父と教育 小和田恒 (1)
父と教育 小和田恒 講演会(1)
1.はじめに
時代の流れのなかで私の父の思い出というものを通じて見た当時の先生と生徒の関係についてお話したいと思うのです。「教育という事はいったいどういう事なのかという問題」を考えて見たいというのが私が今日お話ししたいことなのです。
2.
1868年に日本は大政奉還を実現して明治政府が成立した明治元年の1月には、鳥羽伏見の戦いというものが始まります。それは明治天皇を奉ずる官軍方と徳川慶喜が将軍職にあった江戸を中心とした幕府方との間で発生した日本の国内での一種の内戦でありました。この鳥羽伏見の戦いをきっかけとして戊辰戦争が起きることになります。
戊辰戦争というのはご存知のとおり、薩長を中心とする主としては西側の諸藩から成る朝廷を擁立する官軍派と、関東・東北にかけて、徳川幕府に忠誠を誓っていた諸藩との間で戦われた本格的な内戦であったということができます。その中で朝廷を擁立する薩長中心の勢力に対して、奥羽越列藩同盟というものが結ばれます。ここの相馬中村藩も、また、私の祖父が属しておりました新潟の村上藩というようなところもこれに属して戦ったのであります。その結果、相馬藩も村上藩も、最後は官軍に屈服して投降することになりました。
明治の新しい時代が始まった当時、日本の中で、高等教育というものはきわめて特別な人達にのみ開かれていた途でありました。旧制中学、今で言えば高等学校にあたるようなところに行くのも、ごく限られた人たちだけだったのです。そういう中で私の父は、新潟県立高田中学校を優等で卒業するわけであります。けれども、どうしても学問をさらに続けたいという志に駆られ、それを何とか実現したいという気持ちをおさえることができなかったと申します。薩長勢力に反抗して朝敵として扱われた旧村上藩出身の貧しい士族の子弟として母の手で育てられた父にとっては、とても旧制高校から大学に進学するような状況にはなかったのです。たまたま当時の明治政府は優秀な子弟を日本の将来のために育て、人材を育成するという教育の重要性ということを強く認識しておりました。そのために中でも今で言えば高校・大学という高等教育のレベルで将来の日本をになう人材の教育にあたる人たちを養成することの重要性が強く認識されました。そこで当時の明治政府は、東京と京都に帝国大学を創設するとともに、高等教育に当たるための人材を養成する学校を日本に二つ作りました。一つが東京高等師範学校(今日の筑波大学)であります。もう一つが広島につくられた広島高等師範学校(今日の広島大学)であります。この二つの学校は、フランスの英才教育の専門機関として知られる高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリユール)に範をとり、日本の将来を担う人材、日本の近代化を実現するために不可欠なエリートとなる人材を養成することが一番重要だという考えに立って、明治政府がそのために作った学校でありました。ここには全国各地から門地、貧富の如何を問わず、優秀な人材を集めることを目指したのです。それは将来の日本を背負って立つ人材の養成に当たる教育者を養成するという見地から学費は無料とし、国費で学問をさせてもらえるという画期的な制度でありました。このような日本を代表する第一級の学問の府として広島高等師範学校ができたのは、相馬中学校ができたわずか数年後、1902年のことです。
当時の広島高等師範学校は今お話したような背景でできた学校でありましたので、成績のいい卒業生には、求人申し込みが全国各地からあって、どこにでも行くことができたのだそうです。その中でそういう歴史的な因縁があってこの相馬の地を選んだということでした。他方当時の相馬中学も創立後そう日が経っていない時代のことですから、当時の校長先生はとにかくいい先生を集めて教育を充実させたいという熱意をもっておられ、破格の待遇で招いたということも、一つの背景としてあったようであります。
私の父が相馬中学校に参りましたのは21歳の時でありました。教育ということに強い使命感を持っており全身全霊をもって教育に打ち込んだということが言えるように思います。
もう一つもっと重要なことは、授業を通して教室で接するだけではなくて、放課後もわざわざ下宿にまで遊びに来て、一緒に授業の続きの話を打ち解けた雰囲気の中で議論したりするとか、あるいはさらにその後も一緒にご飯を食べたり、一緒にお風呂に行ったりするとかというような関係というものは、先生と生徒の双方にとって非常に貴重な教育の体験であったのではないかというふうに思うのです。
実は今日のような非常に整備された教育制度をもつ日本においては、なかなかそういう師弟の関係というものは望むことができないことだからです。しかし、私はそういう中で育まれた師弟の関係、先生と生徒の関係というものが非常に貴重な体験というものを先生であった私の父にも与え、また、教え子であった生徒の皆さんにも与えたのではないかということを非常に強く感じるのであります。
若干エピソード的なことを申し上げれば、例えば、相馬中学に限らず、なべてその頃から野球熱がおこり、中学野球というものが盛んだった時代のことで、父は、その野球部の野球部長というものをやらされたそうです。福島県大会で―決勝まで残ったのか、準決勝だったのか忘れましたが―校史に残るほどの成績を残したということは父の誇りとするところでありました。
あるいは、学校当局に不満がつのって、生徒が全員ストライキで講堂に立てこもったのだそうです。そこで、先生方はどうしたらいいかということで鳩首協議をしましたけれども、結論が出ません。そこで、一番若く、血気盛んだった私の父が単身講堂に乗り込み、「君たちは何をくだらんことをやっているんだ。不満があるのならば、ちゃんと話をすればよいことだ。言い分を聞こう。」ということを言ったのだそうです。そして最上級生の中から指導格の生徒何人かを連れ出し、話合いをしたということであります。その結果、ストライキが収まったというというような逸話もあったそうです。こういう話をお聞きになると、皆様がすぐ思い出すのは、夏目漱石の「坊ちゃん」でありましょう。私も父の話を聞いたときに思い出したのは、やはり「坊ちゃん」の話であります。時代的に申しますと「坊ちゃん」の時代はもうちょっと前のことでありますけれども、そういう雰囲気がまだ明治大正時代の日本の中学校には残っていたんだろうと思います。こういうことは、師弟の関係というものがそれだけ近く、師弟の間というものがそれだけ信頼関係に結ばれていたということを示すものではないかと私は考えるのです。しかし、実は本当の意味で父が現場の教師として直接個別的な形で生徒の皆さんと接触し、人間と人間という関係で教え教えられるという立場にあったのは、それほど長い期間ではないのであります。父は30歳で中学校の教頭に抜擢され、35歳で校長になりました。その後はずっと60歳近くまで旧制中学・高校で校長としての立場にありましたから、今申し上げたような意味で自ら直接個別的な形で生徒の皆さんと接触して人間的なふれあいをしたという経験から申しますと、相馬中学のこの四年間というのは父にとってもその後ほとんどなかった貴重な経験だったのです。それだけに深く思い出に残る時代であったと思います。
福島県立相馬高等学校(創立110周年記念誌:2009年(平成21年)1月)より一部要旨を抜粋、原文は同校ホームページをご覧ください。http://www.soma-h.fks.ed.jp/
小和田 恆(おわだ ひさし、1932年(昭和7年)9月18日 - )は、日本の元外交官。国際司法裁判所所長。 外務事務次官、国連大使、早稲田大学大学院教授、財団法人日本国際問題研究所理事長などを歴任した。
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