専門とする古代史問題(伊勢の神宮)で重要な課題が生じ、その対応に時間をとられたからである。しかしこれについては一応の見透しがついた。
 一方、一昨日(8月6日)には、小林よしのり氏の『女性天皇の時代』を受贈した。(ベスト新書、刊行は奥付に8月20日初版とあり。私は発売日前に頂いたことになる。)
 新書版だが270頁。内容は「8人10代の女性天皇の時代から、女帝・女系継承の正当性を示す」充実した労作で、帯封に「女性天皇は皇統断絶ではない!」、「男系男子限定」は明治以降の「異常な状態」、「万世一系の『男系』継承はウソ!」という激しい言葉がちりばめられているが、本書はそれを見事に証明する好著である。
 その他にも、ようやく「皇室典範」の改正に注目する論説が表面化し、詳細な「改正私案」を作成して批正を求めて来られる学友もある。


 改めて確認しておくが、この数年来、政党以外でも、讀賣新聞・産経新聞など、改正議論の対象は、敗戦後の占領下に作られた新「憲法」そのものであった。しかし、この改正は、現在の国体観の混迷している時代には不適当であり、時期尚早というのが私の見解で、そのことは小欄の第10回「憲法改正よりも皇室典範改正に注目せよ」(5月8日)に書いておいた通りである。そしてその論旨を整理した要点は、第11回の「皇室典範第一条の改正について」で、まとめておいたから、読者諸賢は今回の「解説」を読む前に、この内容を先ず御承知おきいただきたい。


 さて、「解説」に際して、呉々もお断りしておくが、「皇室典範」の性格が、当初の“皇室の家法”から、増補の際の官報告示によって、“国法”に変わり、更に敗戦後の改変によって、“憲法の下位に当たる一法律”化していることである。
 何故それを断るかというと、もともと私は、天子は元来、空間(地域)と時間(暦)とを支配するお方で、その身位を、法によって規制するのは間違いだ、という支那及び日本法制史の権威瀧川政次郎博士の教を尊重しており、そのため、シナの文化を受容した日本の大宝律令でも、天皇の身位や皇位の継承については、全く言及されていないことを承知しているからである。
 それにも拘わらず、明治に入って、欧米文化の影響をうけ、それに引けをとらぬ皇室の法体系をつくるため、“皇室の家法”と称する「皇室典範」が出来たのである。これは、当時としては、叡智を集め非常な苦心の結晶であることは十分に承知しているが、やはり、法典という制約には、予想外の欠陥がともなうものである。一、二の例を示せば、明治の「典範」は、「皇庶子」を認めているが、昭和天皇の御英断と内外世間の常識として、現今では文面からも消去されている。また皇位継承そのものも、外来文化を受容したため永年の生活習慣となった“男系男子”に制約されており、そのために、仲々男子の生まれない昭和天皇が大変御心痛になったのは周知のことだが、今や、その直系に当たる徳仁皇太子殿下の御系統は、次の愛子内親王で、このままなら(「男系男子」を固執する現典範では)断絶の危機に直面されている。


 その時には秋篠宮悠仁親王殿下がいらっしゃると、楽観する論者がおり、現状では国民一般も同様に考える向きが多いと思われるが、これは大変な異状事態なのである。何故なら、皇位継承が、直系の徳仁天皇系から傍系(甥に当たり、直系ではない)の悠仁親王系に移るのであり、これは、伊藤博文(岩波文庫『憲法義解』一二九頁)の所謂“皇位継承についての「三大則」”の「第三、皇祚は一系にして分裂すべからず。」の忠告に背くものである。その意味は、別に論じたことがあるので、ここでは割愛するが、日本の内乱は、皇位が「兄弟相及ぶ」といふ“分裂”から発生する実例が多いこと、大方の史家の認めるところである。


 人間の手になる法制下では、想定外の異例の出来事が生ずるのであって、その時には、時宜に従って修正するのが常識である。私が「改正」というのは、この意味であって、何も自ら考える独自の理想的な「典範」私案を、提示するようなつもりは毛頭ないし、専門外の法典の文案に、クチバシをはさむのは、学者として過分の振る舞いに堕することを承知している。従って、前回の典範の「改正私案」は、あくまで皇統の万葉一統のための「要領」を示しただけのことで、この趣旨で採用される点があれば、国家の然るべき機関において、更に検討していただく、いわば叩き台か、参考資料として提示しているにすぎないのである。
 それ故、「私案」は、

① なるべく原文(現行典範)の文字を活かし、必要最小限の問題点のみを示した。

② 新しく「皇親」「皇別」の用語を採用したが、共に大宝・養老令や新撰姓氏錄という勅撰の古典に見える由緒ある言葉で、私が勝手に作った用語ではない。

③ そしてこの用語の使用により、“永世皇族”という現状の制度の欠陥を補い、また皇族女子の婚姻のお相手(皇別、即ち男系)の受け皿を拡大して、男系の可能性を豊かにしたつもりである。そしてその結果として“男系男子”派も反論の余地が少なくなることを期待している。

④ 「皇親の五世孫以降」や「五世孫まで」(改正案の第六条)とした「五」の数字は、歴史家としての私の仮の一案に過ぎないので、これは現実と照合して、立法専門家が自由に検討して適当に改めて貰うことを前提としている。つまり、内閣法制局ないし特別の委員会で検討していただく素材にすぎないことを特に断っておく。 (平成25年8月8日)

▲ページの先頭へ

皇家の万葉一統を護持するために ― 次の「皇太子」は愛子内親王殿下が道理(2)―
                    青々企画代表 田中 卓 (第19回)

 前回の「次の『皇太子』は愛子内親王殿下が道理」という拙論に驚く人々もあったようであるが、日本の歴史を学ぶ私にとっては、8人10代の「女帝」の実例から考えて、何の疑問もないことであった。まして小泉首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」が「女性・女系天皇容認」「男女を問わず長子優先の皇位継承」「女性宮家創設」を骨子としてまとめた最終報告書があり、当時、私は、率先してこれに賛同したことでもあるから、何の違和感も持っていない。
 私の提説に驚いた人々は、自分自身の深い考えはなく、日本の国は「男系男子」の継承が“特色”であり、“伝統”である、という一部の男系固執の評論家による宣伝を真にうけて、ただ何となく信じこんでいるために、明治憲法の「皇男子孫」や旧皇室典範の「男系男子」を、“万世一系”の代名詞、或いは同格の表現のように雷同してきただけのことである。真に日本の“伝統”で、世界に誇りうる史実というものは、男系男子とは関係なく、“万世一系の皇統”そのものである。(実際は“一系”というより“一統”という方が歴史の実体にふさわしく、これを吉田松陰は「万葉一統」と記述し、先立って水戸学では「皇統一姓」とも呼んだが、この点は別に述べたことがあるので、今は繰り返さない。)もともと皇室の“男系男子”そのものは、それほど“誇り”とするに足るものではない。それはシナの古代家族制の“一夫一婦多妾”(一般に“一夫多妻”という)をもとにした、側室(多妾)制度を日本でも受容した生活慣習に過ぎないからだ。それが、皇室に関しては「大宝令」で制度化されただけのことである。
 それよりも、真の我が国の“光輝ある伝統”というのは、日本国の正統な統治者が、建国以来、皇家(一般に天皇家と呼ばれる)だけの系統で継承されてきたこと、即ち外国の征服者による革命や、国内でも皇統以外の他氏族による国政の簒奪は、二千年にわたって一度もなかった、という世界に例を見ない稀有の事実なのである。この「万葉一統」の国体こそが、日本の世界に誇る姿であり、男系男子の歴史は、珍しいことではあるが、側室と養子(猶子)の制度によって継承した慣習の結果にすぎないのだ。しかも側室制の本質は、シナで盛行した男尊女卑の思想に通底し、近代日本では反時代的な弊風であるため、昭和天皇の御英断によって完全に廃止されて今日に至っている。これで男系男子の旧弊が永続し得る道理がない。いや道理だけでなく、実際に125代に及ぶ御歴代天皇の中、約50%近くは、皇后以外の側室などによる御出生という、歴史上の実証もある。常識ある国民ならば、今日の危機が、正にこの点にあることを率直に認めねばならない。


 ところが不可解なことに、男系男子派は、この皇室の側室制について、知ってか知らずしてか、(これは言葉の綾。実際は十分に承知しているのに、)これまでの論争上で、側室問題について殆ど言及したことがない。(これを旧弊と認めれば“誇りある伝統”などと言える筈がない。)この重要な論点を避けて、男系男子に固執するのは、恰も高台に登るのに、必要な梯子をはずされても、まだ虹の橋で登れると空想するに等しく、空論と言うほかはない。


 男系・女系などというから、男女の堅苦しい対立となるが、もともと子供は、父親と母親との両性から生まれるのである。「夫婦相和シ」(教育勅語)こそが日本の、いや人類の道徳だ。しかし「相和シ」ても、子供の生まれない人もある。生まれても、女子ばかりで男子でない場合もある。それにも拘わらず、男子を生めない女は離婚の条件の一つにしてもよいという古代シナ流の非情な旧弊(日本の大宝・養老令にもその後遺症がある。)が、男系男子派の中に残っていなければ幸いである。
 尤も、男系男子派の主張の中では、最近は既に臣籍降下した傍系の皇族男子を皇族に復帰していただくとよい、という議論が主流をなしている。その点では尚検討すべき問題もあるので、次回に続稿することとしよう。


 以上で第19回の記事は擱筆する予定であったが、只今、さる方面から結論を早くするように督促をうけたので、基礎を固めて建築図面を示すつもりであったが、予定を変更して、先ず図面、『皇室典範改正私案』の“要領”を急ぎ追記することとする。ご諒承いただきたい。

 (次回へつづく) (平成25年7月27日)

▲ページの先頭へ

皇家の万葉一統を護持するために ― 次の「皇太子」は愛子内親王殿下が道理(1)―
                    青々企画代表 田中 卓 (第18回)

 このウェブの立ち上げは、皇統護持の念願に尽きる。その他の内容は、私の念願を達成するために妨げとなる議論には批判を加え、念願成就に役立つ論説には賛同してきたつもりである。要するに破邪顕正の一端を担うためのささやかな試みであった。
 しかし、論壇の形勢は必ずしも好転せず、日月と共に天皇・皇后両陛下もお歳を召されてゆく。国家・国民の安泰と共に、皇位継承の安定化を最大の悲願とされている両陛下に御安堵をいただくためにも、その方途を一日も早く献策し、皇室典範を改正しなければならない。
 その点を深慮して、小泉内閣当時に有識者会議が結成され、具体案をまとめ、私も病床にありながら、雑誌『諸君!』や小冊子(国民会館叢書)に女帝・女系で何ら差支えないという賛成論を執筆したが、結局、男系男子固執論者の「口やかましい少数者集団」(ノイジー・マイノリテイ)に威圧されると共に、幸いに秋篠宮悠仁親王殿下の御生誕があり、解決は先延しとなった。
 しかしその後、宮家の女王がたが、次々と御結婚適齢期を迎えられるに及び、現行典範のままでは、皇族は養子も許されず(第九条)皇族女子は皇族以外の者と婚姻した場合は臣籍降下の他はない(第十二条)ため、悠仁親王殿下が即位される頃には、皇家(現在の天皇家)はもとより、実家 (出身宮家) にあたる秋篠宮を含めて、宮家と称するものは皆無となり、悠仁天皇(仮称)お独りだけの御世となることが、予想されるにいたった。


 このようなことは、わが国二千年の国史で未曽有の事態であり、若しも悠仁天皇(仮称)に万一のことがあるか、或いは御成婚後に男子が生まれられなければ、この時点で、忽ち二千年の“皇統は断絶”という危機が到来する。それが現皇室典範で定められた法理である。


 ここにおいて、陛下の御憂慮を拝察した宮内庁から説明を受けた野田内閣は、女性宮家の創設案を提起し、ヒヤリングに選考された有識者12人中、8名が女性宮家の創設案に賛成(反対は4名)したにも拘わらず、これを改めて国民への意見公募(パブリック コメント)に問う形をとったため、男子男系固執派の猛反撃をうけ、その組織票によって、敢えなくも女性宮家創設案は否決される結果となった。8対4で有識者に賛成があれば、国民の意見公募などは必要とせず、女性宮家の政府案を、直ちに国会に提出して、国民を代表する議員の公議にかければよかったのだ。
 しかし、後悔先に立たずで、一旦否決の結果が出てしまうと、女性宮家創設案の再提出は、殆ど至難に近いと思われる。加えて後任の安倍首相は、もともと男系男子固執派の中枢であったから、国民公募の否決に勢づいて、早速、女性宮家案は「白紙」に還元するとまで表明してしまった。


 その結果、天皇・皇后両陛下の、せめてこれだけでもと希望された直宮の女性宮家存在の御悲願は、打ち消されることとなった。現今では、女性宮家創設案が、陛下の御希望に添うものであることは、一般の論壇では殆ど常識のことであるのに、何故、男系固執派が、叡慮(大御心)に背を向けてまで反対するのか。心ある日本人には理解しがたいことであろう。その疑問の解明は何れ詳述する予定であるが、今は先を急ぐので省略する。
 尤も、何も言わないと誤解される恐れもあるので、一言しておくと、普通に私共が「大御心」と申せば、叡慮、即ち現「天皇陛下の御心」を申し上げるが、男系派の「大御心」というのは、現在の天皇の「御心」とは異なり、二千年の日本歴史を通じて拝される歴代天皇の「御心」を総称しているらしいのである。即ち「御心」とは、現在の天皇の心であり、「大御心」とは、歴代天皇の心、だそうである。私は初めて聞く奇妙な解釈だが、これは、男系男子派の拠点となっている日本会議の事務局を代表し、且つ私の積年の知己からの、率直な回答なのであって、決して私見の勝手な判断ではない。それどころか、この思想の底流には、根の深い哲学思想が隠されているのである。それは、フランス革命を誘発(1787年~)したジャン=ジャック・ルソーの「一般意志」(社会契約論)の転用にほかならないのだ。その詳細は後述の機会に論ずるであろう。


 ともあれ、今上陛下の「大御心」に背いてまで、男系派は、女帝の出現も、女性宮家創設案も否定した。しかも彼等は、その後の皇統匡救案を一向に提出していない。無責任ではないか。僅かに一部の論者は、皇統に属する男子であれば、たとえ遠い間柄であっても傍系男子をお連れして皇族に復帰して貰えばよいという。ところが、小林よしのり氏ではないが、そういうお方があるならばお連れせよ、と言われても、彼らにはそれは出来ない。第一に、現在の御結婚適齢期の女王にふさわしい年齢のお相手の傍系男子が見当たらないではないのか。管見では唯一人考えられるが、ご本人が自分は不適任だと明言されているから問題にならない。
 一方、旧典範には「皇族ノ臣籍ニ入リタル者ハ皇族ニ復スルコトヲ得ス。」(増補第六条)とあるから、これは戦後、既に廃案となっているものの、これをどう改正するのか、それを提案する声も男系派からは聞こえてこない。


 天皇・皇后両陛下の御憂慮にお応えするだけでなく、恐れ多いことながら、天皇陛下に万一のことがあって皇太子殿下が「摂政」になられ、更に次の御世を継承せられるような必無の事態を迎えたら、その時の天皇の「後嗣」にあたる「皇太子」(新典範第八条)は、どなたになるのか。国史上、皇太子の冊立については、種々の変遷があるが、明確に制度化されたのは旧典範(第十五条)からである。これは皇位継承の際の混乱を避けるため、予め法的に規定された重要な制度で、新典範にも引き継がれている。(第八条)それによると、「皇太子のない時は、皇嗣たる皇孫を皇太孫という」という規定はあるけれども、現状では、これに対応する用意もない。この、天皇陛下に万一のことがあれば、「皇太子」が「空位になってしまう」という欠陥を、最初に指摘されたのは、管見では小林よしのり氏であるが、(『新天皇論』第16章160頁)正にその通りなのだ。
 皇室典範の「皇位は……男系の男子」(第一条)から逆に推定すれば、皇嗣にあたる「皇太子」も、一応は「男子」と考えられるが、秋篠宮悠仁親王は、次代の徳仁天皇(仮称)の「子」ではないから、現在の常識としては、正確な意味での「皇太子」ではありえない。若し、それを敢えて「皇太子」と称するためには、徳仁天皇(仮称)の「実子」、又は「猶子」として承認する儀式が必要だが、(明治天皇も大正天皇も側室の庶子だが、儀式で実子とみなされた。)明治時代以前ならばともかく、現代ではそのような形式的な儀礼は考えられない。


 一方、秋篠宮文仁親王殿下は、現在の皇太子である徳仁親王殿下の「実弟」ではあられるが、「実子」ではないから、次代の「皇太子」ではありえない。それ故、この場合は、新たに「皇太弟」の名称を用意せねばならないが、そのためには皇室典範の改正が必要なのに、その準備もない。


 このように吟味してくると、むしろ率直に考えて現行典範のままならば、「皇長子」としての愛子内親王こそが、「皇太子」と称せられるのが当然なのだ。問題は「女子」という点だけである。
 しかし、もともと、「皇太子」の語幹の「皇子」は、“天皇の御子”の意味で、「皇子」そのものに、男女の区別はない。現皇室典範でも第六条を熟覧せられよ。「皇子」の中の「男を親王」、「女を内親王」とあるではないか。「皇子」は男女の両者を共に含むのである。
 従って「皇太子」にも本来は、男・女の別はないのである。現に孝謙天皇(阿倍内親王)は、聖武天皇の第一皇女として、天平10年に「皇太子」になられた前例がある。現行典範でも、「皇位」には「男系の男子」の規定(第一条)があるものの、「皇太子」には「男子」の規定はなく、「男系の女子」でも、異存はない筈である。問題は、現行皇室典範で、「皇太子」の女性が否定されていないのに、「皇位」が「男子」に限定されているという矛盾である。この矛盾は当然、改められねばならない。その際は、歴史の前例に照らして、「皇太子」も、「皇位」も、男女共に容認する規定とするのが当然であろう。でなければ、阿倍内親王の皇太子も、推古天皇以下8人10代の女帝も、歴史の上から抹消されてしまうことになり、道理として許されないことになる。
 現に、先般公表された産経新聞社の『国民の憲法』の「第1章天皇」の第3条によれば、「皇位は、皇室典範の定めるところにより、皇統に属する男系の子孫がこれを継承する。」と改正されており、「男系の子孫」の「子孫」は、男女に通用する言葉である。それが常識であると共に、日本歴史の実例を正直に物語っているわけだ。これは旧帝国憲法の「皇男子孫」及び旧典範の「男系ノ男子」を改正した結果である。
 それ故、男系男子派の産経新聞社の改正憲法案でも、現皇太子が、天皇に即位せられた後の「皇太子」は、疑もなく「男系の子孫」である「長皇子」(現典範第二条一)の愛子内親王殿下となるのである。このようなことは、これまで誰も唱えた者がないから、人々は驚くかも知れないが、これが、現行の皇室典範から公正に考えて導き出される道理である。先ず、そのことを国民は十分に理解せねばならない。 (次回へつづく) (平成25年7月18日)

▲ページの先頭へ

安倍首相は身辺の疑惑に答える責任がある   青々企画代表 田中 卓 (第17回)

 前回7月1日の小欄(第16回)で、私は『週刊新潮』の皇室関係記事をめぐっての、皇后陛下の御心労を紹介して、安倍首相は「見識と決断」を以て急ぎ事態の解決に努めて貰いたいと切望した。
 ところが、その直後、肝心の安倍首相の身辺に、不可解な報道が相次いで週刊誌に暴露された。

(1)は『週刊文春』7月11日号(7月4日発売)で、「鳩山由紀夫・安倍昭恵(総理夫人)を操る中国人スパイ」と題する記事である。

(2)は『週刊ポスト』7月26日号(7月8日発売)で、小林よしのり氏の「皇太子・雅子妃バッシングの“元凶”は安倍晋三である」と題する記事である。


 内容はそれぞれ必読されることをお勧めするが、一言でいえば(1)は鳩山氏も、安倍夫人も、中国の「スパイ養成機関出身のエリート工作員」に操られておるというのである。
 鳩山氏は札付きの人物だから、さもありなんと思うが、安倍夫人が、この「謎のイケメン音楽家呉汝俊」と、「二人で訪中するほどの親密すぎる関係だった」(リード)というのには驚いた。
 安倍夫人は、現在、日本のファースト・レディである。世界中を見渡しても、ファースト・レディが、その国の領海に連日のように侵入する仮想敵国とおぼしき外国の、美男スパイと二人でその国を訪れるというような話は、寡聞にて耳にしたことがない。
 嘗て吉田松陰は、『講孟劄記』の「孟子序説」に」において、
 「修身・斉家・治国・平天下ハ大学ノ序、決シテ乱ルベキニ非ズ。」
と説いたが、一国の首相たるもの、「治国・平天下」を論ずる前に、“身を修めること”が第一で、第二に「家を斉(ととのえ)ることが肝心である。自らの女房に、かような醜聞を週刊誌に暴露されるようでは、首相の資格を疑われても仕方がないことになるから、これは是非とも早急に真偽を確かめて、国民に回答せられたい。虚報であれば、『週刊文春』は、勿論、責任をとるべきであろうし、事実であれば、首相は、当然、辞職すべきであろう。


 第二の小林よしのり氏の論説も、徒事(ただごと)ではない。一国の首相で、しかも目下、参院選挙中で世論の支持好調の安倍晋三氏に対して、皇太子・雅子妃殿下に対するバッシングの「元凶」呼ばわりをするなど、日本国史上でも稀有の例に属する。それだけに、小林氏としては、非常の覚悟の寄稿と思われる。数日前、同氏は、自分のブログで、「皇太子殿下バッシングには、はらわたが煮えくり返る」と書いていた。その「煮えくり返る」“はらわた”を引き出して、首相の眼前にさらけ出して弾劾したのがこの一文であろう。4頁全面にみなぎる迫力は見事である。
 同氏は自らの肩書を「漫画家」と称するが、私は数年前に、むしろ「論画家」と改められてはどうか、と勧めたことがある。文章に日本人の戀闕の血が通っており、世の所謂「漫画家」とは比肩しがたいものがあるから、「俳画」の例に倣って、新造語として進呈したいと、考えた。「漫画家」には硬軟いろいろあろうが、同氏の場合は、「論」に特色があるからである。しかし同氏は固辞して、むしろ「漫画家」を誇りとした。流石である。
 但し、この4頁の短文だけで、安倍首相をバッシングの「元兇」と論定できるかどうか、読者の中には疑問を持たれる人もあろう。しかし、私見で助けて言えば、この題名の上に「春秋の筆法を以てすれば」と付加すればよい。筆者への誤解はとけるであろう。


 公明正大と共に、飛耳長目を史観の一とする私自身は、このバッシング問題の背後には、皇統の「男系男子」固執派の、根の深い陰湿な策謀があり、この連中の一部に、初めは安倍夫人を介して、後には直接に安倍首相に内通する論者がいて、歴史に精通することの乏しい安倍氏を担いで説得し、利用している疑いをもっている。しかし、何れ早晩、その真実も明らかになるであろうと考える。そしてその正統な歴史の筋道をつける意味で、小林氏のこの弾劾文は、偉大な役割を果たすであろうと信じている。私は、遙かに神都伊勢から、及ばすながら同氏に声援を送り、その健筆を祈りたい。
 今は参議院選の最中である。安倍首相は最も忙殺されている時期であることを百も承知するが、それ故にこそ、以上に指摘した二点、①昭恵夫人の中国スパイ養成機関出身者との「訪中」説の真偽 ②首相自身の皇太子・雅子妃殿下に対するバッシング“元凶”説の疑惑について、即答して貰いたい。時間をかけて改めて調査するような問題ではない。①はご自分の夫人に聞きただせばよいことだ。②も自らを反省せられれば済むことだ。選挙中だからこそ、即答して、国民に真相を告げる責任がある。与野党合わせて十二党もある 政党で、この重大事を争点とするものが、唯一つもないとは、情けないではないか。 (平成25年7月9日)

▲ページの先頭へ

二度吃驚の『週刊新潮』の超スクープ事件 (3)
                    青々企画代表 田中 卓 (第16回)

 “二度あることは三度ある”という。『週刊新潮』(7月4日号)は、次回の三度目(6月27日発売)に、「満身創痍で宮中祭祀『美智子皇后』ご心配を吐露した 陛下侍従」と題して、今度は、高橋美佐男侍従次長の実名と写真をのせて、「皇后さまの『ご心中』を代わって吐露した。そこからは、宮中祭祀についての切なるお悩みが伝わってくるのだ」(リード)という2頁組の記事を載せている。
 二回にわたる宮内庁(一回目は内閣官房も連名)の「事実無根」の抗議に対して、事実の検証についての是非には少しも言及せず、完全に黙殺の形で、今度は宮内庁の「侍従職のナンバー2にあたる」侍従次長を当て馬にして、6月20日の宮内庁「定例レク」で、皇太子妃の雅子殿下が宮中三殿での祭祀に、直近の10年間に2回しか出席されていないことになると、「侍従次長はこの日、そうした“時系列”にあらためて触れながらも、皇后さまのご心中をひとしきり披瀝していった。」という。そして「陛下の側近として、このような『所感』を口にしていたのだ。(中略)遠回しながら侍従職、ひいては宮内庁の意向が垣間見える言葉だ。」と指摘する。
 そのため、「現場では『これは形を変えた東宮批判では』といった声も記者から漏れていました」という「宮内庁担当記者」の発言を紹介している。そして皇室ジャ-ナリストの山下晋司・渡辺みどり・神田秀一氏等を動員して、侍従次官の発言を裏づける同調の所感を述べさせ、宮中祭祀の重要性を雅子妃殿下に「お言伝て」される意味の皇后陛下の御心中を、侍従次官が代弁したように、結論づけている。
 これが事実とすれば、『週刊新潮』が6月20日号(第1回)で載せた『「雅子妃に皇后は無理」の断を下した美智子さまの憂慮』を裏うちする有力な一証となる。同誌はこれを以て宮内庁当局への反論回答としたつもりであろう。正面からの堂々たる反論でなく、婉曲な回り道の弁解だ。問題は、皇后陛下の「ご心中」と「ご発言」の信憑性にあるが、それは間接話法で、他者に責任を転化して巧みに逃げている。論壇誌としては最も卑怯なやり方である。


 しかし、これに鉄槌を下されたのは他ならぬ、皇后陛下御自身である。それが昨日(6月30日)付の『産経新聞』(大阪本社の「皇室ウィークリー」13版)に載っているので、これを紹介して、この問題に一区切りをつけることとする。


「27日の風岡長官の定例会見では、週刊誌報道をめぐり、病気療養中の皇太子妃雅子さまへの皇后さまのお気持ちが明かされた。
週刊新潮6月20日号には、
「皇后さまが『皇太子妃には将来、皇后の仕事はつとまらないでしょう』と漏らされた」など掲載されたが、風岡長官は『皇后陛下は、皇太子妃殿下が記事で傷ついておられるのではないかと大変心配なさっている。記事にあるようなことはなかったことを、必要があればお伝えしたいというご意向はお持ちだとうかがっている』と述べた。」


 この皇后陛下の『週刊新潮』の「記事にあるようなことはなかったことを、必要があればお伝えしたい」という「ご意向」は、極めて重大である。しかもそれは、直接に風岡宮内庁長官が「うかがっている」と証言されているのだから、それが若し誤解であれば、職を賭けた長官の責任であるだけでなく、累は皇后陛下にも及ぶ重大な発言と申さねばならない。
 この事態に及んでも『週刊新潮』は、政府の抗議に対して黙殺し、記事の訂正を拒否するのであるか。また一方、政府も文書だけの抗議でお茶をにごすつもりなのか。是非を明確にするため、厳正な対処をとって貰いたい。事は日本国体の命脈にかかわる精神的危機である。安倍首相は経済中心のアベノミクスに有頂天になるだけでなく、皇統の護持のために、今こそ真剣な反省と思索に努めて貰いたい。諸般の情勢からみれば、事態は切迫している。時は待たないのである。安倍首相の岸信介元首相に劣らぬ見識と決断を切望してやまない。 (平成25年7月1日)

▲ページの先頭へ

二度吃驚の『週刊新潮』の超スクープ事件 (2)
                    青々企画代表 田中 卓 (第15回)

 次回の『週刊新潮』(6月27日号)は6月20日に発売された。ところが、問題の記事については「『雅子妃』不適格は暗黙の了解 『千代田』の迷宮」と題して、7頁に及ぶ「特集」で、

(1)「雅子さま」想定内のキャンセルに10秒絶句「陛下」の胸中

(2)体調不良を訴えた「美智子皇后」の送ったメッセージ

(3)侍従長に問題官僚で揉める官邸と宮内庁の軋轢の根本

(4)見えてきた「悠仁親王」即位で「紀子さま」国母への気負い

(5)国民が同情する寂しき皇太子の「雅子がきたら」

(6)「雅子さま」ご関心は臨海学校「愛子さま水着」を撮らせない!

以上の6項目の柱をたてて、徹頭徹尾「雅子妃殿下」を中心とする批難悪口である。


 そして、前述の宮内庁の抗議文については一言もふれることなく、完全に無視している。同日発売の『週刊文春』(6月7日号)は、「雅子さまもお見舞い 美智子様がお心を痛めた『中傷記事』」と題して1頁だけの報告記事をのせているが、その末尾部分に以下の文章を掲げているから、参考としよう。

「週刊新潮編集部は本件について、『記事は機密性の高い水面下の動きに言及したものです。内容には自信を持っております。』とコメント。訂正要求には応じない構えだ。」

 何という無礼不遜な態度であろうか。内閣官房・宮内庁連名の公式抗議文には、一言の釈明も回答もなく、他誌の質問にはコメントを発して、政府の訂正要求には応ぜずして徹底抗戦する姿勢である。
 一方、「宮内庁」は、この週刊新潮の特集記事に対して、6月20日付で、以下の「申し入れ」をしている。(ホームページによる。)


「この記事では、前号の記事を改めて引用しつつ、新たに『官邸と宮内庁の軋轢』と題し、安倍総理の宮内庁不信に繋がった過去の事情として2008年の麻生政権時代に、『麻生総理が陛下への内奏の際、旧宮家の復帰を提案したところ、陛下は良い返事をされなかった』という情報が、宮内庁から外部に流されたこと、また、当該情報は全て嘘であり、旧皇族の復帰を望まない宮内庁が虚偽の情報を発信したこと、などが記述されているが、このような事実は一切なく、全く事実無根である。


 貴編集部の事前の取材に対して、当該事実は一切ないことを文書にて明確に回答していたにもかかわらず、このような記事がそのまま公表されたことに強く抗議する。


 皇室制度や皇位継承のあり方という極めて重要な事柄について、このように憶測などに基づく、全く事実と異なる記事を掲載することには、国民に重大な誤解を与えかねないものであり、大変遺憾である。


 以上、厳重に抗議をするとともに速やかに訂正記事を掲載することにより、記載のような事実がなかったことを明らかにするよう求める。」


 この第2回目の内容は、第1回目の抗議文と同じく、週刊新潮の内容が「全くの事実無根」の記事であると言明し、「抗議するとともに、速やかに訂正記事を掲載すること」を要求しているが、文末の文章などは前回と全く同一の定形文の感があり、事実無根という虚偽に対する宮内庁側の怒りの気概が読者に感じられない。腰の弱い形だけの抗議という印象をもつのは私だけであろうか。
 宮内庁としては、なるべく事を荒だてないで解決しようとする慎重な気持ちがあるのであろうが、それも事によりけりである。皇室制度や皇位継承順の是非だけではなく、皇族の方々が名指しで辱められているのに対しての、宮内庁、内閣官房連名の抗議である。それも一度ならず二度までも抗議そのものを虚仮(こけ)にされて「大変遺憾」の「申し入れ」程度で済むであろうか。それを問い詰める怒りの気概が感じられないのは不可解である。更に不審に思うのは、二回目の抗議が「宮内庁」だけで「内閣官房」が削られているのは何故か。週刊新潮の再度の内容(6月20日号)には「官邸と宮内庁の軋轢」として、「安倍総理の宮内庁不信」の記事が明記されている。当事者とされる「安倍総理」が先頭に立って証言、いや抗議すべきであるのに、逆に抗議の主体から「内閣官房」が姿を消したのは、国民の大いなる疑惑を誘うであろう。
 私ならば、第一に、第1回の抗議文の場合でも「速やかに訂正」ではなく、“次号の誌上で”と、回答期日を指定するであろう。それがないために、未だにズルズルと回答せず、むしろ回答要求に応じない姿勢を示しているのだ。
 更に言えば、期限切れの場合は、宮内庁でも内閣官房でも、新潮社に対して出頭を求めて然るべく、それも断るなら、政府の責任者が出向いて対決の論争をするくらいの覚悟を示す必要がある。念のため申し添えると、その対決は特にマスコミの記者を第三者として立ち会う形をとるべきであろう。ことはそれ位の重大性をもっている。黒か白か決まれば、何れかの責任者は勿論、切腹(現在では辞職)は当然といえよう。それが国家公務員、或いは言論の自由を唱えるマスコミの責任者の出処進退というものだ。そうではあるまいか。 (次回へつづく) (平成25年6月28日)

▲ページの先頭へ

【緊急特報】 二度吃驚の『週刊新潮』の超スクープ事件 (1)
                    青々企画代表 田中 卓 (第14回)

 前回(第13回・5月29日)以降、二旬あまり小欄の執筆を休んだので申し訳なかったが、実は私事ながら、6月早々から帯状疱疹に罹り、安静を指示されていたのである。米寿記念の『続・田中卓著作集』全6巻(国書刊行会)が順調に完成し、肩の荷を降ろした安堵感と、過労が重なって発病したのであろう。しかし、手当が早かったので、今は快方に向かっており、出来ればもう一頑張りせねばならぬと考えていた矢先、『週刊新潮』(6月20日号、6月13日発売)に驚くべき記事が出た。「『雅子妃』不適格で『悠仁親王』即位への道」と題し、巻頭7頁の特報である。
 論旨の詳細は既に大方の読者、周知の通りと思われるので繰り返さないが、主旨は以下の通りである。

(1)宮内庁で皇室典範改正に向けた具体的な検討が進んでいる。

(2)その背景には雅子妃殿下の御病気によって、将来、皇太子殿下が御即位された場合、天皇・皇后としての公務を行われることが可能なのかという懸念がある。

(3)その場合に備えて、宮内庁では以下の改正案を考えている。
 (イ)天皇の退位、譲位を可能にする。
 (ロ)皇位継承者が、それを辞退することを可能にする。

(4)以上二点を骨子にして、宮内庁では、風間長官が密使として今年2月1日に首相官邸を訪れ、その旨を伝え、双方でそれぞれの事務方が研究・検討に入っている。


 かように国体・皇室の重大事が、秘かに宮内庁・内閣官房で研究・検討に入っているということ自体、重大問題であるが、更に同誌によれば、具体的に「今上陛下には最後まで天皇としての重責を全うしていただく。」後継の「皇太子さまには比較的早い段階で退位し、皇位を次の方に譲っていただく。」「譲位のお相手は(中略)秋篠宮さまではなく、そのご長男の悠仁親王だというのです。」と、「警察庁幹部」が声を潜めて明かしたと記す。そしてこの「シナリオは一見、余りに突飛だ。しかし、今上陛下、皇太子、秋篠宮両殿下の三者の間では、既にこの件は了承済みなのだという。」とまで明記している。


 このように見てくれば、前述の皇室典範の改正案(3)が、それを可能ならしめるための方策であることがよく分かる。要するに、妃殿下の御体調不良を理由として皇太子殿下を退け、早く男子の悠仁親王に皇統を移す手の込んだ継統策である。これが事実ならば週刊誌としては超スクープだ。先般の女性宮家創設案が不成立に終わった以上、政府として、それに代わる皇統継承の安定策を急務としていることは当然理解されるから、何らかの種々の試案が検討されていたとしても、そのこと自体を責めるつもりはない。


 しかし、現行の皇室典範は“皇室の家法”として枢密院で密かに審議された旧典範と異なり、いまは一法律とされているのであるから、(本稿第10回参照)改正に際してもその手続きを経るのが当然である。それ故、小泉内閣の際にも「有識者会議」を設けて、審議内容が公表され、野田内閣の場合でも、有識者12名の公開ヒアリングが行われたのであった。


 ところが今回の場合は、政府内部の試案検討中に、スクープの形で国民に公表され、しかもこの試案が今上陛下、皇太子・秋篠宮両殿下の三者の間では既に了解済みということまで報道されていることに、私共は先ず驚いたのである。


 それだけではない。この報道に対して、新聞記者からの質問をうけた政府は、即日(6月13日)、「内閣官房」と「宮内庁」でそれぞれ記者会見を行うと共に、連名で、抗議文を、「『週刊新潮』編集部編集長酒井逸史殿」宛に、既に申し入れているという事実を発表した。文面は以下の通りである。


 この記事では、「風岡宮内庁長官が安倍総理に対し、『天皇の生前退位及び譲位』並びに『皇位継承の辞退容認』を可能とするような皇室典範改正の要請を行い、それを受けて内閣官房で密かに検討が進められている」旨の記述が見られ、また、「そうした宮内庁の要請内容については、天皇・皇后両陛下と皇太子・秋篠宮両殿下の間では、既に納得されている」旨の記述が見られるが、このような事実は一切なく、この記事はまったくの事実無根である。


 貴編集部の事前の取材に対して、当該事実は一切ないことを文書にて明確に回答していたにもかかわらず、このような記事がそのまま公表されたことに強く抗議する。


 皇室制度や皇位継承のあり方という極めて重要な事柄について、このように憶測等に基づく、全く事実と異なる記事を掲載することは、国民に重大な誤解を与えかねないものであり、大変遺憾である。


 以上、厳重に抗議をするとともに、速やかに訂正記事を掲載することにより、記載のような事実がなかったことを明らかにするよう求める。


 そして宮内庁は「週刊新潮記事(平成25年6月27日号)への宮内庁の見解と対応」の一文までを同日付のホームページに掲載しているが、内容は上述の抗議文とほぼ同じである。つまり、『週刊新潮』のスクープの内容は「事実無根である」から「速やかに訂正記事を掲載」せよ、という抗議である。しかもこれを「内閣官房」と「宮内庁」が連名で公表したのであるから、前代未聞の珍事といわざるを得ない。これには二度吃驚である。
 「事実無根」となれば一部の記事の誤報ではすまない。全面的な虚偽ということになる。『週刊新潮』は、果たしてどのように答えるか。私共は固唾をのんで見守った。ところが結果は意外な展開となった。 (次回へつづく) (平成25年6月22日)

▲ページの先頭へ

憲法も典範も改正以前に常識に還ろう   青々企画代表 田中 卓 (第13回)

 前回の小欄(5月26日掲載)の結びで、“常識に還ろう”と記したのを承けて、先ず「養子」について言及しようと思っていた矢先、本日の産経新聞(5月27日朝刊)第1面に、佐伯啓思教授の「戦後憲法 正当性あるのか」と題する論文が掲載された。未だにこのような判りきった問題が、一流マスコミの話題になっているのかと驚いた。佐伯氏は小欄(第7回)でも少しく言及したように、現代論壇では注目される学者であるが、その佐伯氏でさえ、憲法問題では、この程度の「常識」なのかと残念に思うので、現行憲法についての私の「常識」論を簡単に繰り返しておくこととする。


 私が「日本国憲法の“違憲”を告発する」と題して雑誌『日本』に書いたのは、昭和46年(1971)8月号であるから、今から42年前。佐伯氏は1949年生まれだそうだから22歳前後に当たる。ご存知のないのは無理ないかも知れない。しかしこれは拙著『愛国心と戦後五十年』(青々企画、平成10年10月発行)にも要約してあり、小欄(第7回)でも言及しておいたので、少なくとも私にとっては、昔から公表してきたつもりの旧論である。そしてその当時は、飯守重任判事(田中耕太郎氏の弟)の賛同も得て、可成り論壇で注目されたものの、憲法を違憲として告発するのは前例がないために、受理を断わられた経緯がある。


 そこでいま改めて、「戦後憲法に正当性はあるか」と問われれば、私ならば「正当性」どころか「大日本帝国第75条の違反」と即答する。第75条には以下の如くあるからである。

「憲法及皇室典範ハ、摂政ヲ置クノ間、之ヲ変更スルコトヲ得ズ」


 摂政というのは、皇室典範に(1)「天皇未ダ成年ニ達セザルトキ」または「(2)天皇久シキニ亘ルノ故障ニ由リ大政ヲ親ラスルコト能ハザルトキ」に置かれるもので、その御方は、親王・王・皇后その他、天皇に最も近い関係の皇族に限られている。そしてそのような皇族でも、摂政に立たれる間は、憲法と皇室典範の変更はできない、というのが帝国憲法の規定である。ところが、昭和20年9月2日の「降伏文書」には、「天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ本降伏条項ヲ実施スル為適当ト認ムル措置ヲ執ル連合国最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトスル」とあり、天皇が「大政ヲ親ラスルコト能ハザル」状態にあられたことは、云うまでもない。そこで事態は明白となる。


  (1)天皇が「大政ヲ親ラスルコト能ハザル」ために、日本の皇族が代行として摂政にたたれている時でさえ、憲法の変更は出来ない。

  (2)まして敵国の軍司令官が乗りこんできて、天皇の統治大権が停止されている時に、どうして憲法の改正が出来ようか。

 この事実を「常識」として知るならば、戦後憲法に「正当性はあるか」という質問には、小学生でも「否」と答えるであろう。当然のことである。従って、一見愚問の如く思われるが、実は佐伯氏は、この常識を既に十分に承知しながら、わざとトボケて「正当性」に疑問符を付加しているだけなのかも知れないのである。
 何故なら、佐伯論文は以下の文章で結ばれているからである。

「いずれにせよ、まずは現憲法の正当性の基礎がきわめて脆弱であることを知っておく必要がある。今年4月28日に政府は政権回復の式典を執り行った。ということは実は、政府が現憲法の正当性について、暗黙のうちに大きな疑念を表明したこととなると了解すべきなのである。もし改正というならば、このような前提のもとでの改正でなければならない。」

 この結論に関しては全く同感である。但し、この論旨を一歩突っこんで、それでは「政府(が)……現憲法の正当性について……大きな疑念を表明」しているという「前提のもとでの改正」とは、一体、具体的に何を言わうとしているのか。愚直な私には意味不明である。はっきりと借問すると、一体、佐伯氏自身は、現憲法に「正当性」は“ない”ということを、認めているのか否か。認めているなら、先ずそのことを鮮明にすべきであろう。自らの立場を曖昧にしながら、疑問符つきの発想で読者に問いかけるのは、巧みな文章といえばその通りだが、学者というものは売文業の評論家ではないのだから、自らの立場を忌憚なく明確に示して、世論を指導して貰いたい。私は同氏に期待するところが大きいだけに、敢えて忠告させて貰うのである。


 尤も、戦後憲法の正当性にからんで、政府の主権の回復式典行事をとりあげて、政府自身の「大きな疑念」を証明しているのは秀逸である。しかしこの点は、私見でも早く指摘していることであって、私は「占領下に自由があるか」の一節で、下記のように述べてきた。(『愛国心と戦後五十年』P.344~46)

「多くの日本人の誤解をとかねばならない。それは大東亜戦争について、その期間を、昭和16年12月から20年8月までの3年8ヶ月と考へることの間違である。大東亜戦争は昭和20年8月に終つたのではない。たしかに、この時、日本はポツダム宣言を受理し、武器は捨てた。9月には降伏文書の調印もした。しかし、日本と連合国との間の“戦争状態”は、なお“終了”してゐないのである。この“戦争状態”が“終了”するのはサンフランシスコ平和条約の発効した時、すなはち昭和27年4月28日を待たねばならない。そのことは、この平和条約の冒頭、第一章の『平和』の条に明記されてゐる。(中略)
 日本と連合国との“戦争状態”は、昭和16年12月から27年4月まで、満10年4ヶ月に及ぶのである。この10年以上の“戦争状態”の中で、前半の3年8ヶ月が“戦鬪期間”、後半の6年8ヶ月が“被占領期間”あつたといふことを、先づ理解しなければならない。(中略)
そこで、問題の日本国憲法であるが、この憲法は、いふまでもなく、昭和20年から21年、連合国軍の占領下でつくられた。占領下でも、敗戦国民に自由があるといふならば、日本国憲法は、日本国民にとつての自主憲法である。だが、もし占領下には自由がないといふことであれば、日本国憲法は自主性を欠いた、国民不在の憲法の名に値しないニセ憲法となる。これは、誰にでもわかる当然の理だ。日本国憲法の正否や改正の是非を論ずる場合、この判りきつた問題を、まづ最初に吟味してかかることが賢明であらう。」


 長い引用となったが、この最後の数行は、先に紹介した佐伯論文の末尾の言葉、「いずれにせよ、まずは現憲法の正当性の基礎がきわめて脆弱であることを知っておく必要がある。云々」と、内容が殆ど同一といってよい位に類似してゐることに注意されたい。異なるのは、私の論文が「昭和46年8月」であるのに対し、佐伯論文が今年の5月27日付であることだ。私が「常識に還ろう」というのは、私見が42年前に既に発表されているからである。


 ことの序でに、私の論文では外国の憲法、フランスとドイツの実例を挙げているので、それも改めて紹介しておこう。
 当時のフランス憲法(第89条)には、以下の如く書かれていた。

「いかなる改正手段も、領域の保全に侵害が加えられている時には、開始あるいは遂行されることが出来ない。」

 見事な宣言だ。「領域の保全に侵害が加えられている時」というのは、要するに敵国の“占領下”ということだが、その時には、憲法改正は出来ないという禁止条項である。今から思えば、日本でもこの当然の禁止条項を明治憲法に入れておけばよかったのだが、まさか日本が敵に占領されるような悲劇は、当時の日本人の“想定外”であったから、書き入れなかっただけである。そして“摂政治世下でも改正は出来ない”という前述の条項で、“占領下では勿論”という意味を含ませていたのであろう。


 日本とよく似た敗戦国のドイツの場合はどうか。
 少なくとも当時の西ドイツ国民は、敵国の占領下には、自分たちの自由はないと判断し、連合国の強制する憲法改正には強く反対し、どうしても改正せよというならばやむを得ないから、暫定的な「基本法」(Grundgesetz)をつくることにした。これは正式の「憲法」(Verfassung)ではないことに注目されたい。そしてその基本法の最後の条文(第146条)には「基本法の失効」と題して、

「この基本法は、ドイツの国民が、自由な決定によって議決した憲法が効力を生ずる日において、その効力を失う。」

と規定した。流石にドイツ人だ。勇気と決意の見事な表明ではないか。その後、1990年(平成2年)8月にドイツ統一条約を締結、10月にドイツは再統一するが、それでも「基本法」を墨守して、該当条文も若干修正しているが、以下の通りである。(第146条「基本法の有効期限」)

「ドイツの統一と自由の達成によって、全ドイツ国民に適用されるこの基本法(Grundgesetz)は、ドイツ国民が自由な決定によって決議する憲法(Verfassung)が施行される日に、その効力を失う。」

 自存自立、自主独立を叫ぶ日本の憲法改正論者も、このドイツの実例を参考に、同様な意味の条文を工夫して書き加えてはどうか。これを検討するのが、憲法問題の「常識」というものだ。 (平成25年5月29日)

▲ページの先頭へ

今夏の参議院選挙に「天皇」「皇室」問題を争点とするのは国論の分裂を招く
                    青々企画代表 田中 卓 (第12回)

 この「戀闕の友へ」ウェブページを開始したのは今年3月号の『新潮45』(2月18日発売)に掲載の山折哲雄氏の「皇太子殿下、ご退位なさいませ」と題する論文の出現が発端である。これに関連して小欄では11回を重ねてきたが、同じ『新潮45』の6月号(5月19日発売)に鳴門真彦(なるとまさひこ)氏の「雅子妃『適応障害』の核心」という刺激的な題名の論文が出た。雅子妃殿下の御体調不良の根源が、皇統の継承に規定された男子の御生誕がないという精神的御負担にあることは、これまで私は繰り返し発言してきたし、前回の小欄でも(5月13日掲載)そのことは「万人の拝察するところ」でもあるので、皇室典範第1条の「男系男子」の五字を「皇族」の二文字に改めることが急務と述べた次第であるから、何を今更と思ったが、複数の学友から「筆者は知らないが、優れた内容です」と勧誘されたので一読した。やはり「核心」として強調されているのは、妃殿下に“男子”御生誕がなく、皇太子殿下の後継皇統が絶えることへの憂慮の指摘であり、趣旨は予想通りで目新しくなかったが、資料がよく整理されていて、文章も円熟し、一般読者には頗る説得力のある達意の文章である。その点は感心した。


 それにしては、皇室担当の筆者で「鳴門真彦」という人物はこれまで知られていないし、『新潮45』にも筆者紹介を欠いている。つまり匿名ということであろう。しかし察するところ、鳴門は「なると」で「なるひと」皇太子殿下の「ひ」を省き、真彦(まさひこ)は「まさこ妃殿下の「こ」を「彦」に改めたものと思われる。とすれば東宮家関係に親しい人で、更に記事内容が、皇后陛下の繊細な御心境にまで及んでいるので、筆者は女性である可能性が強い。推測すれば実名もほぼ判明するが、私は、皇室関係の記事を公表する評論家は、責任を明らかにする意味で、必ず自らの氏名を記し、掲載誌側も実名とまぎらわしい匿名は謝絶すべきであろうと思う。


 尤も雑誌では「記者匿名座談会」などは有効な企画で、記者の本音が知られて面白い場合がある。現にこの『新潮45』でも、同月号に以下のような「匿名座談会」の一節が見られる。(P.306)

<新聞>安倍が改憲を言うときに頭にあるのは日本の再軍備。天皇の元首化とか家族制度の復権とかの優先度は低い。
<テレビ>皇室をどうするかの議論こそ、先送りできないだろう。改正するなら憲法より先に皇室典範。天皇の体調もよくないと聞くことが増えている。
<雑誌>政権再交代で女系天皇容認の目は消えた。男児に恵まれた秋篠宮でさえ、“その後”を懸念して女系天皇や女性宮家を認めることを望んでいるフシがある。去年、野田(佳彦前首相)夫妻が天皇・皇后と会った際、野田は前向きに検討すると耳打ちしたという説があったけれど、安倍の復活でこの約束が雲散霧消だ。」


 ここに発言の見える「安倍の復活で」「女系天皇容認の目は消えた」というのは、まだ断定に過ぎると思うが、「改正するなら憲法より先に皇室典範。」とは、私見と同一であって頼もしい。(小欄第10回を参照。)また「秋篠宮でさえ」云々というのは、小欄前回(第11回)で紹介した『文藝春秋』5月号の江森敬治氏(毎日新聞編集委員)の取材記事と吻合している。これは、男系・女系を問わない<夫婦(めおと)系=父母系>を公認すべしという私見にとって、百万の味方である。
 更に注目すべき最近の論説は、産経新聞(5月19日付、名古屋版)に掲載された「新聞に喝!」のコメント(連載)である。筆者は日本文化大学学長の大森義夫氏(元内閣情報調査室長)で、今回の主題は、「産経の『国民の憲法』要綱に提言」という。短文だが、産経の憲法改正試案に対する提案として、数カ条が明示されている。何れも貴重な意見だが、中でも注目されるのは、以下の結びの文章である。

「天皇を元首と定めることに賛同する。ただし、『男系の子孫が継承する』ことまで憲法に書き込む必要があるだろうか?憲法上の論争をすべて決着させたいとの意欲は分かるが、憲法は時代時代の要請に応じて改正してゆくのが正しい。今回の改正案はその先鞭をつけるものと致したい。」

 これは、まさに「正論」である。冒頭の「元首と定めることに賛同する。」という点だけは、前述(第10回小欄)の理由によって、私は現状においては時期尚早とみて必ずしも賛成しかねる立場であるため、この機会に一言付け加えておくと、現状では、現行のままの「象徴天皇制」派と、改正案の「元首明示」派が互いに激しく対立して、国会が紛糾する恐れがある。「天皇」の身位についての国論の対立は、好ましくないだけでなく、どちらに決まっても不満が残る。日本は本來の国体回復の秋まで、憲法の文面は現状を生かし、実情は外国人の理解する通り、元首としておけばよい。(外国では、日本天皇を奉迎する礼砲は21発で、元首の待遇であり、首相の場合は19発である。)
 尤も、それだけでは私見を、傍観的無責任の如く思われようから、誤解を恐れず、歴史研究の日本人の真情を率直に披瀝すれば、明治憲法の第四条の一部分の漢語を国語に改めて、「天皇は日本国の元首にして、祭政(まつりごと)を総攬(みそなわ)し、この憲法の条規により行う」を第一条に掲げるだけでよく、「象徴」や「主権」の用語は日本国体になじまない、というのが私の考えである。
 それよりも、目下は “皇統の永続”を急務とすべきであろう。そのためには、大森氏の説かれる如く、「男系子孫が継承する」ことまで憲法に書き込む必要はないし、皇室典範も時代時代の要請に応じて改正してゆくのが正しい、のである。現に明治の皇室典範は、「増補」や「準則」の形で改正されている。いや、それどころか、「皇庶子」、従って側室の存在を明白に認めていた明治の典範は、何の改正もなされず、昭和天皇の御英断によって、昭和の初期より消滅してしまっているではないか。このような時代の要請に応じた改正が、日本の天皇政治が永続してきた真の改革の筋道なのである。
 「男系男子」の永続は「側室」と「養子」の制度なくして絶対に考えられない。「養子」については、これまで特に言及することが乏しかったが、これは国民の常識であったからである。それ故、現行典範の第9条「天皇及び皇族は、養子をすることができない。」(明治典範の第42条には「皇族ハ養子ヲ為スコトヲ得ズ」とあり。)を削除すればよい。つまり常識に還ればよいのである。 (平成25年5月25日)

▲ページの先頭へ

皇室典範第1条の改正について       青々企画代表 田中 卓 (第11回)

 前回の内容は複雑であるが、整理してまとめると、以下のような趣旨である。


(1)現在、既に讀賣新聞、自由民主党」、更に産経新聞の三者が憲法改正の試案を公表し、近づく参議院選では目下のところ各政党の争点の1つとされている。

(2)時代の変化と要請もあり、確かに現行の憲法条文の中には改正を必要とする項目がある。

(3)しかし明治憲法と現行憲法との間には基本的に正閏の大問題があり、さらに個別の改正と全面改正との整理も未だ不十分であり、選挙の争点とするのは時期尚早であろう。

(4)むしろ現状では国民精神を安定し、国体を明確にするために、皇位継承に関する皇室典範(法律)の改正を急務とする。


 以上のような事項を、最近の産経新聞の憲法改正草案の問題点(現在の皇太子殿下の次の皇太子はどなたになるのか。)を手がかりとして検討してきたのであった。
 そして今回、その続稿を述べようとしていると、丁度、雑誌『SAPIO』6月号(5月9日発売)と『文藝春秋』6月号(5月10日発売)が、続いて皇統問題を取りあげたので、その中の2篇を発題の枕として寸評させていただこう。


 『SAPIO』は、「皇太子と秋篠宮『天皇家兄弟の宿命』」と題して、小田部雄次・大原康男・山下晋司・久能靖・大島真生氏の5篇を特集しているが、何れも労作である。中でも、大原康男氏の「兄弟の『役割分担の逆転』はメディアと宮内庁が作り出した/皇太子殿下には『継承者』の自覚と資質が備わっている」は一段と優れている。私はこの人の青年時代から懇意であり、志操も人柄も熟知しているが、この論文は情理を兼ねた秀作で、再読して思わず涙ぐむ箇所もあった。


 『文藝春秋』は鎌田勇氏の「皇太子と雅子妃ご成婚20年/私だけが知る悲劇の真相」と、山折哲雄・保阪正雄両氏の対談を掲載する。後者は従来の自説の繰り返しの凡作で何の新味もない。それどころか、山折論は「二度あった」という日本の「平和な時代」が、朝日新聞のスクープ(小欄第6回)で新たに登場した「戦後の68年間」が今回は消えて、「平安時代」が復活している。活殺自在の俗説である。「平和」の概念が一定していないのであろう。
 前者の鎌田氏は、元学習院大学OBでオーケストラ副団長で、35年間も皇太子殿下の相談役を務められたというだけに、流石に皇太子殿下の御心情が生々しく活写され、雅子妃殿下の悲劇の真相もよく伝えられている。国民必読の文章である。


 但し、私の不思議に思うのは、大原氏の場合、「兄弟の『役割分担の逆転』」の表面的な原因については、メディアと宮内庁が作り出したということはその通りと同感するが、(尤も、言うまでもないが、メディアも宮内庁も全体ではなく、その一部に過ぎない。)雅子妃殿下の場合に、男児の御生誕がないため、典範によって皇家(只今の天皇家)は、皇太子殿下までは皇位を継がれるものの、その後の愛子内親王の場合には、「皇統」「はもとより、「宮家」さえも場合によっては消滅することになるかも知れないという悲劇と責任が、重大な精神的御負担になっていることに、同氏が一語も言及されていない点である。秋篠宮家の場合は悠仁親王殿下がお生まれで、その反対のお立場であるから、「役割分担の逆転」の最大原因が、男系男子の継承問題にあることは明らかである。ところが、大原氏が、このような皇室典範の法規の不自然さを全く問題とされないのは、何故か。私の甚だ遺憾とするところである。
 鎌田氏の場合は、雅子妃殿下に男児のお生まれになっていないことの悲劇については、流石に率直に詳しく記されているものの、同氏の立場上、皇室典範の男系男子の不自然さそのものについての批判を、慎まれているのはやむを得ない。
 しかし、この典範の不自然さこそが、皇太子殿下と同妃殿下の精神的御負担となっていることは、万人の拝察するところであるから、『SAPIO』も、『雅子妃殿下バッシングと「御退位論」の矛盾と危険』を特集の見出しとする以上は、正面から、この典範問題をこそ評論すべきではあるまいか。


 ここで注目すべき記事を今一つ紹介しておこう。それは男女の差異についての、秋篠宮文仁親王殿下御自身のお考えである。勿論、秋篠宮親王殿下がこの問題について特別に御発言になったというのではない。丁度今年の4月に、悠仁親王殿下がお茶の水女子大学附属小学校に、次女の佳子内親王殿下が学習院女子高等学校から、学習院大学文学部にそれぞれ御入学になった機会に、『文藝春秋』の5月号に掲載された江森敬治氏(毎日新聞編集委員)の、「秋篠宮さま、紀子さまの『教育方針』」と題する論文中の引用である。
 江森氏が秋篠宮家の方々とどういう御関係であるのか、私は全く承知しないが、仄聞するところでは、同氏は昭和31年生まれ、早稲田大学の出身で、平成3年から約3年間、毎日新聞東京本社社会部で宮内庁取材を担当し、『秋篠宮さま』の単著(毎日新聞)もある由で、『文藝春秋』の記事の内容によると、秋篠宮家と年賀状の交換もあるというから、頗る昵懇の間柄と思われる。
 その江森氏の伝えるところでは、以下の通りである。

「宮さまは生物学的な違い以外は、基本的に男女は平等であるという考え方を貫いている。悠仁さまが生まれ、成長しても『三人(卓注・長女の眞子内親王殿下を含めて。)の教育方針は変わらない』と会見で発言し、この考え方はいまでも変わらない。」(149頁の上段)
「また、女性皇族の役割については、『社会の要請を受けてそれが良いものであればその務めを果たしていく。そういうことだと思うんですね。(略)私は女性皇族、男性皇族という違いは全くないと思っております。ですから、女性皇族だから何かという役割というのは、私は少なくとも公的な活動においては思い当たりません』と、会見で話している。」(同上頁の中段)

 これは、秋篠宮殿下の御自身の御子様についての男女観であるが、このお考えを愛子内親王と悠仁親王の両殿下に当て嵌めると、どういうことになるか、事は極めて重大である。


 私自身のこれまでに公表してきた諸論文を基本にし、上述の諸雑誌の論旨を参考にして、現行の皇室典範を改めて見直すと、詳しく論ずれば問題は種々あろうが、最も重要な改正点は第1条である。現典範には、
 「第1条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」
とあるが、この「男系男子」の五字を「皇族」の2字に改めればよい。継承の受け皿を拡げるわけである。それだけで緊急の難関は解決する。
 「第1条 皇位は、皇統に属する皇族が、これを継承する。」具体的には、将来、皇太子殿下が即位せられる時、現行典範第8条に「皇嗣たる皇子を皇太子という。皇太子のないときは、皇嗣たる皇孫を皇太孫という。」とある規則のままに、「皇嗣たる」愛子内親王が「皇太子」となられればよいのである。


 「皇統に属する皇族」に、男女の別のないことは秋篠宮殿下のお言葉を俟つまでもなく、これは国民の常識であろう。そしてこのように典範を改めれば、産経新聞の憲法改正案の「第1章天皇」の「第3条」に提案する「男系の子孫」という言葉は、少なくとも、愛子内親王の場合までは生かされることとなる。私が産経案を「次善」と評したのはそのためである。(しかし、現状の讀賣新聞・自由民主党を含めた三試案の中でも突出している産経案は、恐らく国会で可決されるのは困難と思われる。)従って、憲法は現行(第2条)のままで、典範だけを私案の如く改正されるのが、「最善」の提案である。そしてこの場合は、一法律の改正であるから、現行憲法第96条の改正問題とは関係なく、実現は過半数でよい。 (平成25年5月13日)

▲ページの先頭へ

憲法改正よりも皇室典範改正に注目せよ     青々企画代表 田中 卓 (第10回)

 現在の日本国憲法の改正をめぐって賛否両論が盛り上がってきた。既に読売新聞(平成16年5月)や自由民主党(平成24年4月)が改正試案を発表しているが、さらに先日(4月28日)は産経新聞も改正案を公表し、今や参議院選挙を眼前にして論争の的となっている。
 憲法は、国家存立の基本的条件を定めた最高の根本法であるから、問題があれば、各政党やマスコミをはじめ国民各層で議論を尽くすのは望ましいことである。
 しかし、それだけ国家の重大事であるから、一挙に全般を改正の対象とするよりも、個別に問題の緩急を考え、その道の専門家の叡智を結集して慎重にまとめて貰いたい。でないと、下手をすると新・旧両憲法の対立から、国論は二分どころか四分五裂して、収拾がつかなくなるかも知れない。憲法そのものの正閏が論争で混迷すると国家秩序が乱れ、国威も衰微する。それにつけこむ外患も無しとしないであろう。私はそれを憂慮するのである。


 もともとわが国の憲法は、イギリスのマグナカルタに起源をもつような、王権に制限を加えたり、国家権力から人民の自由や議会の権利を擁護するという欧米先進国のそれとは異なり、明治天皇が明治9年(1876)9月6日、元老院議長熾仁(たるひと)親王に賜わった勅語において明示された精神に基づいて、天皇親臨のもと新しく設けられた枢密院において厳秘のうちに慎重に審議され、明治22年(1889)2月11日の紀元節を期して公布された。しかも天皇は、憲法発布の式に臨まれる前に賢所において皇祖皇宗の神霊に対し「朕が現在および将来に、臣民に率先し、此の憲章を履行して愆(あやま)らざることを誓ふ。」と告文(こうもん)を奏上された。ここに他に類をみない欽定憲法の特色があるのである。
 それが、昭和20年(1945)8月の敗戦で、アメリカの占領下に置かれて廃棄され、昭和21年(1946)11月3日に公布されたのが現在の日本国憲法であるから、帝国憲法の運命は56年余りであった。これに対して現憲法は今年で67年であるから、明治憲法より10年ほども長い。つまり、世界に誇る比類なき欽定憲法が、転落して悲惨な占領統治下憲法に一変したのである。この歴史を顧みると、現憲法を正統な形に回復しようとするのは当然のことであるが、それだけに困難の伴うのもまた必須である。


 総体的な憲法改正問題などは、国民の国体観がほぼ一致して、天皇を中心に仰ぐ一君万民、君民一体という古来二千年の伝統がよみがえり、国民精神が安定した段階でないと、却って危険な政争を深刻にすることを、為政者は十分に心がけて貰いたい。


 その意味で、現在は、国家の中核を固める意味で、むしろ憲法改正よりも、皇室典範の改正を先決とする。
 皇室典範は、本来は「皇室の家法」とされたが、明治40年2月11日の皇室典範「増補」は、国民に官報によって公布され、「国法」という性格になった。加えて敗戦後の昭和22年1月16日に新たに公布された皇室典範(以下「典範」と略称する。)は、憲法の下位に立つ一「法律」に変化して、国会の過半数の賛成で変更され得る現状にある。


 ところで「典範」の中でも最も重要な問題は、第1条の”皇位の継承”である。
 そしてここには「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」とある。この内容は明治の旧典範(第1条)と同趣旨で、重要な意味をもつ。もともと前回(第9回)で問題としてきたように、現憲法では「第2条」に「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。」とあり、その「定めるところ」に当たるのが「典範」の第1条であるからである。明治憲法でも「第2条」に「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ、皇男子孫之ヲ継承ス」とあって、「皇男子孫」の文言が明記され、しかも明治の典範には「第1条」に「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之を継承ス」、「第2条」には「皇位ハ皇長子ニ伝フ」とあるから、旧憲法・典範では、皇位の継承者は、「皇男子孫」「男系ノ男子」「皇長子」と限定されていたのが、現憲法では意図的に之を除き、「男系男子」という資格条件は「典範」の中に組み入れることにしたのである。これは、憲法という国家の基本法と、典範という一法律との関係から見て重要な変化といわねばならないが、「憲法」に「皇位は世襲のもの」と決められておれば、大原則が確定しているのであるから、”世襲のあり方”は時代の変化にともない時宜に適した「典範」(法律)で定めるというのは、至極当然のことである。それ故、この点、讀賣新聞は第2章天皇の第5条で、「皇位は世襲のものであって、法律の定めるところにより、これを継承する。」として「皇室典範」を「法律」と改めているが、内容は同じであり、また自民党も、その試案において現行憲法(第2条)に全く手を加えていない。この両試案の”無修正”の事実は注目に値する。


 ところが前回既述のように、産経新聞だけが、「典範」には何ら言及せずして「憲法」だけを採り上げて、改正案の第3条にわざわざ「男系の子孫」を加えているのである。これは一見、明治憲法にかえる形をとって、正統性を主張しているかの如くであるが、実は近年問題となっている男系男子固執派の見解を取り入れて、憲法で確認しておくための意図である。


 しかし、このような「典範」と重複する文言をわざわざ改正試案の「憲法」に加えることにしたために、産経新聞案の第3条は、「皇統に属する男系の子孫」と記して、現行「典範」の「皇統に属する男系の男子」と類似の文章となってしまったのみならず、「男子」を「子孫」と書くことを余儀なくされた。それは歴史上の8人の「女帝」の存在を認めざるを得ないからである。そのため、愛子内親王は皇位継承者として俄に浮上されてきた。”上手の手から水が漏れる”とはこのことであろう。その事情を今少し詳しく説明すると、以下の通りである。
 明治典範(第1条)の際の「男系ノ男子」については、伊藤博文の『憲法義解』に、

「推古天皇以来皇后皇女即位の例なきに非ざるも、当時の事情を推原するに、一時国に当り幼帝の歳長ずるを待ちて位を伝へたはまむとするの権宜に外ならず。之を要するに、祖宗の常憲に非ず。而して終に後世の模範と為すべからざるなり。」(岩波文庫本129頁)

とある通りであり、この当時は最初の制定であるから、過去の歴史に女帝の例があっても、それは「当時の事情」にもとずく「権宜にほかならず。」「祖宗の常憲に非ず。」「終に後世の模範と為すべからざるなり。」ということで、弁解することが出来たのであらう。


 しかし近年、あれ程問題となった歴史上の8人10代の女性天皇の実在について、「権宜」の特例として沈黙することは、到底不可能であろうから、男系男子固執派の産経新聞は、率直に改正憲法案の中で「男系の子孫」と改めたのである。ここまでは一応、男系派の意図は達成された感がある。(産経案は、独立国家に関する条文と、その国防に関する第九条の改正を主として強調しているように思えるが、その中の男系派は、「男系」の一語を何とか憲法に復活したいというのが真意であることほぼ疑いない。)しかし、男系の「男子」を「子孫」と改めたために、現在の皇太子殿下(男系男子)の直系の「子」に当たる愛子内親王は、これまで皇位継承者としては殆ど誰も考えて来なかったが、「男系の子」として、しかも「直系」の長子であるから、天皇陛下の御次男の秋篠宮文仁親王殿下よりも上位の皇位継承者となられることになるわけである。従って浩宮徳仁親王殿下の次の皇太子は敬宮愛子内親王ということになろう。
 これが産経新聞案であるから、私はこれを次善の案として肯定する旨を、前回(第9回)の結びとしたのである。議論が複雑でくどくなったが、ここまで説明しないと、一般の人々には判りにくいかと思い、敢えて産経新聞案を次善の案として先に述べた。もとより私は次善よりも最善を理想とするので、次回に私の理想案を述べることにしよう。 (平成25年5月8日)

▲ページの先頭へ

【緊急特報】 産経新聞提唱案の『国民の憲法』の「第1章天皇」の第3条について
                    青々企画代表 田中 卓 (第9回)

 今回(拙論第9回)は、皇位継承に関して『皇室典範』の核心と矛盾について私見を述べる予定であったが、今朝(4月26日)の産経新聞の第1面から数ページにわたって、同新聞の創立80周年と「正論」40周年の記念事業として企画してきた『国民の憲法』要綱が発表されたので、その中の第1章天皇の第3条(皇位の継承)を対象として、緊急私見をウェブページに開陳することとする。(その他の条文についても意見はあるが、今は最大の必須問題に絞って批判する。)


 尚、同新聞には、「ご意見・ご感想をお寄せ下さい」とも注記されているので、ウェブに記す内容と同趣旨を、同新聞にも投稿したことを付記しておく。


 産経『国民の憲法』の第1章第3条は、以下の通りである。

「皇位は、皇室典範の定めるところにより、皇統に属する男系の子孫がこれを継承する。」


 尚、現行の『日本国憲法』によると、「皇位」は第2条に以下の如く定められている。

「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。」(男系・男子の用語は含まない。)

 そして現行の『皇室典範』によると、第1条に「皇位は、皇統に属する男系の男子がこれを継承する。」と定められており、産経憲法案は、この『典範』を踏まえての提唱であること云うまでもない。


 以上の点を産経新聞の「解説」記事(名古屋版では13頁掲載)によって確認しておくと、以下の通りである。

「産経新聞は、皇位継承をめぐって安易な女系容認に強く反対し、まず皇統の原則である男系維持に知恵を絞るべきだと主張してきた。こうした産経の主張を踏まえ、憲法に『男系』を書き込むことにした。歴史上、8人10代の男系の女性天皇が皇位についた事実も鑑(かんが)み、『男系の子孫』とした。」

 以上の「解説」は、極めて重大な意味を持っているので、読者各位は是非とも銘記しておいていただきたい。


 何故なら、この「解説」(以下(A)と仮称。)を下敷にして、第3条(以下(B)と仮称。)案を見ると、文脈に著しい矛盾があるからである。
 (A)によると、産経新聞は「女系容認」案を「安易な」発想と軽侮し、「男系維持」に「知恵を絞る」べきと主張するが、若し(B)の如くであれば、「皇統に属する男系の子孫」の第一候補は、現在の皇太子殿下(皇統に属する男系)の直系の「子」に当る「愛子内親王」であることが明白である。「歴史上、8人10代の男系の女性天皇が皇位についた事実」と全く同然ではないか。
 それにも拘わらず、(B)の条文を入れたことで、「皇位の継承『男系子孫』の維持」と得々と大字のタテ見出しで特筆しているのは、どういう意味なのか、訳が判らない。
 恐らく前述の如く、現行の『皇室典範』第1条を念頭においてのことであろうが、言う迄もなく、現行の『皇室典範』は、現行の『日本国憲法』の下位法であり、両者に対立・扞格があれば、上位法『憲法』に照して『典範』を改訂すべきであろう。
 この位の知識は、文学部出身の私共でも承知しているのに、憲法学者を交えて起案された産経案で、『憲法』に「子孫」と書くだけで「男子」を意味するかのような『解説』を書くとは、何事か。拙速にも程があろう。
 さらばといって現行『典範』に倣って(B)を「男子」に改めると、歴史上に実在した「8人10代」の女性天皇の存在そのものを否定することになって、不都合である。
 明らかに(B)案に関する限り、論ずるにも足りない拙速の愚案である。しかし、私自身は、この(B)案の「男系」を「皇族」と改める立場が本意であるから、次善の提案としては当面、(B)案でも差し支えないと考えている。その場合は、現在の皇太子殿下の次の皇太子は、愛子内親王であることを、”男系男子固執”の諸君は覚悟して貰いたい。それ以上の議論は次回に譲る。 (平成25年4月26日)

▲ページの先頭へ

山折哲雄氏の暴言に沈黙する神社界    荒井神社・宮司 廣瀬 明正 氏

 本年2月に発売された『新潮45』掲載の山折氏の論文「皇太子殿下、ご退位なさいませ」について、3月14日に神社界の機関紙『神社新報』に拙文を投稿した。3月19日付けで原稿受領のはがきを受け取ったが、それから約1ヶ月経った今日、未だに拙文は掲載されていない。もとより、投稿原稿が必ず掲載されるという保証はなく、受領はがきにも「編輯の都合上、記事が掲載されない場合もございますので御了解願ひます。」と断りが記されている。
 しかし、このような皇太子殿下への非礼発言には迅速に対応すべきであり、暢気に構えているのかこれまで神社界から山折氏を批判する意見が出てこないのも不思議である。本当に神社界は「皇室の尊厳を護持する」つもりなのか、スローガンだけではないのかなどと不審をいだくと同時に、先行きを心配するのである。
 そこで、つぎに『神社新報』に投稿した拙文を披露して、同憂の士と共に皇室問題を考える機会としたい。


   山折哲雄氏の暴言「皇太子殿下、ご退位なさいませ」
 著名な宗教学者である山折哲雄氏が、『新潮45』3月号(平成25年2月18日発売)で、「皇室の未来のために敢えて申し上げる。『皇太子さまは、第二の人生を選ばれてもいい時期ではないだろうか』。」として、妃殿下のご病気を理由に、皇太子殿下に退位をせまる論文を発表してゐる。いかに主権在民の世とはいへ、山折氏が臣下の身であることを忘れ、「日ごろ考えていたことがいつのまにか煮つまっていて、ごく自然に口をついて出てしまった」ではすまされない暴論ではないか。
 山折氏は皇太子殿下に「退位宣言」されるやう勧告するが、それは具体的には秋篠宮殿下への「譲位宣言」を意味するといふ。かつて八木秀次氏が雅子妃問題にふれて、「皇位継承権第一位の座を皇太子殿下から秋篠宮殿下に移そうとの議論が生じてもおかしくない。」(『サピオ』平成19年5月9日発行)と力説したが、まさに同じ論法である。じつに不敬極まりない発言といはざるをえない。
 山折氏は神社界とも関係が深く、各種の大会、研修会などに講師としてしばしば登壇してゐる。したがって、氏と交流・面識のある神職も少なくないと思ふし、私もある会で氏の講演を聴講したことがある。そんな山折氏に対して、神社界、神職はいかに対応すべきか。今のところ、神社本庁、神道政治連盟から山折氏を非難する声は出てゐないやうだし、『神社新報』の論説欄もこの問題の理非にはふれてゐない。それゆゑ、皇室に対して”ああせよ””かうせよ”的な発想が次第に神社界に浸透し、それに神職が違和感すら覚えなくなることをもっとも恐れるのである。
 私はこれまで、『日本』第58巻8月号・10月号(平成20年)や『神社新報』第2968号(平成21年)などで、皇室問題とくに皇太子殿下、妃殿下に対する誹謗・中傷について、「皇室の尊厳を護持する」はずの神社界がなぜ沈黙をつづけるのか、藩屏たらねばならぬ神職がなぜ傍観者的態度をとるのか疑問に思ふことを述べてきた。なぜなら、『神社新報』でもほとんど皇室問題についての神職の意見をみたことがないからである。
 現憲法下のわが国は”君臣の義講ぜざること六十余年”であるが、皇室の祖先神「天照大御神」をお祭りする伊勢の神宮を本宗と仰ぎ、日々皇室のご安泰と国家の繁栄を祈ることを使命とするわれわれ神職は、君臣の大義を忘れてはならない。


  君臣 品さだまりて 動かざる 神国といふ ことをまづ知れ


 これは幕末の尊王歌人橘曙覧先生の歌だが、これからも続くであらう皇室をめぐるさまざまな論争に対して、神職は臣下としての心構へを忘れず、対処してゆかねばなるまい。 (平成25年4月15日記)

▲ページの先頭へ

反論できぬ立場のお方に注文をつけ批判を公開するのは非礼・卑怯の極み
                    青々企画代表 田中 卓 (第8回)

 最近の世相には不愉快な事柄が多いが、特に言論界で、反論の許されない身分のお方に、お為ごかしの態度で、公然と”皇太子殿下にご退位”を勧めたり、反対に、その勧告をした評者を論駁する恰好で「皇太子殿下の無垢なる魂」と絶賛する表題を掲げながら、内容は論文名とは直接の関係なく、皇太子殿下については、「温和で幼少の頃からご両親にも周囲にも素直だったといわれる」の28字だけで、全文ほとんど雅子妃殿下への批判に集中し、関連して妃殿下のご実家(父君)にまで矛先を向け、更には宮内庁の羽毛田長官へも苦情の矢を放つ。何とも、言いたい放題の感がある奇妙な論評が、「巻頭論文」と銘打って雑誌に掲載されている。


 尤も日本は、言論も出版も原則としては自由の国であるから、私はこの種の論文そのものを悉く不可とするのではない。しかし批難をうける対象が、皇族や関連公務員であり、個人的に反論したり、抗議をすることが禁ぜられたり、遠慮しなくてはならない立場である事が問題である。そのあたりの事情は、言論人なら百も承知の筈で、恰も耳目は健常でも、もの言えぬ人を面罵するのと同じで、非情の極みである。まして皇族関係者に対してであるから、私は非礼どころか、卑怯なやり方だと思う。反論の許されない皇室関係者に、もし諌言があれば、個人的に宮内庁を介して献言すればよく、その筋道を通さず、一般雑誌等に一方的な批判を公開するのは、非常識であろう。


 ここまで述べると、必ずや、”汝も、かつて「三笠宮寛仁親王殿下へ――歴史学の泰斗からの諫言/女系天皇で問題ありません」と題して、『諸君!』(平成18年3月号)に書いたではないか”との反論が予想される。確かに書きました。しかし、その間の事情は、拙著『祖国再建』(下)に所収の際に詳しく記した通り、この表記は、同誌の編集部による改題で、一見すればお判りでしょう。自分で「歴史学の泰斗」と名乗る大馬鹿野郎はおりますまい。私自身の元の表題は、「女系天皇反対論に対する徹底的批判」であった。しかし当時、三笠宮寛仁親王殿下ご自身の”女系天皇反対”の御発言が、マスコミ誌上に大々的に公表されて、事態は一刻の猶与も許されない緊急の際であったから、私は編集部の案に従い、『諌言』の語を用い、従って文章の一部も書き改めて公表したのである。(『祖国再建』(下)P226~28を参照。)


 尚、関連があるので、この機会に言及しておくが、私は昔、”建国記念の日2月11日”の問題で、三笠宮崇仁親王殿下に、文字通り”諌言”のため、有志と共に『神武天皇紀元論』と題する書物まで作って献上したことがある。幸いに殿下は御嘉納下され、私共の見解を諒とされ、それ以来、問題の御発言は取りやめられ、私は御愛顧いただいて、後年(昭和63年7月25日)、殿下から『古代エジプトの神々』(日本放送出版協会発行)を拝受した。「謹呈 崇仁」の御署名つきであり、恐懼すると共に、流石に学者でいらっしゃると敬服した。因に一言だけ付記しておくが、日本の建国史の研究には、エジプトの古代史が非常に参考になるのである。
 又、その御長男にあたる三笠宮寛仁親王殿下に関しても、殿下が信子妃殿下と御結婚になり、昭和55年11月12日に、伊勢の神宮にお揃いで御結婚御奉告のため御参拝になった際、特に私は、皇學館大学長として拝謁し、御祝辞を言上すると共に妃殿下に記念の品を献上したことがある。実はこのような、民間から皇族への御祝に関する献上は、法的に制限があり、この当時、宮家からは、金品は辞退する旨が申し渡されていたのであるが、大学側としては、信子妃殿下が、大学の先の総長吉田茂氏(元首相)のお孫さま(母系)に当るので、何とか御祝意を表したいと申し出て、神宮ご当局の諒解のもと、私が伊勢特産の装飾品を持参したのであった。
 神宮の特別室の椅子にお並びの両殿下に、御祝辞を申し上げた後、用意の品を妃殿下に差し上げたところ早速ご覧になり、大変喜んでいただいた。
 ところが、間髪を入れず寛仁殿下から、「わしには無いのか」とのご質問があり、驚いた。殿下の例によるユーモアであることは直ぐ判ったが、言われてみれば、結婚祝としては、確かにバランスを欠く感はぬぐえない。しかし今更改めて、というわけにもゆかぬ。同伴の谷省吾文学部長も困った顔をされていた。私は、「妃殿下は皇學館大学の元総長のお孫様ですので特例で」と弁解しようと思ったが、その関係は先刻ご承知のことであるから、私は咄嗟に、「これまでは別々でいらっしゃったのですが、神宮に御結婚を御奉告になれば、これからは、ご夫婦は一心同体でございますから」と気転をきかした。殿下は「そうか。」と笑っておられた。殿下はこういうお方なのである。帰幽された今は、懐かしい想い出となったが、殿下と皇學館大学との関係は極めて密接であった。読者は、その実情をご理解の上で、例の私の「諌言」論文をご覧いただきたいのである。


 更に念のため言いそえておくが、勘ちがいしないで貰いたい。自由に発言できる同業の評論家同志なら、道理の通る論争ならば、どれほど激しい言葉で争ってもよい。いやむしろ、私は正当な論争によって学問は進歩すると考えている学徒であり、敗戦後の学界では皇国史観の残党と讒侮され、孤軍奮斗するのが常であり、教育界でも、日教祖50万と戦ってきた一人である。論争ぐらいで決して私は驚かない。
 先般も男系男子固執論者が、二人がかりで、私を「女系天皇容認論の黒幕」と題して責める書物を出版したが、私は平気で受け流している。批判の内容がつまらぬからでもあるが、必要があれば、私は独りで、いくらでも反論できるから、今は弓の弦を引き絞っているだけのことである。その点、日本の国は言論の自由があって有難い。
 とは言っても、長寿に恵まれた私も、今は老病の身であるから、低俗な批判への反論にこだわらず、『皇室典範』そのものの核心と矛盾についての考察を急ぐこととしよう。 (平成25年4月9日)

▲ページの先頭へ

評者は自らの”立つべき拠所”を明らかにせよ (下) 青々企画代表 田中 卓 (第7回)

 これまで、私は同じ標題で、「山折哲雄氏の皇太子殿下退位勧告論」をめぐる竹田恒泰氏と佐伯啓思氏の論評(何れも『新潮45』に掲載)について、共に満足し得ない理由を述べてきた。
 竹田説は”皇太子殿下擁護説”ではあるが、「反論」と銘打ちながら、山折説に対して反論らしい自説の「反論」が見られないこと。佐伯説は自説の論理的展開はあるが、要するに山折説の炙り出した戦後の”国民主権と天皇制”との亀裂を一段と明白にし、フィクション性の濃厚な「祭祀王」という面を強調して解決を試みようとしただけで、むしろ山折説を踏まえた補強論に過ぎない。結局どちらも期待はずれであることを述べている内に、朝日新聞(3月25日)に、また山折哲雄氏のインタビュー記事が出たので、その内容の批判に筆を割いてしまった。そのため、読者には、全体が判りにくくなったと思うが、要するに、「反論」や「論評」をする者は、何よりも自らの”立つべき拠所”を明瞭にして、相手と渡り合う用意が必要だということを述べたのである。
 言葉をかえて、山折問題について、はっきりいえば、評者は、

①「主権在民」の現憲法を本心から是認し、その上に立って自論を展開するのか。

②現行憲法の「主権在民」に実は反対で、そのため「無効」「廃棄」「改正」の立場でありながら、それを隠して表に出さず、現行憲法の土俵の上で辻褄を合わせながら、何とか合理的な反論や自説を展開しようとするのであるか。

 この”立つべき拠所”が不明なため、折角の論争が空廻りしているのである。この点で、私は、佐伯氏の論理がシャープであるだけに惜しいと思っていたが、第5回の末尾に書いた通り、同じ『新潮45』3月号の、佐伯啓思氏と西田昌司氏の「徹底討論」は注目に値する。題名は「安倍総理の『覚悟』は本物か」である。


 尤も、佐伯氏は昭和24年(1949)生まれの経済学者、西田氏は昭和33年(1958)生まれの自由民主党の参議院議員であるので、大正12年(1923)生まれの私とは、世代も異なり、御両人とは全く面識も文通もない。しかし今回の「討論」を読んで、特に最後の小見出し「『憲法論議』の本質」の二頁での、西田氏の発言に頗る共感を覚え、むしろ感嘆した。その一節を引用すると、

①「本来、日本は、憲法を変えられない国柄なんです。」

②「変えられない国柄を占領中に変えられたことが最大の問題で、明治憲法への現状復帰以外、考え方としてはあり得ないのです。」

③「現憲法の今、一番決定的な問題は何かといったら、安全保障の問題と、国柄の象徴である皇室の問題です。」

④「皇室の話は、これもほんとうは現状復帰ですね。だから、皇室典範を変えて、一旦、臣籍降下された方に戻って頂くのが筋だと思います。」

⑤「妙に文言を改正したりして、占領体制の延長線上にある中で改憲すると、この日本国憲法が生きて、明治憲法をほんとうに殺すことになりかねない。」

⑥(佐伯氏の)「福田恆存氏……は、一度、明治憲法に戻してすぐにそれを改正する、という。」との発言に答えて、(西田氏)「そうです。だから、それでほんとうの意味での改正をしたらいいんです。」

⑦「安倍さんの戦後レジームからの脱却というのは、難しいというか、矛盾を含んでいて、戦後レジームからの脱却の象徴が憲法で、憲法を変えないと戦後レジームから脱却できないと言われるが、逆に精神的に戦後レジームから脱却しないと、ほんとうの意味での憲法破棄、創憲は、できない相談です。」

 この発言の中で、一部に、私には不適切と思える部分もあるものの、それは西田氏の誤解で、小異にあたり、基本的な考え方――即ち、一旦明治憲法に復帰し、その上で直ちに自主的に改正――という大方針は、全く同感である。


 この考え方を、佐伯氏は福田恆存氏の説として紹介しているが、これは早く平泉澄博士が、日本自由党の憲法調査会(当時の首相は吉田茂氏だが、憲法調査会の会長は岸信介氏。)に招かれて、首相官邸の席上で公表(昭和29年6月30日)されたところであり(拙著『続・田中卓著作集』第5巻84頁を参照。)更に私は『占領下に自由があるか――日本国憲法の問題――』と題して、「日本国憲法」そのものが、実は「大日本帝国憲法」の”違憲”である趣旨を公表したことがある。(雑誌『日本』昭和46年8月号)。いま詳しく述べる余裕はないが、その概要は、拙著『愛国心と戦後五十年』(平成10年10月、青々企画発行。343頁以下)をご覧ください。


 憲法改正についての、特に天皇の身位、皇統の継承等については、下文において詳述するつもりであるが、予め西田氏の誤解を解く意味で問題点を簡単に言及しておくと、
 (イ)同氏は①で「日本は憲法を変えられない国柄」と言われるが、それは「不磨の大典」の誤解である。先の日本帝国憲法は明治天皇の御指示によって成立したので、「欽定憲法」とも言いならわされてきたが、”改正できない”というのではないことは、帝国憲法第7章補則に、「此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ」、として第73条に改正規定があり、一方で、改正できない場合として、第75条の条文があるから、改正の有り得るべきことを容認していたことは明らかである。従って西田氏の①の発言は正確でない。
 (ロ)西田氏の④の「臣籍降下された方に戻って頂くのが筋」ということも、同氏は”皇族の臣籍降下”を昭和22年の占領軍による強制のそれのみを念頭においておられるようであるが、これは誤解である。
 何故なら、明治40年2月11日の「皇室典範増補」の第6条に、「皇族ノ臣籍ニ入リタル者ハ皇族ニ復スルコトヲ得ス」とあり、大正9年3月17日の「皇族ノ降下ニ関スル内規」には、具体的な臣籍降下の「施行準則」まで定められている。
 従って占領政策の有無に関係なく、これは天皇陛下の御裁可があれば、この”皇族復帰”は可能であることも道理である。従って、西田氏が「明治憲法への現状復帰以外、考え方としてはあり得ないのです。」と断言するのは、言い過ぎだということを指摘しておきたい。
 (ハ)但し、西田氏の⑦にいう安倍さんの”戦後レジームからの脱却”については、保守陣営では、一般に賛同されているので、西田氏の批判的発言を不審に思う人があるかも知れないので、この点は西田説を補足して支持しておきたい。その理由は、安倍氏が盛んに”レジーム”などというカタカナ語を使うが、果たして一般人に、その意味が本当に判っているのか疑わしいからである。何故なら、これはもともと有名なフランス革命当時に、打倒の対象となった”アンシャン・レジーム”(旧体制=王政)というフランス語から思いついた用語で、日本の場合にはあてはまらない。レジームを「制度」或いは「政体」という日本語でいえば、その”矛盾”が明白となろう。本当は、”Y・P(ヤルタ・ポツダム)体制の超克”というべきなのである。この点は西田氏を誤解する人のために、弁護として書きそえておく。


 以上、若干問題もあるが、これだけの議論を堂々と述べる保守政治家は管見では稀有である。私は、佐伯氏と西田氏との接点に全く不案内であるが、西田氏は、滋賀大学経済学部の卒業といい、佐伯氏は一時、滋賀大学経済学部の助教授・教授であったそうだから、恐らく師弟関係であったのであろう。若しそうとすれば、佐伯氏が西田氏のような俊秀を指導されたのはお見事であるが、西田氏こそは文字通り”出藍の誉れ”に値しよう。 (平成25年3月31日)

▲ページの先頭へ

【緊急特報】 朝日新聞のスクープは山折論文の弱点を炙りだす  田中 卓 (第6回)

 今回(第6回)は、予告通りであると、前述(第5回)のあとをうけて佐伯論文批判の続きを掲載する予定であったが、今朝(3月25日)の朝日新聞に、『「皇太子退位論」山折哲雄さんに聞く』という四段組の記事が写真入りで大きく掲載され、これは他紙を抜くスクープであるから、緊急にそれを俎上にのぼすこととする。


 山折論文の特異な内容は、既に周知のことなので繰り返さない。しかしその後、問題が注目され、週刊誌等で騒ぎが大きくなったので、同氏は当分の間、メディアの取材には一切応じないことに決めたらしい。現に『週刊現代』(3月9日号)には、以下のようなコメントが記されている。(59頁4段目)

「(論文は)いろいろ慎重に注意を払いつつ、これ以上でもなければこれ以下でもないという、ギリギリのところで書いたつもりです。ですから、そこに談話を重ねることになるインタビュー等は、現時点では控えさせてもらいたいと思います。私があの論文を一番届けたいのは、皇太子さまです。しばらくはその気持ちを守りたいと思います。」


 ところが、このたび『朝日新聞』の「取材の応じ」て、嬉々とした表情で発言をしている。『週刊現代』では相手にならないが、天下の『朝日新聞』ならインタビューにも応じましょうということかも知れないが、何れにしても一ヶ月たつかたたない間に「気持ち」が変わるとは、節操の軽い評論家の姿を炙りだす結果となった。これを証明したのは『朝日』スクープの第一の功績である。
 次に、最初の『新潮45』の論文では、”皇室の未来のために”とか”皇太子殿下御一家のお幸せを願うため”に「退位勧告」をするという善意的な文脈が僅かでも読みとれたが、今回の『朝日』のそれは、「皇室への国民の視線が冷たく非寛容になるのに歩調を合わせ、社会も冷たく非寛容になったようです。皇太子ご一家に象徴される皇室の苦悩が、先を見通せない私たちの不安に重なります。」と言い、「そんな時代の雰囲気が、天皇家の危機と根っこでつながっている気がします。」と、まるで「皇室の苦悩」が「社会の危機」に連動しているかのような疎疎(うとうと)しい発言をし、「総合的な社会・人文科学論として検討を進めるべきだ」と、学者ぶった虚勢を張っている。笑止千万である。しかし、この人物の本心が、ここまで露呈してきたのは『朝日』スクープの第二の功績である。
 就中、『新潮45』論文と『朝日』スクープとの見逃し難い変化は、後者の「平和な時代には、天皇の宗教的権威と現実の政治的権力との均衡がとれてきた。江戸の250年しかり、戦後の68年もそうです」と言う一節である。
 前者では「平和の時代」は「二度あった」として、「平安時代の三五〇年」と「江戸時代の二五〇年」を代表とし、特に平安初期の嵯峨天皇の御代に「統治の特徴が、宗教的権威と政治的権力の二元的なシステムによって柔軟につくりあげられてきた」と強調しているのが、今回はこの箇所は脱落している。おかしいではないか。この統治システムの創始である筈の「平安時代」が消えて、新しく「戦後の68年」が二つの「平和の時代」の一つとして、俄に追加されているのである、何故か。
 それは恐らく、嵯峨天皇についての歴史理解が基本的に間違っていることを、歴史の専門家に指摘されて変説したのであろう、と私は大胆な憶測をする。何故なら、嵯峨天皇を「象徴天皇制」の創始、或いは代表などとみることは、歴史学的には全くの偏見・誤解だからである。


 弘仁9年(818)の疫病大流行に際して、書写された嵯峨天皇の写経は史上有名なことで、大覚寺にはその御真筆と伝える「般若心経」が保存され、それ以降、宸筆写経の例は伏見天皇(92代)・後光厳院・後花園天皇(102代)・後柏原天皇(104代)と受けつがれ、後奈良天皇(105代)の奥書などは拙著『教養日本史』にも紹介している。正親町天皇(106代)も先例に倣われている。しかし92代の伏見天皇の御代は既に鎌倉時代の北条氏執権の世の中で、平安時代は遠く過ぎ去っている。
 心経写経は、もともと天災や疫病等に際して、その功徳を祈念して継承されたものである。それは、何も象徴天皇制という政治のシステムに基づくものではなく、神武天皇の建国の大方針として日本書紀に伝えられているように、「夫れ大人(ひじり)の制(のり)をたてて、義必ず時にしたがう。いやしくも民(おおみたから)に利あらば、何ぞ聖(ひじり)の造(わざ)をさまたげむ。」という、御歴代天皇の国民(おおみたから)愛護救済の大御心の発露である。
 しかも平安時代三五〇年というのも、その期間に、平将門の乱もあれば、藤原純友の乱もあり、安和の変、平忠常の乱、前九年の役、後三年の役、保元の乱・平治の乱もあり、保元の乱では崇徳上皇の讃岐配流の悲劇まであった。決して平安無事の時代というわけではないのである。


 さらに、嵯峨天皇(52代)については、兄の平城天皇(51代)のあと皇位につかれたが、父の桓武天皇の新政の精神をうけつがれて、天皇親政を基礎とする律令政治を維持する努力をかさねられたお方である。例えば、多年にわたる懸案の『新撰姓氏録』を完成して、天皇を中心とする諸氏族の秩序を系譜の上で明らかにされた。
 一方で、平城天皇の御代には藤原仲成と妹の薬子の驕暴な振舞が多かった。あとを嗣いだ弟の嵯峨天皇は、平城上皇の皇子高岳親王を皇太子に立て、前代の施設を改め政治改革に乗り出されようとしたが、それに不満な仲成・薬子等は、平城上皇に働きかけて重祚の計画を進め、それがもとで天皇と上皇との間の不和が表面化し、結局、天皇は兵力を発動され、武力に敗れた上皇は薙髪したまい、薬子は自殺、仲成また射殺されるに至った。これがいわゆる仲成・薬子の変である。そのため、皇太子高岳親王は廃せられ、嵯峨天皇の異母弟の大伴親王が皇太弟となられた。後の淳和天皇(53代)である。
 また弘仁5年(814)に、嵯峨天皇は皇子信以下の皇子・皇女に源朝臣の姓を与えて臣籍降下せしめられている。これは令制を大きく変更するものだが、当時の皇室経済窮地の打開策としての御英断であった。いわゆる嵯峨源氏の誕生である。これらのことを成し遂げられたのは、仲成・薬子の変を平定して政治権力が確立しておられたからであること、いうまでもない。およそ優れた統治者は文武両面の特質を兼ねそなえられているものだ。山折氏は文の宗教的一面だけに注目して、嵯峨天皇を象徴天皇の理想像のように説くが、それは歴史の実像とかけ離れている。


 尚、念のため申しそえるが、現天皇が皇太子時代に、報道機関に、天皇の理想のあり方について問われ、「伝統的に政治を動かす立場にない」として、「嵯峨天皇以來の『写経の精神』を挙げ」られたことを報じて得意がる記者もあるが、これは”愚問賢答”というものである。
 何故なら、現在の主権在民の占領憲法下で、皇太子殿下のお立場として「政治を動かす立場」を理想と答えられますか。言えば忽ち”憲法違反”で大問題になりましょう。愚問である。そこで皇太子殿下は「伝統的に政治を動かす立場にない」ということを強調されたが、この「政治を動かす立場」というお言葉が実に賢明である。「動かす」というのは「自ら手を下す」ことを意味するが、わが国の天皇は「自ら手を下す」のでなく、その「手を下す」(動かす)人物(為政者)即ち「摂政」「関白」「大臣」「征夷大将軍」等を銓衡登用し、実務の執行を依託されている。これが「伝統的」なのだ。「聞こしめす」という言葉がそれを証明する。しかし勿論、依託者を選考し得ない場合や、依託者が時には反逆する場合もあろう。その時には天皇は「自ら手を下される」場合もある。しかしそれは”例外的”である。だから「伝統的には」と断られているのである。まことに「賢答」と申し上げざるを得ない。更に進んで”天皇親政”の意味については拙著『平泉史学の神髄』(続・著作集第5巻所収)の中の「明治天皇の御誓文と宸翰を仰いで」をご覧いただきたい。


 また山折氏は、「平和な時代」の代表に“江戸時代”を挙げているが、この時代は、外に向かっては「鎖国」、内においては『禁中並公家諸法度』や身分制度その他をもって厳しく統制したから、形式上の平安が保たれたのは当たり前である。しかしその閉塞した社会と反撥した思想がやがて倒幕・維新となったこと、周知の通りである。
 このようにこの山折氏の歴史理解の浅薄さを炙り出したのが『朝日』スクープの第三の功績である。


 殊に今回、「戦後の68年間」を「平和な時代」の一つにあげているのは、あきれる他はない。このY・P(ヤルタ・ポツダム)体制を超克するために苦闘を重ねてきたのが“戦後”であり、戦後体制の脱却は今の安倍内閣でも叫ばれていることではないか。かような山折氏の現状認識の不足を鮮明にしたことも、『朝日』スクープの功績であろう。


 但し、唯一つ、プラス点を指摘しておくのは、『朝日』スクープに、以下の文章が見られることである。

「2005年に『皇室典範に関する有識者会議』で、女性天皇や女系天皇を認める意見を述べた。昨年10月に、政府が皇室典範見直しに向けた論点整理を発表したが、議論は前進していない。」

 この山折氏の“女系・女性天皇容認論”は、『新潮45』でも少しく言及しているが、重ねて『朝日』で確認していることは、今後の証明として記憶されてよい。これも『朝日』の功績の一つとしておこう。 (平成25年3月28日擱筆)

▲ページの先頭へ

山折哲雄氏の「皇太子退位論」を憂う         野崎 真夫 氏

山折氏の「皇太子退位論」はかなり社会に影響を及ぼし、今日「新潮45」3月号は入手が難しいほどだ。正邪的確に論じられれば良いが、一般論調は動揺をきたしているのではないかと思われる。
象徴天皇を金科玉条とし、戦後の68年が平和で、宗教的権威と政治的権力のバランスがとれた良い時期であり、現在の国際的危機及び国内的不安が、皇太子殿下に要因ありと結びつけつる誠に不謹慎な言論である。
優れた宗教は根底に優れた道徳性が内在していないといけないし、それは、家族をよりよいものにする教義でなければならないが、そういった配慮は見受けられない。とても宗教学者とはいえず、今日この程度の学者が跋扈している現状を嘆かずにはおれない。
氏は3月25日朝日新聞で、反省のかけらも見せず、再度同じ論を展開している。朝日も朝日で、その魂胆が透けて見える。
皇太子ご一家は、高潔で慎み深いご生活をなさっており、それは私も参上した皇居勤労奉仕の時に切実に感じた。この殿下をお守りしなければならないと深く肝に銘じたその時の感動を思い起こした。
「戀闕の友へ」のご活躍を祈念してやまない。 (平成25年3月26日)

▲ページの先頭へ

評者は自らの”立つべき拠所”を明らかにせよ (中) 青々企画代表 田中 卓 (第5回)

 〔2〕の佐伯氏の論文は竹田論文に較べて、優れて学術的である。山折論文に対しても的を射ており、問題点を炙(あぶ)り出している。流石に京大教授の名に恥じない論理構成といえよう。しかしそれだけに、他から足をすくわれない学者の巧みな計算が働いている。たとえば、書き出しからして、次のように記す。
 「私は、皇位継承について格別の意見もなく、また、どうこう発言する気もありません。」と、自らの“無関心”をよそおう。それなら、何もこのような論文を書かなければよい筈だが、これは明らかに予防線にすぎない。続けて同氏は説く。皇位継承問題は「よほど事情に通じているか、またよほどの考えがなければ、一個人が発言すべきこととも思いません。」まことにその通り、同感である。
 ところが、この前提のもとに、佐伯氏は堂々とこの長論文を書くのであるから、一見すると、皇位継承に格別の意見もない無関心者が、個人的発言をしているわけであるから、自分自身の言葉に矛盾があるように思われるであろう。
 しかし佐伯氏の表現は巧妙であって、〔イ〕自分は皇位継承問題には格別の意見もなく、発言する気もない。〔ロ〕しかし山折論文は戦後の「皇位継承」ひいては「天皇制」について、のっぴきならない深刻な論点を”炙(あぶ)り出された”ので、その問題点を中心に論述しようと、切り出すのだ。


 うまいものだ。山折論文をワンクッションとして佐伯氏は戦後の「国民主権と天皇制の関係」との亀裂を一段と明らかにし、山折氏の所謂「近代家族」と「象徴家族」の二重性説をもとりこんで、天皇制の基本構造の特質を以下の三点にまとめてゆく。

①「天皇の位は血統による世襲である。」

②「天皇は人であると同時に神格を帯び、『聖性』に関わる。」

③「天皇は形式上は政治の主宰者である。しかし自らは政治を行わず、もっぱら祭祀儀礼を執行し、権威を担保する。」

そして「その結果、日本の統治システムは、一方で天皇という聖性をおびた『権威』と、他方で実権をもつ政治的な『権力』が分離するとともに、その『権力』の正当性は『権威』によって付与される。」というのである。


 この論理の運びかたは、経済学者というよりは、哲学者か思想史学者のそれで、いかにも理路整然としていて、読者は引きずり込まれる。しかし、ここには現実と過去の史実を通貫した歴史的考察が完全に欠落している。一例をあげれば、上掲②にしても天皇は「聖性」に関するという点から「祭祀王」とみなし、③のように「自らは政治を行わず」と決めつけているが、これはいつ時代の史実なのか。
 もともと日本語の「マツリゴト」は「祭事」と「政事」とを兼ね合わせた言葉で、古代の実体は、両者を一体と理解していた。換言すれば、祭政一致が本来の姿なのであって、「祭祀王」と「政治の主宰者」の働きは分離されていない。もともと「祭祀王」などと言う言葉は敗戦後の一部学者の造語で本来の日本語ではない。類語をを求めれば伊勢(「神の朝廷」とも称す。)の「斎王」であろうが、これは倭姫命に始り、天皇の皇女を原則とし、天皇の御指命により大御手代として天照大神に奉仕されていたのであり、「天皇」のお働きの一面を代表されるが、「天皇」そのものではない。尚、「斎王」は一般に「いつきのみこ」とお呼びする。
 それが崇神天皇の御代(3世紀前半)から日本国内が皇室を中心に大きく統一すると共に、政治行政が複雑化し、更に大陸文化の影響をうけて祭政分離の傾向が始まるのであるが、それでも祭政共存の基本構造の原則は後世まで一貫して維持された。それが敗戦後、天皇制度の危機を救うために、「象徴天皇」などという前例のない奇妙な名義を生み出しただけのことであって、「祭祀王」などと特称するのも“象徴”の用語に誘引された戦後の産物である。(この点は、何れ改めて論ずることにして、今は略す。)
 ここで問題は、やはり佐伯氏自身の“立つべき拠所”である。敢えて問うが、賢兄は

①現行の憲法、(主権在民)をこの国の国民(特に国立大学教員)として承認せざるを得ない立場であることは理解されるとしても、学者の本心に照らして、日本古来の姿(国体)として正しいものと是認せられるのかどうか。

②若し是認するならば、今更「戦後民主主義と天皇制の間の亀裂」など案ずる必要はなく、世の流れのままに現状と妥協し、天皇制の将来など特に問題とする必要はないこととなる。この観点は、冒頭の”無関心”説と通底する感があるように思われる。

③しかし「亀裂」の「修復」を考えられるというのは、やはり本来の「天皇制」の長所を、将来も維持される考えなのではないか。

④そのために、「祭祀王」の用語を持ち出されているようであるが、本当にそれを日本天皇の特性と信じておられるのか。

 何故、このような基本的なことを改めて問うのかというと、賢兄は、以下の言葉で論文を結んでおられるからである。

 「もしも、この亀裂を修復しようとすれば、われわれは、まともに立憲天皇制というものを考えなければなりません。それは、西欧の立憲君主制と類比できるものですが、まったく異なったものです。『祭祀王』としての天皇をフィクションとして承認するほかないのです。
もちろん、天皇は政治には関わりません。しかし天皇制の維持は、本当は、このようなフィクションを国民が承認できるか否かにかかっているのではないでしょうか。」


 お判りになりますか。佐伯氏の提案するのは、
  「立憲天皇制」=「立憲祭祀王」
にほかならないのです。しかし、この場合の「『祭祀王』としての天皇は、「フィクション」として承認されればよい。いや「本当は、このようなフィクションを国民が承認できるか否かにかかっている」というのである。
 「フィクション」とは何か。普通に訳せば“作りごと、虚構”であり、詳しくは“架空の、或いは想像による作り話”ということである。「祭祀王」の背景には、このようなフィクションが隠されているわけだ。こんなものを国民が「承認する」と考えられるであろうか。


 そしてこの「フィクション」という用語は、実は山折氏の得意とする言葉で、平成17年6月8日首相官邸での有識者会議のヒアリングでも興味深い問答がある。一例を示すと、山折氏によれば、皇統の「血統原理」の中の「万世一系なんていう言い方は血統ではありませんけれども、かなりのフィクション性を含んでおります。」と放言して、園部氏(政府側委員)を戸惑わせている。皇統問題を論ずる学者は重要な概念を説明する場合だけは、カタカナ英語や、近代の語義曖昧な新造用語を使わず、本来の日本語で、正確な議論をして貰いたい。そして自らの”立つべき拠所”を明らかにし、現行憲法の「主権在民」の原則の是非についての、学者として態度を明示されたい。その足許が定まらないと、興味本意の詰め将棋のようなもので、面白いけれども真剣勝負の論争にはふさわしくない。


 この点で重要なのは、同じ『新潮45』3月号の、佐伯氏と西田昌司氏との「徹底討論」であるが、それは次回に譲ることとする。 (平成25年3月24日)

▲ページの先頭へ

評者は自らの”立つべき拠所”を明らかにせよ (上) 青々企画代表 田中 卓 (第4回)

 このウェブページの切っ掛けが、『新潮45』に掲載の山折哲雄氏の皇太子殿下に対する「ご退位なさいませ」という辞任勧告という非常識な巻頭論文に驚いたこと、又これについて週刊誌上に賛否の両論が花ざかりであったことは既述の通りである。
 やがて本格的な反応は今月号の『新潮45』(3月18日発売)に出た。


  〔1〕 は『山折論文に反論する』と銘打って竹田恒泰氏の「皇太子の祈りは本物である」。

  〔2〕 は佐伯啓思氏の連載『反・幸福論』の一篇(第28回)としての「”山折氏論文”が炙り出したもの」である。


 〔1〕の評者は皇位継承問題で男系男子固執、旧皇族復帰の運動で、五指の中に数えられる活発な論客。〔2〕の筆者は京都大学の教授で社会経済学や社会思想史を専攻し、論壇誌でも活躍する有名人である。
 私は共に注目して読んだが、期待は裏切られた。寸評で失礼だが、何れ改めて論文として発表する機会もあろうから、このウェブでは基本的な問題点だけをを指摘しておこう。
 先ず〔1〕論文については、「皇室を論じる作法」から始まって、即位を辞退することは現行法では違法になること、また歴史的に「皇太子を辞めさせた先例」はあるが、自らの意思によって皇太子を辞める例は一例もないこと、さらに皇太子妃殿下のご病状「適応障害」の擁護等を弁じているが、最初の違法論を除くと何れの論点も竹田氏の専門外の領域の伝聞で、最後に、もと内掌典の高谷朝子氏の証言を借用して「皇太子殿下の祈りは本物だ」として、「皇太子殿下は必ず立派な天皇に」なられるだろうと称讃して、「国民が殿下を見限るようなことは、絶対にあってはならないとわたしは思う。」と結んでいる。
 これだけを見れば、皇太子殿下のために懸命に弁護の筆を振るっているように思われるが、肝心の山折氏の論旨そのものについての「反論」は殆ど読みとれない。それどころか、山折氏その人に対しては、その論文を「拝読して私自身学ぶ事も多かった。山折先生の皇室に対する分析には共感するところ多く、歴史的な皇室のあり方を踏まえて、皇室の本質を鋭く説いていらっしゃると感じた。」と手放しの敬意を表し、最後に「今回は山折先生の論考に対する原稿を寄せたが、私と山折先生で意見が異なる部分があってもむしろ当然である。だからといって私は山折先生への尊敬の念が薄れることはなく、引き続き教えを請うていきたいと思っている。」とまで懇願している。
 「反論」と銘打つ論文を書きながら具体的に相手(山折氏)への積極的な批判を明確に指摘すること乏しく、ただ皇太子殿下への擁護に終始し、「反論」の相手を繰りかえし「先生」呼ばわりして、今後も「尊敬の念」を持続し、「教えを請う」というのであるから、一体この人の立場、即ち”立つべき拠所”はどこなのか、曖昧模糊としているではないか。


 ドイツの偉大な史学者フリードリッヒ・マイネッケが愛用した金言に、ヘラクレートスの「万物は流転す」とアルキメデスの「我に立つべき拠所を与えよ」がある。 変転極まりない世界を達観し、歴史を貫く不易の道を探求しようとするものは、一見矛盾する感のあるこの二つの命題に対決し、自ら血路を切り開かなければならない。至難だが、歴史、殊に思想史・皇室史などを学ぶものとして、避けて通ることの出来ない試練である。
 ところが竹田氏の論法は山折氏に対して、どのような立場で対面しているのか不明である。巧言令色は俗世界では通るかも知れないが、学界や論壇ではそれは許されない。みずからの拠ってたつところの立場を明らかにし、相手の論点を正面から批判するのが「反論」というものである。
 十一年前(平成14年3月)、皇學館大学の新田均助教授(現在は教授)が『一刀両断』と銘打って山折哲雄氏を含む数人に「先生、もっと勉強しなさい」と副題をつけた単行本を刊行し(国書刊行会)、私に寄贈してくれたことがある。題名が余りにきびしく、先輩に礼を失するから、と、その当時忠告したことがあるが、今回改めて読み返してみると、やはり題名は改める方がよいと思うが、内容は学問的な「反論」として充実しており、新田氏がこのような過激な書名をつけた気持ちは十分に理解できる。
 学者の論争は武人の戦斗である。学問は論争によって進歩すると私は信じている。竹田氏がいやしくも「慶應義塾大学講師(憲法学)」を名乗るなら、これ位の覚悟で、それにふさわしい論陣を張って貰いたかった。もともと山折氏は、「皇太子殿下の祈り」が不十分だと非難しているわけではないのだから、それを「本物である」と強調しても的はずれで、何の意味もない。今回の竹田氏の一文は、「山折論文に反論」というより「山折論文」との擦れ違いと評すべきであろう。 (平成25年3月20日)

▲ページの先頭へ

「万一」の危機に備えよう       青々企画代表 田中 卓 (第3回)

 切迫する現下の対外危機も重大事であるが、このウェブページは「戀闕の友へ」の呼びかけであるので、皇室・神宮のことに限らせていただく。
 戦前、私共の学生時代には、共産主義者による「天皇制の打倒」というスローガンが秘かに生きていた。そこで敗戦後の被占領統治下では日本共産党が息をふきかえし、彼等はわが世の春を謳歌したものである。しかしその後、米ソ両国の冷戦が続き、ソ連の崩壊後は、日本共産党も勢いがそがれ、表向き「天皇制の打倒」のスローガンは口にしなくなったから、一般の若い人々はその言葉さえ知らない時代となった。しかし、つい最近まで、その思想を奉ずる「中核派」は、天皇制の根源である伊勢神宮をも攻撃の対象としていたのである。
 といえば、近頃、ネットで他人になりすまして「伊勢神宮の爆破」を宣言した犯人のいたことを思い出し、笑いの種程度に思われるかも知れない。
 しかしこれは笑い事ではない。新聞にも殆ど目立った報道記事はなかったから、一般には知られていないが、平成2年(1990)12月5日の午後9時代に、伊勢神宮に対して中核派の連中が実際に爆弾攻撃を仕掛けているのである。
 丁度その頃、私は伊勢にある皇學館大学の学長を三期8年間(昭和55年~63年)勤めた直後で、大学院教授として在籍していたので、警察からの警戒情報もあり、後任の谷省吾学長と共に学内警備に当たっていた。
 そこで結果の情報も承知しているが、この時、時限式爆破物が伊勢市浦口三丁目の墓地に設置され、3発発射された。内1発は伊勢神宮外宮神域内、1発は山田工作所、1発は内宮の忌火屋殿(いみびやでん)の屋根に落下した。
 内宮の忌火屋殿というのは、内宮御正殿の西御敷地(今年10月2日に遷宮される予定場所)の直ぐ西側にある板葺(いたぶき)の建物であるから、発火の恐れもある危険な状態であったのである。私が(第1回)で「万一」の危険と書いたのは、このような事態を現実に承知しているからである。 (平成25年3月13日)

▲ページの先頭へ

「人は望む事を信じる」       青々企画代表 田中 卓 (第2回)

 昨日(3月11日)は東日本大震災の2周年に当たり、天皇・皇后両陛下をはじめ全国民が鎮魂と復興の祈願の日であった。この大震災について反省すべきことは多いが、当日(3月11日)の毎日新聞の朝刊に、山田孝男編集委員が書いている連載「風知草」の記事が注目された。題して「人は望む事を信じる」という。
 この言葉は、カエサル(シーザー)の「ガリア戦記」に書き留められた「およそ人は自分の望みを勝手に信じてしまう」という言葉の簡略化であるが、原子力発電再起動派と活断層の問題をもじった警句として、まことに意味深長である。よって表題にこの言葉をそのまま借用させていただいた。
 私は原発については全く素人で論ずる資格はないけれども、この言葉を皇位継承問題に当てあめると全く同感と言う他はないからである。
 前回既述のように、現状の「一夫一妻制」の結婚生活において、「男系男子」による「継承の永続」を「望む」のは、誰が考えても不自然で、不可能なことは疑う余地がない。それにも拘わらず一部の男系固執派は、昔の側室制(一夫多妻)の慣例を下敷にして、従来の「伝統」――実は「生活習慣」に過ぎないのに――であるからと言う理由で、「男系男子」を可能の如く主張する。それは正に「自分の望みを勝手に信じてしまう」適例であるまいか。
 私は歴史家として、歴史の真実――側室制――を無視ないし軽視した「信仰」に近い男系固執派の説を憂えるのである。どうか男系派諸君よ!「自分の望みを勝手に信じてしまう」ことなく、冷静に公正な判断をしていただきたい。 (平成25年3月12日)

▲ページの先頭へ

山折論文は無責任な暴論        京都産業大学名誉教授 所  功 氏

 これは二月十九日『週刊文春』の記者から電話取材を受けた直後、管見を正確に伝えるためメモを纏めて送った走り書きである。同誌三月七日号は「皇太子“退位論”にご友人が怒りの猛反論」を中心に載せて管見を出さなかったが、田中先生のご慫慂により原文のまま掲載して頂く。


 山折哲雄氏は、公職を歴任されてきた社会的な影響力の大きい「宗教学者」である。それだけに、『新潮45』3月号の論考は“ご隠居さんの戯言(ざれごと)”などと揶揄して済ますわけにいかない。
 天皇も皇太子も、憲法と皇室典範に規定される格別な身分であり、公的な役割を担っておられる。従って、他の皇族方よりも制約が厳しく、まして一般国民のような自由はない。
 この現行法制に全く言及せず、皇太子殿下に「ご退位なさいませ」と勧める(むしろ迫る)とは、不謹慎・不見識も甚しい。その上、史実無視の象徴論や退位論は、無責任な暴論といわざるをえない。
 同氏は「象徴」天皇の原像が平安初期の嵯峨天皇にさかのぼるという(23頁)。しかし、嵯峨天皇は父の桓武天皇と同じく政治・軍事の実権を握られ、それゆえ復位を企てた兄帝との争いに勝ち、国費節減のため皇子・皇女を源姓に降すほど強硬な政策も執りえたのである。
 また「譲位は、平和理に王権の継受をおこなう制度だった」という(28頁)。しかし、天皇位や皇太子位を上皇や権臣らの圧力で無理やり追われ廃されて、それが内乱や混迷の要因となった実例は数知れない。だからこそ、明治と昭和の皇室典範が、天皇は終身在位と定め、その継承順位も明確に決めたのである。
 今上陛下も東宮殿下も、この法制に則って即位礼・立太子礼を挙げられ、象徴天皇として長兄の皇嗣としての大役を雄々しく務めてこられた。とくにご病気がちの妃殿下を全力で守りながら公務に勤しんでおられる皇太子殿下には、畏敬の念すら覚える。
 その皇太子殿下に対して、離婚歴のある米国のシンプソン夫人と結婚するため「王位と祖国を捨て」たエドワード8世=ウィンザー公の例まで引き「ご退位」を煽るような人が、本当に「宗教学者」なのだろうか。 (平成25年2月19日メモ)

▲ページの先頭へ

【新刊紹介】 続・田中卓著作集 5 『平泉史学の神髄』    廣瀬 重見 氏
続・田中卓著作集

 昨年末、ある友人は近況報告の葉書に、本書を拝読して「まことに身の引き締まるおもひで居ります。」と書いてこられた。皇學館大学名誉教授である著者の誕生日(12月12日)発行の本書を、三日間で読み、平泉澄博士の幕末の志士のやうな活動ぶり、そして著者の病ひを押しながらも倦むことのない先師雪冤の旺盛な研究成果に驚嘆されてゐた。
 本書は、著者の米寿を記念して企画され、第四巻までの古代史の研究から一転して、いはば近現代史に移り、「大東亜戦争中から師事された平泉澄博士の真姿と終戦の真相を示す論評・資料・記録など(二巻分)」の最初の巻で、同学の必読必携の書に値するであらう。
 平泉博士は、生前、同学の奉ずる学問が如何なる歴史的意義を荷つたかを探究する国体護持史の研究を指示され、その帰幽後、洸教授は「同学はもつと平泉澄の研究をしなさい。」とよく口にされてゐたのを思ひ出すが、博士を皇国史観の指導者と誤認し、非難中傷の的にする戦後の風潮を黙視し得ず、敢然として誤解の是正に尽力されたのが著者であり、本書は、『皇国史観の対決』(昭和五十九年)や『平泉史学と皇国史観』(平成12年)の前著を引き継ぐ畢生の著作である。
 本書の内容は、本誌(昨年11月号)折り込み広告にもあつた通り、日本学協会発行の『藝林』や『日本』に発表された論文六編に加へ、平泉博士自身が秘かに最重要とされた資料を初めて翻刻公表する新稿三編から成る。その三編こそ、平泉博士の二・二六事件との関はりを示す『孔雀記』であり、叛乱軍の「大赦」を近衛首相に求める献言であり、事件当時の時弊の革新を近衛公に期待する「意見十條」の書翰である。
 平泉博士に対する誤解の最たるものは、事件の翌日、弘前から上京される秩父宮殿下を水上駅に待ち受けて何事かを言上されたこと、そして乱後の大赦運動から、博士を叛乱軍背後の黒幕とするものである。この疑惑のために、博士は一時、軍部や宮中からも遠ざけられたことは『悲劇縦走』にも明らかである。しかし博士自らは、その疑惑を晴らさうとはされなかつた。その疑惑の正体は、戦後、『西園寺公と政局』(原田日記)の公刊によつて判明するが、二・二六事件に関連する真相は、福井銀行副頭取・上坂巌氏宛書翰に、「彼の部隊の討伐の方策をたて」た「委詳記録、有之」と漏らされるに止まり、他人に迷惑が及ぶことを顧慮し、「一切口を緘して語らず」に永眠された。
 その「委詳記録」こそ、平成九年発刊の『高松宮日記』第六巻に記載された『孔雀記』を指すのであるが、著者は、博士の生前、「昭和四十八年八月十五日に平泉寺のお屋敷に参上し、二階の博士のお部屋に独り端坐して、その原本を深い感動を以て拝見させていただくことができた」と記されたものである。
 この『孔雀記』が日の目を見る経緯もまた運命的である。博士は、昭和十九年、『孔雀記』や『似鐵記』などの重要記録を戦禍から守るため、富山県氷見市の同学・吉川正文氏に保管を托された。そのことを著者が、贈られた吉川氏の『歌集・湖畔の祈り』(昭和63年刊)の中の詞書に見出だされたのも、事前に、博士直々のお許しによつて披見されてゐたからである。しかも吉川氏は、見事な影写本まで残されてゐた。これを入手された著者は、早速翌年の平成元年、「平泉澄博士と丙子の乱(二・二六事件)」の講話を日本学協会の研究会で発表される。その記録が『日本』誌上に掲載されたのは、平成十六年のことであるが、『文藝春秋』連載の、誤解と偏見に満ちた立花隆氏の「私の東大論」に触発されてのことだつた。
 立花氏の論文は『天皇と東大』と改題して刊行され、最近、文春文庫にも収められた。博士の和歌(道の奥深き雪みちおしひらき日の皇子は今のぼりますなり)を、保阪正康氏のミスに輪をかけ、秩父宮が皇位につくべく上京してきた、とする読みが如何に曲解であるかは、本書を見れば歴然とする。
 このほか本書には、昭和二十九年夏、千早存道館で講義された『正学大綱』の解説、昭和十五年の第二次近衛内閣成立に際してラジオ放送された「大命を拜して」の原案や青々塾の高弟に訓話されたときの草稿「似鐵記」等が収められ、そこに平泉史学が基調とする天皇親政の本質を明治天皇の御誓文と宸翰に仰ぎ、さらには吉田松陰の「国体観」を再評価し、最後に水戸の名越時正先輩が終戦前後に認められた遺文より平泉学派における師弟の契りを明示して結びの章とされた。
 いづれの論文も、平泉澄博士に親炙された著者ならではの、啻ならぬ内容に震撼させられる。きつと反響するところ多大であらう。まさに本書は「平泉史学の神髄」であり奥義である。是非、心ある人々の愛読を期待して止まない。 (日本学協会 月刊誌『日本』平成25年3月号)

▲ページの先頭へ

戀闕の友へ ― 呼び掛け        青々企画代表 田中 卓 (第1回)

 青々企画(有限会社)を家族の協力を得て神都伊勢の地に独力で創設したのは、私の皇學館大学大学院教授の定年退職(平成6年)の二年後、平成8年(1996)8月であるから、今年で17年を迎えることになるが、平成13年(2001)5月に脳梗塞に倒れたため、爾来12年間は左半身不自由な身で、実務に専念し得たのは僅か5年間であった。
 しかしこの苦難の短期間に、平泉澄先生の『少年日本史』英訳本をはじめ、自著の『祖国再建』まで計10冊(分冊を含む)の出版をしたのであるから、先ず素志は果たし得たかと満足している。
そして別に刊行されていた還暦記念の『田中卓著作集』12冊は、平成6年(1994)12月に完成祝賀会をしていただき、更に米寿記念で始まった『続・田中卓著作集』(共に国書刊行会出版)6巻も、今や4月中旬完結の見通しがついたので、国史学者としての晩年の責務は、学友と家族の協力で悔いなき終止符を打ったと自負している。


 しかし敗戦後の国家の大事は、容易に収まらない。むしろ益々深刻となっている。相次いで起こる天災地変と共に、占領憲法に根ざす国民精神の廃退、それにつけこむ近隣諸国の侵攻、過激に反応する攘夷論調の高揚。内外共に多事多難の到来に、国運は混迷の危機にある。就中、私の危惧するのは特に皇統の前途である。
 政党内閣が幾変遷しても、建国以来の天皇陛下をいただく国体の揺るがぬ限り、盤石の基礎の上に立つということは間違いない。
 ところが敗戦後のYP(ヤルタ・ポツダム)体制の結果、民主主義、自由主義の謳歌のもとに「天皇観」が動揺し、皇族・皇統についての危機が切迫してきた。


1)平成16年(2004)の小泉内閣当時には、皇室典範第1条に定める皇位継承の「男系の男子」は皇家の直系にお一人も存在されず、そのため「有識者会議」が開かれ、「女系女子」(直系では愛子内親王殿下お独り)をも容認しようとしたが、幸に秋篠宮悠仁親王殿下がお生まれになり、「男系男子」の主張が継続された。
 しかし、その他の皇族の御子様は女性の御方ばかりで、しかも結婚適齢期が迫り、このまま皇太子殿下が今上陛下の跡を継がれる頃には、皇族男子は悠仁親王殿下お独りになられ、しかも秋篠宮家を含めて宮家そのものが皆無となるという危殆に瀕することが判明した。


2)そこで、野田内閣当時に、せめて匡救の一策として「女性宮家」案が提起され、有識者会議のヒアリング委員12名の中では8対4で賛同を得たが、摸擬国民投票では男系固執派による暗躍が奏効して、反対票多く、政府自体が腰砕けとなって今日に至っている。


3)若しこのままならば、悠仁親王殿下に「万一」のことがあれば、これで皇統は一挙に廃絶するわけだ。「万一」などというと、男系派は「不敬」と詰(なじ)り、必ず神助によって、御安泰が続き、その後も男子が産まれると断言するが、一体、それを誰が保証するのか。一昨年の3.11天災の場合でも、千年に一度の「想定外」で責任逃れをするものがおった。天災の被害は復興可能だが、男系男子の御生誕は一旦絶えればそれで万事休す、である。しかも従来の御歴代天皇が男系男子で続いたといわれるが、その約半数は皇后の実子でなく、側室の庶子であられたのだ。


4)近くは明治天皇も大正天皇も側室の御生誕だが、「皇后養子」の形をとって天皇の「実子」とみなされたのである。そしてこの反時代的な側室制は、昭和天皇の御英断によって廃止され、今や一夫一婦の制度が確立している。


5)これで一婦の皇后に必ず男子が生まれる可能性を保証出来ると言えるのか。男系固執諸君よ!皇族には天佑神助で必ず男系男子の永続が実現できると断言できますか。
それならば現皇太子殿下には逆に天佑神助が欠けていたと言われるのか。敬神の念の厚い皇太子殿下に、そのようなことを想像するだに「不敬」であろう。生誕の男女の別に天佑神助などをもち出すのは非常識というものだ。男女の何れが生まれても、御誕生そのものが天佑神助のお蔭と感謝すべきではないか。


6)今こそ真に戀闕の士の真剣なご判断を求めたい。そもそも皇族には不測の御発病は絶無といえるのか。故高円宮殿下や故寛仁親王殿下の先例をどう考えるのか。更に不慮の事故は一般の遊覧旅行中でも起こる。まして為にするテロやゲリラは昨今、世界で横行しているのだ。真に皇統の永続を願うものは、この現実を踏まえて二重三重、いや九重の万全な安泰策・危機管理を心掛け、「想定外」のことも対策を講ずべきではあるまいか。

 これは佐久良東雄先生の天保15年の秋の作で、「攘夷」に関する長歌の反歌だが、「尊皇」についても同じことが言えるであろう。


 尚、このウェブページを開く直接の切っ掛けは、最新号『新潮45』(3月号・2月18日発売)の山折哲雄氏の『皇太子殿下、ご退位なさいませ』という論文の出現である。
 言葉遣いは丁寧だが内容は不遜無礼、しかも歴史認識を誤る点も少なくない。わが国の歴史でも「廃皇太子」の事例は5例ほどあるが、すべて皇太子殿下ご自身に重大な事故か不祥事があった場合で、それも天皇陛下の御裁決による。臣下が公開の雑誌で、妃殿下の御体調を理由に皇太子殿下に辞退を勧告するのは前代未聞の珍事といわねばならない。
 私は直ちに雑誌の編集兼発行者に対して質問状をメールで送り(2月20日)、その返信メールも受領(2月28日)した。これで『新潮45』掲載をめぐる私自身の個人的な疑惑点は一応の結着をみたが、しかしこれを放置すれば、今後どのような不敬な発言が他誌に続発するかも知れない。それを憂慮して、このウェブページを用意したのである。


 一方、学友の所功教授は山折論文発売後、『週刊文春』の記者から直ちに電話取材を受け、その発言メモを私の許にFAXで送ってくれられた。内容は実に情理を尽くした国民必読の文である。しかし『週刊文春』は次週号(2月28日発売)では、「皇太子『退位論』にご友人が怒りの猛反論」と題するスクープ記事を大々的に掲げ、編集上の関係で所教授の発言は載せられなかった。
 これについて私は、先ず惜しいと残念に思ったが、一方で皇太子殿下の「ご友人」の勇気ある正々堂々たるご発言の掲載を喜んだ。他の雑誌の評論家の多くが理非を明確にしない腰の引けた人気取り発言に終始するのに対し、流石に学習院大学は優れた人材を育てていると感心したのである。
 しかし所教授の発言を割愛するのは勿体ない。これを何らかの方法で早く公表し、私がその応援の役割を果たすつもりで、御本人の諒解を得て、今回の第1回に掲げることとしたのである。
 更に丁度、たまたま廣瀬重見氏の、拙著『平泉史学の神髄』への紹介文が雑誌『日本』3月号に掲載されたので、日本学協会と執筆者の諒解を得て併せて転載することとした。


 以上の次第で、私は急遽このウェブページを開くこととした。ともかくお互いに皇統の永続に心をくだきたいのである。「戀闕の友へ」と名付けたのは、青々企画の出版の最初が鳥巣通明先生の『戀闕』だからである。
 読者からの具体的な投稿の手順その他は追々発表するが、第1回は所功教授の貴重な一文と廣瀬重見氏の拙著に対する紹介文を特別寄稿として掲載した。これをご覧の各位、先ずメールで御所感をお寄せください。
 勿論、私見についても御意見いただくのが本来の趣旨ですが、私見については第2回以降も、具体的にその対策を述べますので、取りあえずは御希望でも御質問でも結構です。
 御投稿についての採否は御一任下さい。又個別の返信・対応をお約束するものではありません。あらかじめご了承ください。 (平成25年3月5日)

▲ページの先頭へ