元慰安婦:金学順さんの証言
2007-09-09 19:58:21
カテゴリー: 歴史
(2)金学順さん=キーセン学校には行ったが、慰安婦に自分の意志でなった訳ではない
(金学順の体験)
出典:『慰安婦と戦場の性』秦郁彦、新潮社、1999年(p179〜180、体験談部分全文)
『金学順の申告(訴状から)
1923年中国東北(満州)の吉林省に生まれたが、生後まもなく父が死亡したので平壌に戻った。母は家政婦などをしていたが、貧困のため金学順は小学校を4年で中退、金泰元の養女となり14才から3年間キーセン(妓生)学校に通った。
1939年「金儲けが出来ると」説得され、1歳上のエミ子と共に中国に渡った。北京を経て鉄壁鎮という小集落で養父と別れて慰安所へ入れられ、日本軍兵士のために性サービスを強要された。軍医の検診があった。同じ年の秋、知り合った朝鮮人商人(趙元賛)に頼んで脱出し、各地を転々としたのち、上海で夫婦になった。
フランス租界で中国人相手の質屋をしながら生活、2人の子を得て終戦の翌年、韓国へ帰った。朝鮮戦争中に夫は事故死、子も病死し、韓国中を転々としながら酒、タバコも飲むような生活を送った。身寄りのない現在は政府から生活保護を受けている。
人生の不幸は軍隊慰安婦を強いられたことから始まった。日本政府は悪かったと認め謝罪すべきである。』
(秦郁彦の金学順の分析)
出典:『慰安婦と戦場の性』秦郁彦、新潮社、1999年(p180、秦郁彦の分析部分全文)
『表6-1は本人からのヒアリングを元に整理したものだから、多少の記憶違いや聞き違いがあるとしても重要なポイントでいくつかの差異があるのは問題だろう。
例えば再婚した実母が娘を40円で売った事実(Ad)は訴状にもBCにも出てこない。戦前の日本でも身売りされた娘は売春業者の養女という形式を踏む場合が多かったから、彼女の場合も典型的な身売りケースだったと思われる。その養父と共に中国へ行き、慰安婦になった事情もはっきりしないが、現地で転売されたのかもしれない。慰安所の輪郭も明確を欠くが軍医の検診があったこと、利用料金の話がAに出てくることから、ごくありふれた慰安所の一つだったのだろう。
Bだけに実父が日本軍に殺されたとか、中共軍や光復軍と関わりがあったかのような話が出てくるのもふしぎだ。有名になって来日したときの証言なので単なる慰安婦ではなく抗日家であったとPRしたかったのかもしれない。訴状だけが学順の生年を1923年としているのも気になる。韓国は戸籍制度が完備しており、沖縄で亡くなった元慰安婦の生涯を追跡調査した川田文子「赤瓦の家」(筑摩書房、1997年)には本人に代わって川田が本籍地の役場や近隣を訪ね、一族の消息を調べ上げる過程が記録されている。
4種類の情報源を比べると、本人の生年もあやふやな裁判所への訴状が、もっともお粗末という感じだが、全体を眺めて日本政府が責任をおい謝罪せねばならないところがどこなのか、首を傾げる人が多かろう。特に韓国で娼婦予備軍と見られているキーセン出身はまずいと思ったのか、最初の報道ではこの点を伏せていたらしい。』
(表6−1 金学順証言の異同)
出典:『慰安婦と戦場の性』秦郁彦、新潮社、1999年(p181)
A挺対協「証言強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(明石書店、1993年)
a生年:1924年、b父の死亡事情:事情は不明、c母の再婚:14歳の時に再婚(その後母と仲違い)、dキーセン:母が40円でキーセンに売った(母は自分を養女に出し40円を受け取ったと言っており、売ったとは言ってない又キーセン学校に2年以上通った)、e中国行きの事情:若すぎて朝鮮で営業許可が出ないため(養父は中国なら稼げるだろうと言った)、f慰安婦にされた事情:北京の食堂で日本将校にスパイと疑われ養父と別々に、そのままトラックで慰安所へ(養父は別の将校に連れていかれたと言っており、別れたとは言ってない)、g脱走と結婚:4ヶ月後に朝鮮人アヘン商人の手引きで脱走(アヘンの仲介をしていたらしいとしか言っていない)、42年上海で金貸し(質屋をして金も貸した)、h現在の心境:略
B解放出版社編「金学順さんの証言」
a生年:Aに同じ、b父の死亡事情:独立運動家で日本軍に撃たれ死亡、c母の再婚:母の再婚を嫌い家出、dキーセン:養女としてキーセン修行3年、e中国行きの事情:お金を稼ぐため養父に連れられ、f慰安婦にされた事情:Aに同じ、g脱走と結婚:Aとほぼ同じ、h現在の心境:略
C伊藤孝司編「証言従軍慰安婦・女子勤労挺身隊」
a生年:1924年、b父の死亡事情:(独立運動をしていたが)死因は知らない、c母の再婚:Bに同じ、dキーセン:平壌のキーセン検番学校に3年通う、e中国行きの事情:養父が金儲けをしようと中国へ同行、f慰安婦にされた事情:養父を脅かして日本兵が慰安所へ連行、g脱走と結婚:Aに同じ、h現在の心境:略
なお()はブログ主がそれぞれの出典にあたって書いてある事を確認し、秦の本では漏れていたので注記した。
「キーセン学校には行ったが、慰安婦に自分の意志でなった訳ではない」
確かに、そうです。ハンギョレ新聞には、「生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌のあるキーセン検番に売られていった。」とあります。
親父が娘を40円で貰い受け妓生学校に通わせる。
養父とは普通に考えて置屋の親父ですよね?
当時の日本では人身売買は禁止されていましたから、
前借という形ではありますが、これは彼女の借金という形になります。
借金であれば債権譲渡も自由ですから、置屋が他の置屋や女衒に売ることもできるわけです。
実際は女性を売買していたようなもんですね。
当時は公娼制度もあり日本本土内でも貧しい家の娘は女衒・置屋等に売られていました。
また兵隊さんのお役にと朝鮮・満州に娼婦として渡る例も珍しくなかった。
結局、娼婦は売り物買い物。自分が「私は一般人相手の妓生に成りたかったんだ」と言っても、
日本兵の為の慰安所経営者に買われてしまえば、そこでの業務に従事しなければならなくなる。
やりたくないと言えば、経営者や関係者に前借返済を迫られるかリンチされることになる。
最初の前借が40円だったとしても、妓生学校での経費、稼がず養育された期間の経費が足され、
おまけに転売されていれば、とても返せる額ではなくなっているはずです。
ちなみにその慰安所経営者も置屋も女衒も朝鮮人や中国人がけっこう多かったようです。
皆、貧しくてどんどん身売り(前借)がある時代に強制的に慰安婦として狩る必要はなかったわけです。
兵隊に監視された、軍医がどうの、という話も業者に賄賂をもらい頼まれた例はあるかもしれませんが、
基本的には一番隙のある格好でいる日本兵を守り、階級で行ける時間の規律もあったので、
それを守らせる為、性病になり兵力が落ちないようにする為であり
女性が逃げないように番をしていたわけではありません。
もしかしたら日本の遊郭のように亡八・やくざのような
監視人・リンチ担当がいてもおかしくないですが、
それは軍とは関係なく慰安所経営者が雇うものです。
一般人が着物かモンペの戦時中、業務時間外に洒落た洋装で数人で外出する姿も目撃されています。
仕事中以外は自由があった証拠ではないでしょうか?
この方は始め、慰安所で働いた預金の支払い訴訟をされた方ですよ!