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2011/08/09

父と教育 小和田恒 (3)

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父と教育 小和田恒 講演会(3)

5.教育は誰がどこでやるのか

 

   教育というものは、決して学校の専売特許ではないということであります。日本では子供の成績が悪いと学校が悪い、先生に責任があるということをよく言い出します。そういうことが全くないかどうかは個々の事情によって違うでしょう。しかし今日問題にされているような有名大学にどれだけ合格者を出したかというような受験成果という狭い了見の教育とは違った意味での教育、教え育むという意味での教育、学ぶということと思うということが車の両輪になった教育というものを考えるときに、この問題は学校だけの問題ではないということは皆さんにもすぐお分かりいただけると思います。こういう本質としての教育ということを考えるとき、私はまず大切なのは家庭だと思います。家庭の中においてそういう意味での教育ということが実践されているかどうかということであります。本質的な根源的な部分において教え育むということを親が子供に対して行っているかどうかということなのです。つまり、躾からはじまって家庭の雰囲気がそういうものを子供に身につけさせるようなことをやっているかどうかということなのです。さらには学ぶだけではなくて思うという習慣をつけさせるというようなことも学校だけでできることではありません。家庭教育という面で家庭というものは非常に重要な責任を持っているといえます。第二に大切なのは、当然のことながら学校であります。しかしさらにもう一つ重要なのは社会というものです。つまり、学ぶとか思うとかいうことは社会の中において人間が会得することです。単に学校に行っていればそういうものが身につくというわけではありません。学校ではたいへんな秀才だったけれども世の中に出たらただの人だという人が、世の中にはときどきいないわけではありません。それはこういう教育のあり方の問題と深く関係していると私は思うのです。この例はやはり家庭と学校と社会という三つの側面からなっている教育というものの本質について私たちがもっとよく考えてみる必要があるということを示しているのはないかと思います。

 

私から自分の父を教育者としてみたときに、やっぱり父のお蔭で良かったなと思うことがいくつもあります。

 

一つは人間というものの大切さというものを教えてくれたということであります。私の父が常々言っておりましたのは、「全人教育」ということでありました。「全人教育」というのは人間としての人格を陶冶するということであります。人間として立派な人格的な人間を作り上げるのが教育だということであります。家庭において父親と接する中で勉強せよということを言われたことはただの一度もありません。それだけでなく、私は私の父が高等学校長をしておりましたとき、私は四年間生徒として同じ学校におりましたけれども、父の口から「一に勉強、二に勉強、三四が無くて五に勉強」とかいうような訓辞をしたということは私の記憶には全くないのです。父は、確かに学問ということに対しては大変な敬意を持ち、学問の大切さということを子供たちに教えました。しかし、それはいわゆる「勉強」という言葉に表現されるような事ではなかったと思います。むしろ人間を一人の人間として、一個の人格としていかに完成させるかということが一番大切なことだということを折に触れて―必ずしもそういう具体的な言い方ではなかったにせよ―教えられました。そういう人間としての人格の形成、全人格的な人間の実現―いわゆる全人教育ということでありますが―ということが教育の本質だということを父が非常に大切に思っていたことを繰り返しておきたいと思います。

 

二番目にそのことと関連いたしますけれども、父からそれとなく、またときにははっきりした形で教えられたのは、教養の重要性ということであります。教養というのは、文化的な箔付けのような意味で使われる教養、知識をひけらかす博識という種類の教養ということではありません。人間としての教養のある人ということだといえるでしょう。それは具体的に言えば、文学に親しむこと、歴史に親しむこと、哲学に親しむことを通じて形成される「人間の深さ」ということであります。そのことの関連で言えば、父自身は高等師範学校という教育者という専門家を養成する学校の出身であったにもかかわらず、日本における「師範教育」というものの弊害ということを常に口癖のように言っておりました。師範教育というものが教師という、教育の技術を身につけるために作られた学校であるがために、その出身者には狭い意味での教育あるいは教授技術ということについては熱心であるけれども、もっと広い人間育成のための人格的なふれあいということについて、必ずしも十分でない人が多いということをよく聞かされました。全ての先生方がそうだとは申しませんけれども、そういう人が少なくない。若い生徒、潜在的な可能性を持った若い人からその能力を引き出すという点からみるとそういう型にはまった教育技術は決していいことではないというとを私の父はよく言っておりました。このことは、私が今日お話した「教育とは本来何であるのか」という問題に深く関わっているように思うのであります。

 

 

 

 

 

 

 

福島県立相馬高等学校(創立110周年記念誌:2009年(平成21年)1月)より一部要旨を抜粋、原文は同校ホームページをご覧ください。http://www.soma-h.fks.ed.jp/

 

 

 

小和田 恆(おわだ ひさし、1932年(昭和7年)918 - )は、日本の元外交官。国際司法裁判所所長。 外務事務次官、国連大使、早稲田大学大学院教授、財団法人日本国際問題研究所理事長などを歴任した。

 

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