「現代の子ども・若者が抱える<優しい絆>に迫る」 土井隆義氏

「現代の子ども・若者が抱える<優しい絆>に迫る」 

対談ゲスト:土井隆義さん(社会学者・筑波大学教授)

「絆」は、一般に肯定的な意味合いで使われますが、現代の子どもや若者にとっては、ときに息苦しくさせる言葉でもあります。実際、「KY」「コミュ障」といったスラングやレッテルが若者の間で広まっており、そうした「地雷」を踏まないように気をつけなければ仲間はずれにされる―。そう考えている人も少なくないのではないでしょうか。今回は、そうした「空気を読む世代」が営むつながりのありようを分析した、社会学者である土井隆義さんにお話を伺いました。学生も積極的に意見を交流させる「ゼミ型」の記事の構成になっています。

対談に参加した学生:安蒜さつき(早稲田大学)・飯田麻友(早稲田大学)・内山裕介(慶應義塾大学)・大内優汰(早稲田大学)・おはらかずき(早稲田大学)・下村太郎(早稲田大学)・友田順也(立教大学)・松井世子(早稲田大学)・涌井涼二(早稲田大学)

 

日本の若者のコミュニケーション能力は低下しているのか

飯田: どうぞ宜しくお願いします。私は海外での留学経験があるので、海外から戻ってきたときに「空気を読む」という言葉を理解できず、日本には独特の人間関係の営み方があることを実感しました。例えば、「コミュ障=コミュニケーション障害」という言葉を自分に対して何の恥じらいもなく使う友人がいることに驚きました。このように、「コミュ障」であることを自分に当てはめて他者と付き合う若者に関して、土井先生はどうお考えでしょうか。 

doi-taidan2土井: 「コミュニケーション障害」という言葉を自分に当てはめて使っているのは、相手とフラットな関係を結びたいからで、自己肯定感が低いからではないでしょう。むしろ、「自分が優れているわけではないよ」という相手への意思表示だと思います。例えば、異文化の人同士で、食事中にテーブルの下に手を置かないでいることで、自分が拳銃を持っていない丸腰だということを相手に示すことがあります。これは相手と自分の価値観が違って、お互いを理解し合えない前提をもちつつ、お互いの敵意を取り除くためにやっている行為です。それと同じように、今の若者たちは「私は“コミュ障”だよね」といって相手とフラットな関係をうまく結んでいるのだと思います。 

飯田: たしかに、日本は人間関係に「フラット化」や「同質性」を望む風土がありますよね。 

内山: 必ずしも同質性を求めることは悪いことではないと思います。たしかに、同質性のみを求めるのは土井先生の著書に出てくる「友達地獄」のような息苦しさにつながるから良くないことだけれど、同質性のそれ自体は深刻な問題ではないと思います。 

土井: 今の日本の若者に見られる対人関係の営み方は、ある意味で、異文化コミュニケーションが進んだ結果でしょう。「島宇宙化」している人同士が、異文化の中で付き合っていかなければならないから、コミュニケーションの術(すべ)やテクニックが高度化し、洗練されてきているのだと思います。 

飯田: けれども今、「コミュニケーション能力が低い」と言われているのはなぜでしょうか。 

土井: そう言われる要因には二面性があります。ひとつは、みんなが求めるコミュニケーションの期待値が高まったために、相対的に低く見える人が多くなったということです。もうひとつは、海外との比較で、「日本人は異質な人と付き合うのが苦手だ」と言われる側面があります。 

飯田: 他方で、学校のクラスでは「カースト化」がすすみ、グループを作って内輪の人だけと付き合うことがよくみられますが、それも日本の文化的特質が影響しているのでしょうか。 

土井: それもあると思いますが、もうひとつ挙げられるのは、他者とコミュニケーションするときの基盤となるもののひとつに、「自己承認」という要素があるからでしょう。コミュニケーションの相手には自己承認を得られやすい安全パイの人間を求めようとするから、価値観の似た人と付き合うようになるのです。 

飯田: 「自己承認」や「自己肯定感」は人間にどうしても必要なものなのでしょうか。

土井: 基本的に、人間は本能として自己承認を求める生き物だと思います。善悪が多様化して、信念や信条をもてなくなってきた時代ですから、他者から評価を得ることによって自己肯定感を得ようとするのだと思います。 

日本の若者は人間関係をどう結ぶのか

飯田: 今の若者は「広く浅く」友達と付き合うより、「狭く深く」人と付き合うのが好きな傾向にありませんか。 

安蒜: 「狭く深っぽく」ではないでしょうか。 

松井: 私は接しているコミュニティごとに付き合い方や求めるものは異なる気がします。 

内山: でも、所属するグループによって、付き合い方や自分の役割が変わってくるのは普通ではないでしょうか。 

土井: 所属先によって他者との付き合い方を変えられるようになったのは、社会が流動化して複数のコミュニティに所属しやすくなってきたからでしょうね。 

飯田: 他方で、若者はメールに絵文字や顔文字を使うことが多いですよね。私も気を遣って文字だけでは伝えられない微妙なニュアンスを絵文字で伝えようと努力しているときがあります。このように日本の若者がメールの絵文字にこだわってしまう現象は、なぜなのでしょうか。 

土井: 日本は「付け加えて伝える」ことを重視する文化だからでしょう。「のし袋」を渡す感覚と同じで、「社交することに意味がある」と日本人は考えます。アメリカの場合は、「省略していかに効率よく伝えたいメッセージを伝えるか」を重視するため、伝えたいことを省略化していって、少ない文字で相手に伝えようとしますが、日本の場合は、メールにデコレーションをつけないと相手に失礼だと思われてしまうことがあるのは、伝えるメッセージの中身ではなく、交換する行為に意味があると考えているからでしょう。さっきの文脈でいうと、つながっていないと安心できない、つまり、伝えるべきメッセージがなくてもメールを送り合っていないと安心できないから、日本人は「メールを送って返事が来る」ことに意味を置いているのだと思います。 

涌井: 用件だけだと、自分のキャラをだせないから、メールで個性をだそうとする面もあると思いますね。 

土井: 本当に用件があるときは電話しますよね。

「キャラ」の使い分けについて

doi-taidan3飯田: ところで、みなさんは「キャラ」を持っていてそれを使い分けたりしますか。 

松井; みんなもっていると思います。 

小原: 「キャラ」というのは、仕事場や家庭での振る舞いとは違う位置づけのことですよね。だとすれば、私も年上の人に合わせて使うキャラみたいなものはもっています。ただ、年齢が上がるとともに変わるので、キャラは流動的だと思います。 

土井: 仮面と「キャラ」は違います。社会的な役割と「キャラ」も違います。社会的な役割というのは、組織の構造の中にあってそれを自分が演じるものです。つまり、構造化されているものが役割です。仮面というのは、自分とは別のものをかぶって自分自身を偽ることをいいます。しかし、「キャラ」は、フラットな人間関係の中で自分の居場所や立ち位置を守るための振る舞いであって、自分の中にある特徴的な要素をデフォルメ化・単純化して示したものです。「キャラ」を自分の一部だと思っているのが、仮面とは異なる点です。 

飯田: そうした「キャラ」というのは自ら出していくものなのでしょうか。 

内山: 相互作用の中から生まれていくと思います。

小原: 友人の一人が「俺は“静かなキャラ”でいく!」と言っていたのを思い出して、そういった「キャラづくり宣言」に違和感を覚えます。わざわざそれを言う必要はあるのでしょうか。 

下村: それはさっきの「コミュ障」の話と同じで、「キャラ宣言」も自分と相手の関係をフラット化してネタ的なコミュニケーションをとっているのではないでしょうか。 

土井: つまりお互いに「キャラ」を提示し合っていた方が、コミュニケーションがスムーズにいくからでしょう。「こういうキャラなのだから、こういう振る舞いをすれば、こういう反応が返ってくる」といった予定調和な関係をつくらないと、価値が多様化している現代では相手との関係が壊れるリスクが高いですよね。「キャラの提示」は、リスク低減の一つのテクニックだと思います。

飯田: ただ、そういう予定調和の関係は、寂しいかなとも思いますね。 

「いじめ」について

飯田: 「いじめ問題」についてお伺いしたいと思います。「現代のいじめ」は、さきほどの「予定調和の人間関係」をしていく中で歪みを発散するものがなくなって、グループの内部で流動的にいじめられる被害者が変わっていくことが特徴なのでしょうか。 

土井: そうだと思います。私たちの頃は、固定的でした。例えば、正当な根拠ではないけれども、「在日」のようなネガティブな属性という何かしらのいじめられる理由があって、いじめが起こっていました。しかし、今のいじめは根拠がないのにいじめられるし、したがって、いじめ、いじめられの関係が流動的になっています。要するに、お互いに目を向け合い続けるのはしんどいから、その眼差しを向けるターゲットを誰かに絞って、相互監視の状態にある重苦しさを和らげようとしているのでしょう。でも、いじめの対象に客観的な根拠はないから、そのターゲットは次から次へと回っていかざるをえないのですね。 

飯田: いじめは、長い間問題とされてきていることですが、土井先生はいじめを解決する有効な手段は何だとお考えでしょうか。

土井: これをやれば有効という即決的なものはないでしょう。ただ、クラスのあり方を制度的に変えていくのは一つの手段だと思います。目的を共有しえない人たちが半ば強制的に一緒に居させられるのが問題であるわけですから、例えば「ホームベース制(ホームルームだけ一緒)」を取り入れるということも有効であるかもしれません。今のような囲い込むクラスのあり方は変えていく必要があると思います。 

飯田: 即効性はないかもしれないけれど、制度としてのクラスのあり方を変えていくということですね。 

「少年非行」について

飯田: 一方で、土井先生は非行の研究をされていますよね。最近の非行少年・非行少女のありようはどう変わってきているのでしょうか。 

土井: 基本的な事実を押さえておくと、人口比率からみれば、少年非行・少年犯罪は減ってきています。なぜかというと、リスクが高いからです。つまり、希望があった時代は、希望があるのに希望が妨げられると不満を爆発させたくなるから、非行に走ったわけです。しかし、今は希望を持てず、むしろ不安であるわけですよね。不満ではなく不安を持っているわけだから、そのときに逸脱行動をやるというのはリスクが高すぎるのです。 

内山: 私は、その人が自分の個性をみんなにアピールしたいと思っているから非行をするのだと思います。学校で自分の自尊心をアピールできなかった人が、非行に走るのかなと思います。だから、私は学校で子どもたちに「格好良いこと」をみんなで認め合える現場を作れたらと思っています。 

土井: 昔は不良的な振る舞いが自尊心になっていたけど、今は必ずしもそうではないですよね。 

内山: 私の中学では不良的な振る舞いが賞賛されていた気がします。 

土井: 大人の価値観や世界に対して反発を持っている人にとって、それを体現してくれる人は格好良いと思えるのでしょう。でも、大人や学校の先生が敵ではなくなり、自分のことをよく分かってくれていると感じるようになるようになると、「不良なんて何やってるの?」と見えてしまうのです。非行文化は学校文化の裏返しで対抗文化であるわけですから、学校の先生から褒められる行為をすれば、非行仲間からは蔑まれるわけですし、学校の先生を怒らせる行為をすれば、非行仲間からは称賛されます。しかし、カウンターすべきものが消えていくと、非行文化は敵がいないからは弱まって消えていきます。 

飯田: たしかに、私の学校にも非行に走る生徒はいましたが、それに対する友達の反応は「興味ない」と冷めていた感じでした。 

土井: そもそも、みなさんがイメージする不良と、私がイメージする不良は違うようですね。皆さんがイメージする不良は「小粒」な気がします。80年代のころは、授業中でも学校の廊下をバイクで乗り回して自己顕示する生徒がいて、いわゆる「スクールウォーズ」の世界でした。今はそういう生徒はいませんよね。 

飯田: 私の周りでも、先生に理不尽なことで呼び出された生徒が大声を出して反抗したということはありましたが、そういう子も普段から暴れるようなことはなかったですね。 

安蒜: そうですね。全面的に反抗してやろうというのではなく、逸脱的な行動がバレるかバレないかというギリギリのスリルを楽しむ程度の「小粒」な不良が圧倒的多数を占めていますよね。 

土井: それは、非行のサインを出しづらくなってきた裏返しである気がしますね。今は「やんちゃ」をする余裕がなくなってきたということでしょう。昔、山を登っていた頃というのは、そこからこぼれても、回り道をして別の方法で登っていけたのですが、今は皆がすでに頂上にいて、そこからこぼれることを気にしているから、非行をすると「もうそこには戻れない」と考えてしまうのでしょう。つまり、登っているときに遅れても、「追いつこう」と思えるのですが、皆が頂上に立っているときには「そこから落ちるともう一度登るのは難しい」と考えてしまうのです。 

学級集団の意義について

飯田: ここまでで何か質問はありますか。 

内山: 学校のクラスの役割について、ひとつお伺いしたいことがあります。会社のような組織であれば、みんなでヴィジョンや目標を設定して一体感を高めていくことは構成員の利益につながるので、意義のあることだと思いますが、学級やクラスの場合は、大人たちの「授業運営の効率化」という意図があって構成された集団だから、必ずしも子どもたちの主体的な成長につながらない気がします。むしろ、子どもたちは「遊び」や「悪ふざけ」のような、「勉強してほしい」という教員の思惑とは別の方向で一体感を確保しようとして、結局は学級やクラスのもつ意味はなくなるのでは、と思います。土井先生は、こうした学校のクラス制度の意義についてはどうお考えですか。 

doi-taidan4土井: 昔に比べて、学級やクラスのもつ意味合いは変わってきています。共通の目標もなく、集団の中で役目を振られていない、ただ雑多に集まっている集団がクラスです。かつてはなぜクラスがうまく機能していたのかというと、勉強の占めるウェートが高かったからです。勉強しなければならないプレッシャーがあったから、クラスの人間関係は二次的なものになります。あるいは、部活のような別の関心の対象があれば、相対的に人間関係に対する関心のウェートは下がります。しかし今の場合は、とくに中学校における生徒の勉強への関心のウェートは下がってきていますから、そうなると、クラスの人間関係自体が目的になり、周りにいる仲間との人間関係への関心が肥大化し、それでもクラスには居なければならないので、さらに人間関係がしんどくなるのです。 

内山: たしかに、勉強することだけが目的である予備校では、人間関係はあまり気になりませんね。 

異質な他者とつながる人間関係は幸せなのか

内山: そもそも、学校では異質な人間と関わる機会が少ないですよね。年齢が同じ、または近い人たちだけで集まっているだけだから、土井先生が著書でも書かれていた「内閉的個性志向」の子どもが多くなるのだと考えています。非行や不良的振る舞いも、そうして「自分には個性があるのだ」と自分を追い込んでしまった結果、生まれるものだと思います。土井先生は、異質な他者と出会う機会を増やす学校教育は必要だとお考えですか。 

土井: 必要だと思いますが、実際にはなかなか難しいでしょう。 

飯田: 必要だけれど、子どもは内輪で固まって自分の身を守っている傾向があるから、大人が同質性を解体するように仕向けても、すぐ元に戻ってしまうのではないでしょうか。 

下村: 狭いコミュニティの中でその人が幸せなら、それでも良いのではないでしょうか。実際、私は『絶望の国の幸福な若者たち』(2011年 古市憲寿著・講談社)という本を読んで、「自分の周りの人達だけで楽しくコミュニケーションをとれていれば良い」という風潮があると感じました。なぜ異質な他者と交わらなければいけないのでしょうか。 

内山: 自分自身を交換可能な存在だと考えてしまうからです。「自分は替えが利く存在」だと思うと、自己肯定感をもてなくなって孤独を感じるようになります。その中には、他者からの承認を得ようと非行に走ってしまう人も現れると思います。 

安蒜: 内山くんが目指しているのは「昭和的な人間像」なのかなと思います。内山くんはアイデンティティや個性の確立を自己肯定感につながるものと考え重視していますが、現在ではアイデンティティや個性を持たずともコミュニケーションを通じて幸せな心地でいられる人、つまりそこで自己肯定感を得る人も、存在するのではないでしょうか。先ほどの下村くんの指摘の通りだと思います。ただ、コミュニケーションは大変流動的なものなので、その自己肯定感には不安定さがつきまとうでしょう。それで実際、自己肯定感を得るためのコミュニケーションを円滑に行えるよう、お互いに「キャラ設定」し合って、「狭く深っぽい」人間関係を演出しているのが現状だと思います。 

内山: でも、自分の存在や役割が他者から承認されて、他人とつながるのが理想だと思います。 

土井: 昔から言われている「人間的なつながり」を知っている者からすれば、「キャラ」でつながる関係を幸せに思えないだけであるので、浅いつながりだけで満足している人にどんなに「深い絆の幸せ」を訴えかけても、その良さは伝わりづらいでしょう。それに当事者たちは、別に「浅いつながり」とは思っていないのかもしれませんね。 

教師と児童・生徒の関係性について

doi-taidan5内山: 教師と児童・生徒の関係についてお伺いしたいことがあります。土井先生は、教師と児童・生徒の関係は、同じ人間として対等な関係であるべきなのでしょうか。それとも「あるべき人間像」を上から児童生徒に教え込むべきなのでしょうか。 

土井: 教師は教師としての役割を演じきらないといけないと思います。 

内山: よく教師と子どもの関係がフラット化して、子どもが教師から学ぶ姿勢が失われていると言われていますよね。 

土井: 教育はある意味で暴力的なところがありますから、否応なく善悪を子どもに押し付けてしまいがちな側面に関しては、教師は自覚的である必要があります。しかし、先ほどの「いじめ」の話題とも関連しますが、教師が壁のようで煙たい存在であるときには、子どもにとって教師は共通の敵になっていましたが、教師が生徒の側に下りてきてしまうと、敵に向けるまなざしの矛先が教師ではなくなるため、いじめるターゲットを生徒同士で探すようになってしまいます。 

飯田: では、教師は生徒にとって煙たい役割を演じ切る覚悟がないとダメということですね。 

土井: ただ、教師が煙たい存在でいられたのは、教師が地域や親から尊敬される対象であったからです。そういう意味で、かつては教師も自己肯定感をもてていました。しかし、今は教師だから尊敬するべきだと思う人は少なくなり、教師が自己肯定感を持ちづらくなってきたわけですし、親と子どもがグルになって教師に立ち向かってくることもあります。そうなると、教師は生徒の機嫌を取って、「良い先生だよね」と言ってもらうことで自己肯定感を得ないと、自分の不安を安定化させられなくなってきた背景が要因としてあると思います。

“絆”の行方~なぜ人は他者とつながろうとするのか

下村: 昨年の震災以降、「絆」という言葉がさまざまなメディアで盛んに叫ばれて、身近な人間とのつながりを見直す機運が高まりました。これから時間がたっていくにつれて、こうした「絆」を大切にしようとする風潮はどうなると思いますか。 

土井: 一時的な現象かもしれませんが、たとえ時間が経っていっても、それほど「絆」の大切さは薄れていかないと思います。たとえば、震災以前から海外へボランティアに行こうとする若者はいましたよね。ボランティアするということは、なにかしらの欲求をもっているからだと思います。 

下村: それは「他者からの自己承認欲求」のことでしょうか。 

土井: 押しなべて見れば、そういうことでしょう。他者から感謝されることで、自分としてのアイデンティティを獲得したいという気持ちを持っているのだと思います。 

下村: NPO団体が増えていることからも、最近は他者に貢献したいと思う人が増えているような気がします。これは他者に手を差し伸べて感謝されることで自己肯定感を得たい若者が増えているからなのでしょうか。 

涌井: それもあるし、ボランティアに行ったことで周りの人からの自分の評価が高くなりますよね。 

doi-taidan5土井: 他者からの評価と自己承認は、二重の評価構造になっています。つまり、他者から評価されることが自己承認であるのと同時に、自分が多くの他者から評価されている存在だということを他者に知らしめることも自己承認になるということです。たとえば、ツイッターでは、多くのフォロワーを得ることが自己承認になりますが、同時に、自分は多くのフォロワーがいる存在だということを他者に見られていることも自己承認につながりますよね。すなわち、自分が承認されているということを承認されているということです。 

飯田: 今SNS(Social Networking Service)が爆発的に浸透していますが、私の周りの友だちの中にはやらない人もいて、やらない理由に「友達の数がばれるのが嫌だから」と言っていたのを思い出しました。やっている人でも、そんなに仲が良いわけではないのに、ネット上では友達になっているということもありましたね。他にも、皆がfacebookSNSのひとつ)にハマる理由のひとつに「レスポンス」の存在があると思います。自分のつぶやきなどに友達に「いいね!」と反応してもらうことで、自分は多くの人と関わりを持っているのだと他者にアピールしたい気持ちがあるのかなと思いました。 

土井: それは結局、「いいね!」と言ってもらう数をその人の人間としての価値だと思い込んで、その人がどれだけの人間関係をもっているかで人間の価値が決まっていくと考えているからでしょう。昔は人間関係の数に差はそんなにありませんでした。しかし、制度の枠組みが緩んできてしまうと、個人によって人間関係に差が生まれます。つまり、規制緩和とは経済だけではなく、人間関係も含まれているのです。たとえば、クラスにいてもクラスメートだからと言って友達でなければならない規範は緩み、付き合いたい人だけと付き合ってもよいと感じるようになります。制度によって人間関係に縛られないということは、裏を返せば「制度が人間関係を保障してくれない」ということです。そうなると、個人の能力で人間関係をたくさん持てる人とそうでない人で格差が生まれます。貧富の差と同じで、格差化してくるとそれが人間としての価値を測る基準として使われるようになるのです。 

飯田: にもかかわらず、世間では個人のコミュニケーション能力の低下という話になってきますよね。 

土井: 「コミュニケーション能力があるから、友達関係をたくさんもっている」と言われますが、必ずしもそうではありません。人間関係は偶然に決まっていく部分が多くあるのに、コミュニケーション能力の有無が人間関係の多寡だと思い込んでしまっている人が多いですね。 

飯田: つまり、「キャラ」を巧みに使い分ける人が、コミュニケーション能力が高いことになりますね。

土井: 「キャラ」は人間関係のジグソーパズルみたいなものです。全体の予定調和の人間関係の構図があって、自分のキャラというピースはどこに当てはまるのかなと考えるわけです。ですから、全体の構図の中にはまった自分のポジションを守るためにキャラがあるといえます。それに対して、個性的にすぎる個性というピースはパズルにはまらず、自分の居場所がなくなってしまいます。実際、自分らしさを強く求める「内閉的個性志向」の子どもの犯罪率は、2000年前後をピークに減少してきています。つまり、最近は「さりげない個性」でないと安全ではないのです。 

一同: なるほど!

土井先生から教員へのメッセージ

友田: 社会学への思い入れが強いひとりの学生として、土井先生にどうしてもお伺いしたいことがあります。私たちROJEは「教育のベストプラクティスを創造・発掘・発信する」ことをコンセプトに掲げて、「学力をはじめとする子どもたちの成長のために教育現場をどう良くしていくか」を念頭に、一人ひとりが日々活動している団体です。土井先生のご専門である社会学という領域は、量的・質的調査をもとに事実を正確に把握して鋭い分析をするという意味において、人間社会にとって必要不可欠な学問分野だと思います。ただ、日々現場で子どもたちのために苦労し、奮闘している教員にとっては、社会学者の鋭い分析を知っていても、なかなか実践に生かすことは難しいと思います。こうした理論と実践の乖離の課題がある中で、土井先生から学校現場の教員に対して送りたい言葉は、どのようなことでしょうか。 

土井: 「子どもを安全圏に囲い込み過ぎない」ということですね。子どもが自己肯定感を得るのに一番手っ取り早い方法は、子どもに誰かから必要とされているという実感を与えることです。しかし、大人が子どもを囲い込んで保護している限り、子どもは様々な他者から必要とされている実感はなかなか持てないものです。ですから、安全圏そのものを一度相対化してみて大人が子どもをそこから出してやって、子どもが他者の役に立ったという経験を得てもらうことが大切です。もちろん、子どもは未熟なので失敗もします。そのときに、失敗の責任を引き受けるのが教員であり、大人の役割だと思います。失敗しなければ成長しないわけですから、失敗をしないように子どもを守るのが教員の役割なのではなく、失敗を恐れずに子どもになにかチャレンジさせてあげて、もし失敗したら教員がその責任をとることが重要な役割です。そのためにも、教員のありかたを社会の側がもっと受け入れていかなければなりません。今は「教員が子どもに失敗しないように振る舞わないといけない」という社会のプレッシャーが強すぎます。もちろんそういう意味で、教員は苦しい存在だとわかっていますが、「子どもが枠組みから外れるのを恐れるな」ということを現場の先生にお伝えしたいです。 

土井先生からホームページの読者へのメッセージ

友田: 最後に記事を読んでいる方へのメッセージをお願いします。 

土井: 「自分の立ち位置や境遇を相対化して見てみる」ということです。自分が生きている世界を別人になったつもりで眺めてみると、自分という主体は、自分が思い込んでいるキャラよりも、もっとはるかに多元的な存在であることに気づくでしょう。また、当たり前と思っていた周囲の人間関係にも、まったく意外な側面を発見できるでしょう。その経験こそ、「異質な自分」や「異質な他者」に触れる第一歩であり、そこから人生の幅も広がっていくのではないでしょうか。

構成・デザイン:友田順也

取材は2012年2月7日。筑波大学にて。

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doi-1土井隆義(どい・たかよし)

1960年、山口県生まれ。
大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程中退。
現在、筑波大学人文社会系教授。
社会学を専攻。博士(人間科学)。
著書に、
『少年犯罪〈減少〉のパラドクス』(岩波書店)
『人間失格?』(日本図書センター)
『キャラ化する/される子どもたち』(岩波ブックレット)
『友だち地獄』(ちくま新書)
『「個性」を煽られる子どもたち』(岩波ブックレット)
などがある。