連載の前に(第二回)
日本人は、「終わった事をとやかく言うコト」を嫌う。が、そしてしばしば「事後検証」を欠く。例えば、「経済波及効果」はプロジェクト開始の根拠として引用されることが多いが、事後にその推測の成否を問われたケースにお目にかかったことがない。
「過ぎた事をとやかく言わない」のは、確かに我が国の美徳かもしれない。しかし、民間ビジネスの世界では「PDCAサイクルが必要だ」と言うのは常識の範疇。事後検証は不可欠なのだ。これをやらないと信用されないし、進化せず、結果としてビジネスでは確実に敗者となる。
ところが、地方自治体を含む公共事業体では、事情が異なるようだ。事後はできるだけ責任を曖昧にするのが官僚体質の悪い側面の一つだ。でたらめな利用者予測の元に、多くの公共工事が行われているのは既存事実として皆が知っている。さすがに国や自治体の財務状態が悪化した今日、かつてほどの出鱈目は横行してはいないだろうが。
いずれにせよ、事後検証は必要だ。特に失敗した折の事後検証は必要だ。失敗からは、むしろ成功よりも多くを学べるからだ。無論、負けた姿を直視するのは、誰もが嫌なのだ。「放っておいて欲しい」のは人情だろう。だが、それを敢えて乗り越えないと、進歩は無いのである。(余計なことだが、福島原発の後の「国会事故調査」メンバーのお一人から、調査結果が風化する危惧を聞いた。)
残念ながら、私達日本人は「のど元過ぎれば熱さを忘れる」傾向にある。「もういいじゃないか。終わったんだから」が主流であることは間違いない。それを知った上で、敢えて整理して残すのは、第一に「敗因の事後検証」は後に役立つからである。体験から学ぶことは、何よりも確実で有効な学びであり、現実的な「知」そのものだ。
選挙のマニュアルがあったなら、私のような者にはどれだけ助かったか、と今でも思う。(私のような)選挙の素人が出馬するとしたら、戦力を本来の戦いに集中させるために、「形式知化」できるものはできるだけマニュアル化を進めておくべきだと、(今となっては遅きに失したが、心底から)思う。細かいことだが、特に「演説」のマニュアルは不可欠だし、あれば本当に有効だ。私の場合、おそらくは1時間で済むはずが、「演説とは何か」を理解するのに1ヶ月を要したのだ!この時間的なロスは実にバカバカしいし、精神的にもかなり疲れる。「六十の手習い」の苦労を一番意識させられたのが、「演説」だった。(2013/07/12)
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