父と教育 小和田恒 (2)
父と教育 小和田恒 講演会(2)
3. 志こそが道を開く
札幌農学校―今日の北海道大学ですが―に米国から招かれて来たウィリアム・クラークという先生が、学生に対して"Boys, be ambitious." と説いたという話は、皆さんがよくご存知になっていることだと思います。これはまさに「大志を抱け」という訳語に現れておりますように、「大きな志」ということを意味します。日本でよく言われるような「立身出世」ということではなくて、「自分はこういうことがしたい。それを成し遂げることが自分にとっての人生の意味であり、自分の生きがいである」という気持ちを持つことが「志を持つ」ということなのです。それを何としてもやり遂げようという気持ちを持っていた今野少年(生徒であった故今野源八郎東大教授)の志というもの、その志が教師であった私の父の心を打ち、それでは一緒になってやろう(受験勉強)という形をとったのです。そしてそれがその後の今野少年の人生の道を開くことになったというふうに私は思うのであります。
4. 教育の本質は何か
「教える」という概念について二つの別の言葉があります。一つは「教授」という言葉であります。もう一つは「教育」という言葉であります。教授というのは文字通り教え授けるということです。知識を授ける、知識を分かち合うというのが教授であります。他方、教育という言葉は単に教える、知識を伝達するということだけでなくて、育くむということがその中に含まれています。この育くむということが教育にとって非常に大事なことなのです。英語で教育ということに当たるのはエデュケーションという言葉です。人が本質的に自分の中に持っているものを中から外へ引き出してそれを育くむということなのです。それが"education" の語源だということができます。つまり日本語で教育というときも、英語でエデュケーションというときもその本質には共通なものがあるのです。それは中に潜在的に持っている能力というものを引き出すことであり、それを全人格的に発展させるのが教育というものの本質だということになります。
5. 「学ぶ」ことと「思う」こと
もう一つ申し上げたいのは「学ぶ」ということの意味です。今度は教育を受ける側から見た「学ぶ」ということと「思う」ということの違いについて申し上げたいのです。
論語の中に有名な言葉があります。それは、「学びて思わざれば、すなわち罔クラし、思いて学ばざれば則ち殆アヤウし」「学而不思則罔、思而不学則殆」という言葉です。その中に「学ぶ」という言葉と「思う」という言葉が対比的に使われています。「学ぶ」というのは何でしょうか。「学ぶ」という言葉は「まねる」ということから出ています。「まねび」という言葉があるようにまねをして習得をする、つまり見よう見真似でそのとおりに真似をしてそれを自分のものにするというのが「学ぶ」ということなのです。この「真似る」ということは実は非常に重要なことであって、人の真似をすることはくだらないことだと決めてかかってはいけません。知識を習得するというのはまさにそういう「学ぶ」ということに他ならないのです。他方、それに対して「思う」というのは、それとは違って、「自分で育てる」という心の世界に属することであります。そこで論語がいっているのは「学ぶ」ということと「思う」ということはいわば車の両輪であって、双方が学問をするうえで大切なのだ、その両方があってはじめて受ける側からみた教育というものが成立するのだということを説いているのです。さっき申し上げた論語の中の孔子の言葉にもう一度戻ってその事を考えて見ましょう。「学びて思わず」という状況であれば、つまり学んで習得をし、知識を頭の中に入れるだけでその知識について自分で考えること、それをどういうふうに自分のものにするのかということについて自分の頭を使って考えなければ、しっかりした本当のものは見えてこないということをいっているのです。他方「思いて学ばず」という状況ではどうでしょうか。考える上で見本となる材料である十分な知識を自分の頭の中に蓄積しないで、ただいろんなことを自分勝手に考えていろいろ独創的な発想をしたつもりでいても、その元になっている知識があやふやであれば、それは独りよがりになってしまいます。そして、これほど危険なことはないという状況、つまり「思いて学ばざれば則ち殆し」ということになります。私はこの言葉は大変至言であると思うのです。非常にすばらしいことを言ったものだというふうに思います。そして私は、「学ぶ」ということと「思う」ということを両立させるということこそ本当の教育というものの本質ではないかというふうに思うのであります。
そのことに関連して私は―一寸脱線になりますが―文部省―今は文部科学省と言うのでしょうか―が最近唱えている「ゆとりの教育」ということを思い出すのです。それは、今の子供たち、特に小学校・中学校・高等学校の生徒の皆さんは、知識を詰め込むことばかりに追われていて、自分でものを考えるゆとりがない、だからもっとゆとりのある教育が必要だという考え方です。その結果、今日「ゆとりの教育」ということが叫ばれ、小中学校の教科学習時間を減らしてもっと自由時間を与えるということが教育カリキュラムに組み込まれるようになりました。この考え方に私個人は批判的であります。考える努力をするかどうかというのは、本人の心の問題です。そういう、思う努力をする気持がなければ時間がいくらあったって何も思わないでしょう。むしろゆとりの時間を作った分だけ、学ぶことが少なくなってしまいます。学ぶことを頭の中にきちっと入れ込んだ上で、それに基づいて何を思うかというところが大事なのです。それは単に自由な時間を作れば思うということになるわけではないからです。人間というのは基本的には大変怠惰な動物です。これは、私自身を含めて人間というものについて一般論としていっているので、皆さん方がそうだと言っているわけではありません。しかし「思う」という精神の作業は考えなければならないという状況の中で、いわば強制させられて考えるのです。 勿論、「強制させられる」というのは比喩的な表現であって、「おまえ考えろ」といわれれば考えるという意味ではありません。そうではなくて、ある問題について考えるという問題に真剣に取り組まなければならない状況になって初めて人はものを「考える」のです。しかし、逆にそういうふうに考えなければならない状況におかれたときに、さあどう考えたらいいのかということについて考えるための材料が頭の中に入っていなければ、考える内容はあぶなっかしいことになります。これを料理にたとえていえば、わかり易いかもしれません。りっぱな材料が全部準備されているだけでは、十分ではありません。そこにほんとうの意味で料理の技というものが加わって初めて立派な料理ができるのです。しかし、技が大事だからといって材料はどうでもいいというわけにはいきません。料理の素材となる材料は学ぶということから手に入るのであります。しかし、素材を単に材料として集めただけではりっぱな料理はできません。それに対して「思う」という作業を加える、知的な作業を加えることによって初めてそこから本当の教育というものが生まれてくるのだと私は思うのであります。
福島県立相馬高等学校(創立110周年記念誌:2009年(平成21年)1月)より一部要旨を抜粋、原文は同校ホームページをご覧ください。http://www.soma-h.fks.ed.jp/
小和田 恆(おわだ ひさし、1932年(昭和7年)9月18日 - )は、日本の元外交官。国際司法裁判所所長。 外務事務次官、国連大使、早稲田大学大学院教授、財団法人日本国際問題研究所理事長などを歴任した。
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