2013-08-12 18:56:00

茜雲 -あかねぐも-

テーマ:ブログ







“わが娘の遺体を探し求め、やっとそれらしい真っ黒な両手両足と、頭部の欠損した遺体が、愛するわが子と認められることになりました。あまりの変わり果てた娘の姿に一気に悲しみが胸にこみ上げました。こんな悲惨な惨い姿になってしまったとは…。”





ある飛行機事故で愛する娘を失った遺族の方が寄せた手記の一文です。










僕が生まれた1985年8月12日


乗員乗客524名を乗せた羽田発大阪行き日本航空123便のジャンボジェット機が、群馬県上野村の御巣鷹山に墜落・炎上し


4名の方が奇跡的に生存・救出されたものの520名もの尊い命が一瞬にして奪われました。




























日航ジャンボ機墜落事故


単独機による世界最大にして最悪の航空機事故から今日で28年目の夏を迎えました。







事故当時、僕はまだ生後6ヵ月。リアルタイムでの記憶はありません。


しかし、僕が大学3年生だった2005年に事故から20年の節目としてテレビで放送された特集番組を目にした事で興味を持ち、それをきっかけに事故にまつわる様々な事を僕なりに調べた事がありました。










僕のブログを見てくれている方の中には


この事故を知らない方が沢山いらっしゃると思います。もしくは当時まだ生まれていなかった方もいらっしゃるでしょう。


今日は特にそんな方々にこの事故に触れて頂き、考えてもらいたい事があります。










“命”というものを




そして




“家族”というものを…。

























1985年8月12日、18時12分


まったくもって今日のように猛烈な夏の暑さを感じる東京、羽田。





夕刻になろうというのにそのうだるような暑さは和らぐ事なく、地表の熱気でゆらゆらと揺れながら向こうに見える夏の夕日が傾きはじめようとしていた頃


定刻を12分遅れて羽田空港の18番スポットを離れ、大阪・伊丹空港に向け滑走路を離陸する1機のジャンボジェット機の姿がありました。





日本航空123便





お盆の入りを控えた当日の機内は出張帰りのビジネスマンや故郷への帰省客


そして当時開園から2年と間もなかった東京ディズニーランドや茨城県つくば市で開催されていたつくば科学万博の観光客等でほぼ満席の状態でした。





友達や愛する人、または家族を待たせている方もいたでしょう。もしくは何かに思いを馳せて機内に乗り込んだ方もいたかもしれません。





夕闇迫る空に向かって


それぞれがそれぞれの思いを抱えて…。




















離陸から12分後の18時24分


大阪に向け順調に高度を上昇させ、相模湾上空に差し掛かりそろそろ水平飛行に入ろうかという時でした。





“パーン”





甲高い乾いた衝撃音とともに123便は突如として緊急事態に陥ります。










『スコーク77』


123便は航空機が緊急事態に陥った際に用いられる緊急救難信号を即座に発信し羽田空港へ引き返す事を管制官に要求しますが、ほどなくして機長から返ってきた言葉に管制官は愕然とします。


それは過去の航空機トラブルの事例をもってしても聞いた事のない言葉だったからです。










“But now uncontrol”
(バット ナウ アンコトロール)





操縦不能。





この時点で既に123便は操縦に必要な油圧操作の機能全てを喪失していました。













飛行機の機体後部には


『圧力隔壁』という、地上に比べて酸素の薄い上空でも地上と同じ気圧に保つ為のおわん型の大きな壁があります。





事故を起こした機体はこの7年前に


『しりもち事故』といって、着陸の際に機体後部を滑走路に接触させる事故を起こしていました。


その際に破損した圧力隔壁の修理ミスが原因で修理箇所が金属疲労を起こして客室内の与圧に耐えきれず損壊、その箇所から一気に漏れ出した空気が尾翼を吹き飛ばして、さらに操縦をつかさどる4系統ある油圧系統のパイプを全て破壊、操縦機能を喪失してしまったのです。













はるか上空から轟いた爆発音はまるで雷が落ちてきたかのように地上でも聞こえ多数の一般市民の方がその時の様子を克明に記憶されています。そしてこの写真は、爆発音が聞こえた方向を飛ぶ操縦不能に陥った123便の姿を目撃した際に一般の方が撮影された一枚です。


赤い○の部分を見て分かる通り、尾翼を失っている事が分かると思います。










緊急事態から墜落までの32分間


123便のコックピット内では原因が分からないまま操縦不能に陥った機体を立て直そうと、残された数少ない操縦手段を用いて懸命に闘う3名のパイロットの方の姿がありました。


その緊迫した闘いを記録した実際の音声は事故現場から回収されたボイスレコーダーによって今日ではYoutube等で皆さんも視聴する事ができます。しかし、この音声記録がメディアを通して世間の日の目を浴びるまでには15年というあまりに長い年月がかかったのでした。










事故から15年が経った2000年


墜落事故関連の調査書類を焼却処分する事と決めた運輸省(現在の国土交通省)の内部関係者が事故の風化を懸念し、コックピット内のパイロットと管制官とのやり取りが収められた実際のボイスレコーダーの音声テープを匿名で有識者に送り、そこから一斉にメディアを通じ世間の耳に届く事になりました。


事故現場から回収されるボイスレコーダー(通称:ブラックボックス)に収められた音声記録の用途は事故原因の究明の為だけのものであり、それを聞く事が出来るのは事故原因の調査に携わった数少ない人間のみ。例え遺族であろうと、その音声を聞く事は本来有り得えない事なのです。




















先述した操縦不能を意味する


“But now uncontrol”
(バット ナウ アンコトロール)


機長からこの言葉を聞いた管制官はパイロットの精神的負担を軽減し、事細かなやり取りをしながら緊急事態の状況を把握する為に





『これからは日本語で話して頂いて結構ですから』


という言葉をかけています。





通常、パイロットと管制官のやり取りは国際法に基づいて英語を使う事と決められています。





それほどまでに123便は深刻な事態に陥っていました。











垂直尾翼を失い機体が安定しなくなった123便は





『ダッチロール』
という左右に傾く揺れと


『フゴイド』
という上下に傾く揺れを繰り返しながら本来の飛行ルートを外れます。





そして、機体の高度を下げる緊急降下の為に『ランディングギア』という着陸時に使用する車輪を下ろした事が想定以上の空気抵抗を生じさせたのか、123便は富士山上空をかすめるようにいきなりの急旋回・急降下をします。


この時の機内の様子を生存者の方はこう証言しています。










“まったくの急降下です。まっさかさまです。髪の毛が逆立つくらいの感じです。頭の両わきの髪がうしろにひっぱられるような感じ。


(中略)


怖いです。怖かったです。思いださせないでください、もう。思いだしたくない恐怖です。お客様はもう声もでなかった。私も、これはもう死ぬ、と思った。まっすぐ落ちていきました。”










急降下が収まったコックピット内では


“あたま上げろ”“あたま下げろ”という機長の言葉が頻繁に記録されています。


これは機体の機首を“上げろ”“下げろ”という意味です。激しく上下に機体が傾くフゴイドを抑える為に懸命に操縦捍を握っていた事でしょう。





しかし


無情にも123便は羽田空港がある方角ではなく、標高2000メートル級の山が連なる秩父方面の山岳地帯に迷い込みます。









18時46分


うねうねと連なる山々を縫うように迷走は続くものの何を施しても機体が言うことを効かない状況を悟ったのか、機長がポツリと言ったこんな言葉が残されています。





“これはもう、だめかもわからんね”










その10分後





“もう、だめだ”





そう聞き取れる機長の悲痛な叫びを


けたたましい警報音が掻き消すように


最後は激しい激突音とともにボイスレコーダーはその記録を止めました。










18時56分


墜落



















事故から数週間経ったある日


新聞紙面には解析されたボイスレコーダーのやり取りが活字で公表されました。その中で機長が発した





“どーんといこうや”


という言葉が批難の的となりました。










“山にぶつかるかもしれないという時に「どーんといこうや」とは一体どういう神経だ”





‥明らかなマスコミの曲解でした。『墜落』と『死』という恐怖を感じながらもクルーと、そして自らを奮い立たせ鼓舞する為に発せられた言葉が当時は酷評され、その曲解されたままの批難の矛先は機長のご家族に向けられたのでした。


機長のご家族は『遺族』でもあり、一方では『加害者の家族』という側面もあったという事が格好の的になってしまったのかもしれません。





長い間、ご家族の方々は好奇の目にさらされ誹謗中傷や嫌がらせにも苦しめられました。世間から身を潜めるような生活も強いられたのかもしれません。誰にも分かってもらえぬ心の痛みをご家族のみなさんで分かち合って、助け合って、支え合って日々を過ごしてきたそうです。






それが事故から15年経ち、実際のボイスレコーダーから聞こえた


機長の高濱雅巳さん
副機長の佐々木祐さん
航空機関士の福田博さん


三人の方々の最後の最後まで諦めなかったコックピット内での闘いの声がメディアを通して世に広まりました。










その年の慰霊登山


機長の奥さんは、たまたま擦れ違った別の遺族の方から感謝の言葉を述べられたそうです。





“最後まで乗客の命を救おうと、頑張ってくれていたんですね”





遺族と加害者の家族というふたつの立場の狭間で当事者にしか分かり得ぬ苦労に耐え、夫を失って自らが一家の大黒柱として振り返る時間もなく3人ものお子さんを女手ひとつで育てる為に奔走した奥さんとその家族の方々の15年。





その言葉が雪解けのように

枯れてしまっていたはずの15年分の涙として自然と溢れ出たそうです。























墜落現場から回収されたカメラに収められていた機内の様子です。衝撃音とともに落ちてきた酸素マスクを装着する乗員乗客の方々の姿。










ダッチロールとフゴイドを繰り返す機内の客室では





“助かるまい”





そう思った数人の乗客の方は揺れの激しくなる機内の中で手帳やメモ帳に、あるいは座席に備えつけられた紙袋に家族に宛てた遺書を遺していました。










ある人は『死』への恐怖と、『生』への望みと…













恐い
恐い
恐い

助けて
気もちが悪い

死にたくない










そしてある人は大切な『誰か』に向けて…













マリコ
津慶
知代子

どうか仲良く
がんばって
ママをたすけて下さい

パパは本当に残念だ
きっと助かるまい
原因は分らない
今五分たった
もう飛行機には乗りたくない
どうか神様
たすけて下さい
きのうみんなと
食事をしたのは
最后とは

何か機内で
爆発したような形で
煙が出て
降下しだした
どこえどうなるのか

津慶しっかりた(の)んだぞ

ママ
こんな事になるとは残念だ

さようなら

子供達の事をよろしくたのむ

今六時半だ
飛行機は
まわりながら
急速に降下中だ

本当に今迄は
幸せな人生だったと感謝している













PM6・・・30

知子
哲也
(両親を)をたのむ

圭市

突然
ドカンといってマスクがおりた
ドカンといて降下はじめる
しっかり生きろ

哲也
立派になれ





















皆さんならどうでしょう


愛する大切な誰かを残して自らの『死』を意識した時


迷走する機体、悲愴な時間の中でこのような言葉を遺せるでしょうか


こんな時に自分ではない他の誰かを、家族を思う行動を取れるでしょうか





きっと


いや、間違いなくこの方々だってほんの昨日まではごくごく平凡でありふれた普通の暮らしを家族と営んでいたのです。





そんな日々が『最期』だと悟った時


皆さんならどうする事ができるでしょうか










僕ならどうするのでしょう





正直


考えても考えても分からないんです。





自分をその立場に置き換えて考えようとしても、とても置き換える事が出来ません。





ただほんの少しだけ分かる事が


本当ならば自分が守らなくてはならない家族を残して逝ってしまう事への『無念』と


せめて最期に出来る事と思い、それを手紙として遺したのであろうという家族に対する『愛』





それだけは、痛いほどに伝わるんです。










520名の犠牲者の中で


一家全員が亡くなられてしまったのが22世帯


また、一家の大黒柱として亡くなられてしまった方は189名にのぼりました。
























美谷島健くん

当時9歳の小学校3年生、健くんもこの日航機事故の犠牲者のひとりです。





ご両親から25メートルのプールを泳ぎきったご褒美にと、当時KKコンビと謳われ最強を誇ったPL学園の甲子園観戦をする為大阪の親戚の家を頼り、健くんひとりでこの123便を利用しました。





この当時、日本航空は


『ちびっこVIP』といって、地上係員が子供の搭乗までのエスコートをし客室乗務員にその役を引き継ぎ、目的地まで無事に送り届けるというサービスを行っていました。





『オレンジジュースは富士山が見えてから飲むのよ?』


水筒を渡される時にお母さんに言われた言葉にうんと頷き、お母さんの手から離れた健くんは地上係員に付き添われ搭乗口に消えていきました。










これが健くんとお母さんとの最期でした。




最期に触れた健くんの手は
とても柔らかい手であったそうです。














健くんの乗る飛行機が遠くの空に消えていくのを見送ってから夕飯の買い物を済ませ


羽田空港から近い距離にあった自宅に戻り、ほどなく仕事から帰宅した健くんのお父さんの夕飯の準備にとりかかっている時の事です。










突然でした。





テレビの画面上に










[ニュース速報]










そのテロップと無機質なチャイム音が流れました。















[午後6時 羽田発大阪行の 日航123便がレーダーから消え 現在運輸省が調査中]















その第一報を目にしたお母さんは夕飯の支度の手を止め、慌ててバッグの中から健くんが乗った飛行機の『ちびっこVIP』の証明書を探します。





そこに書いてあったのは


『JAL 123便』


ニュース速報のテロップと、健くんが乗った飛行機の便名が一致した事に動揺したお母さんは外に飛び出し、自宅の周辺をとにかく走り回ったそうです。






そこに居るはずもない、健くんの姿を探す為に‥。





辺りはすっかり、夜のとばりに暮れていました。



















翌日


健くんのお父さんとお母さんの姿は群馬県の藤岡市にありました。乗客家族の待機所として市内にある体育館に前日夜に到着し眠れぬ夜を送っていたのです。


昼頃には墜落現場から遺体発見と、そして生存者が発見されたというニュース映像が入り、待機所の家族皆が騒然とします。


しかし、夕方になっても健くんが見つかったという報は入らず。


その日の夜、健くんのお父さんは待機所に備え付けられた電話から学生時代の友人の一人に電話を入れます。


その友人は民放テレビ局のカメラマンとして勤めていた方でした。健くんのお父さんはその友人に涙まじりにこう切り出したそうです。




『健が、落ちた。健が、123便に乗ってたんだ。迎えに行く為に、健が喜びそうな物も着替えも全部持ってきた。‥だけど、警察からは家族の人間は「絶対に行くな」と言われている‥。』










ここにはひとつの偶然がありました。


友人のカメラマンは本来スポーツを専門としていたそうですが、事故翌日は他のカメラマンが出払っていた為に急遽ヘリコプターに乗り込み墜落現場を上空から撮影していました。


そして、健くんのお父さんとお母さんが待機所のテレビから見た生存者発見の様子をどのテレビ局よりも早く現場から生中継した映像を撮影されていたカメラマンが、その友人の方だったのです。










しかし、偶然と同様に友人の方の心にはひとつの葛藤が生まれます。





それは墜落現場の場所を知っている事。


墜落現場の'状況'を身をもって知っていたからです。










520名もの方が亡くなられた墜落現場から収容され、医師団によって検視という作業が行われたご遺体は2000体を越えていました。


時速にして600km/hを超える猛烈なスピードで墜落・尾根に激突した事で機体は大破。


激突時の人間一人にかかる衝撃はすさまじいもので墜落現場には機体の残骸とともに


誰のものとも分からない
ちぎれた手足や頭部のない胴体が足の踏み場がないほどあちこちに散乱していたり


墜落直後の炎上によって炭化してしまったご遺体、さらには盛夏だった事もありご遺体の腐敗の進行も早くまさに現場は凄惨を極めていたのです。





完全遺体として発見されたのが100体強ほどで、それ以外の体の一部のみのご遺体は
『部分遺体』と呼ばれていました。










警察が家族に対して現場に行くなと言うのも無理はありませんでした。










愛する子供を迎えに行くとは言え、あの現場を友人に見せていいものか。


もしもとても悲惨な再会になってしまったら‥。










現場までの山道は険しく行くのは難しいと言って一度はそれを止めたそうですが、その言葉を遮るように健くんのお父さんはこう伝えたそうです。










“健が、あそこで待ってるんだ。”










カメラマンの友人の方はその言葉に覚悟を感じたのでしょう。一瞬の生唾を呑んで伝えます。










“ぶどう峠、ふもとの登山道。そこまで行けばどうにかなる。”











皆さんなら


もし健くんのお父さんやお母さんと同じ立場になったなら、同じように現場に行こうと思われますか。


もしカメラマンの友人の方と同じ立場になったなら、現場の状況を知っていてもそれでも教える事ができますか。










僕はどちらにも“はい”と答えます。


カメラマンの立場であったなら、それを教えるでしょう。なぜなら僕が健くんの親御さんの立場であったなら、絶対に行くからです。


行くしかないと思うんです。















墜落から2日経った8月14日


健くんのお父さんとお母さんは警察の静止を振り切って、乗客家族として初めて御巣鷹山の墜落現場を目指します。


草木がうっそうと生い茂るあまりに険しい道なき道を手を取り合って、時に崖から滑落しそうになりながらもただひたすら健くんを迎えに行く為に何時間も登り続けました。





そして


ようやく現場にたどり着いた先に広がっていた地獄のような光景を見て、お父さんとお母さんは悟ったそうです。





健くんのお母さんは
足元に落ちていた掌ほどの機体の残骸を手に取りそれをさすりながら、もうこの世に健くんがいない事を悟りました。





健くんのお父さんは
そこにある光景を眺めながら


『健、健‥』とただひたすらに名前を呼んでいました。
















数日後、現場から見つかった健くんのご遺体は右手の先でした。





あまりに小さくなった健くんのご遺体を棺に納め東京に戻り、執り行った葬儀には夏休み中にも関わらず健くんの同級生をはじめ沢山の方々が最期の別れに訪れました。










“自分がこの時何をしていたのか覚えていない”





茫然としたお母さんの当時の記憶の中でただひとつだけ覚えていた事は


健くんの棺が、あまりに軽かった事だそうです。




















今日のブログの題名に使わせて頂いた


“茜空”


これは健くんのお母さんが事務局長を務める8.12連絡会という事故後に発足された遺族会が毎年発行している、故人に向けた手記集のタイトルです。





墜落の時刻、18時56分に犠牲者の方々が飛行機の窓から見えていたであろう最期の景色が


夕闇迫る“茜空”だったところからきているそうです。










この事故については未だに再調査を求める声が少なくありません。所謂“急減圧”があったかどうかという問題、ここではその説明を省略させて頂きますが


事故から28年という歳月が経とうとも、ご遺族の方々の故人を思う気持ちは変わらないのです。


だからこそ、この事故原因の真相究明こそがご遺族の方々の望みであり520名の尊い犠牲者の御霊への報いになるのだと思います。




















御巣鷹山は墜落時刻である今この時
ご遺族の方々によって静かな祈りに包まれます。










日本人にとって夏という季節は


沖縄戦終結
広島・長崎の原爆投下
終戦


そして日航機事故と、『命』に向き合う季節なのかもしれません。





これらの出来事がリアルタイムでなかった僕らのような世代の方々も


阪神・淡路大震災
米同時多発テロ


そして東日本大震災と、『命』に向き合う出来事を目の当たりにし経験もしてきました。











これを読んで頂いた方は今夜


ほんの少しの時間でも結構ですので大切な誰かの事を思いながら


『命』や『家族』について考えてください。





そして『感謝』をしてください。















命あることを





家族あることを







それらが決して当たり前ではなく





大切な偶然であり、偶然の奇跡であることを










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コメント

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38 ■茜雲,ありがとうございます

本当に忘れてはいけない日ですね。
私はお盆のために実家への帰路上,クルマを運転しているときに,ラジオでニュースを聞きました。
未だに信じられない事故です。
乗客の命を守るために,最大の努力をした機長はじめクルーの方々,恐怖と戦いながら家族への感謝の言葉を綴る乗客の皆さん。
神戸さんがまた命の大切さを振り返らせてくれました。
東日本大震災も福島第一原発も,復旧にはまだまだ遠い道のりです。
命の大切さを胸に刻みながら,日本のこれからを考え自分なりに行動して行きたいと思います。

39 ■無題

偶然たどり着きました。
当たり前の日常が有ることのありがたさを改めて考えさせらました。
大切な家族、笑い声、けんかしたり・・・全てが愛しい。
ありがとうございました。
言葉では表現しきれない想いでいっぱいです。
もっと毎日を大切に生きていこうと思います。

40 ■感動しました

パの他球団ファンですが、読ませて頂きました。
改めて日航機事故に考える機会を頂きました。ありがとうございます。
非常に素晴らしい記事でした。神戸選手、これからも頑張ってください。

41 ■無題

この事故当時まだ私は産まれていませんでした。
この記事をよんで初めてこの事故を知りました。
全然知らなかった。泣きながら読みました。

まだ言葉が出てきません。
これから命について、家族について、考えます。

42 ■28年前

この日のことは忘れられません
ぎゅーちゃんの生まれた日だったんですね
私は高校出て、社会人デビューした初めての夏…
同期入社の大阪の友人が神奈川に遊びに来ていて、この前日、このくらいの時間に大阪に帰りました
もし、一日帰る時間がずれていたら、友人も巻き込まれてたかもしれない!…同期入社仲間とテレビに、くぎ付けになっていました
あれから28年もたつんですね
今は結婚し母親になり、その立場で事故を思い出すと、涙が止まらなくなりました
平凡な毎日だけど、幸いにも両親も健在で、主人も、息子もそばで「生きて」いてくれる…それが奇跡なんだなと今日はしみじみ考えました
思い出させてくれてありがとうございました
ぎゅーちゃんも奥様とお子さまをいつまでも大切に…


43 ■日本人として忘れていけないこと

初コメントです。

私は当時12歳で2日後に自分の誕生日を
迎える日でした。鮮明に覚えています。

乗客には坂本九さんもいたんですよね。
『上を向いて歩こう』や
『見上げてごらん夜の星を』
本当に好きな歌だったので悲しかったです。

8月は日本人にとって命の大切さや
争いや戦争の無意味さ、
生きていることの尊さを
改めて考えなくてはいけない月だと
思っています。

日航機の事故も沖縄戦、原爆、終戦、
そして神戸た東日本の震災も
日本人として忘れてはいけないことだと
改めて考えました。

神戸選手・・・ありがとう。
そして、亡くなった方に合掌。

44 ■はじめてコメントします

ツイッターで神戸さんのブログの記事があり、最後まで読ませていただきましたが、自然と涙が出てきました。
私も当時のことを思い出しながら読んでいました。当時小学生でしたが、とても衝撃を受けた事故でした。

45 ■無題

悲しい出来事でしたが、書いて下さって、ありがとうございました。

46 ■無題

この時はまだまだ生まれてませんでした。
この事故を知ったのは中学に入る前、いろいろ資料を見たら何も言葉になりせんでした。
あの時コックピットでは3人のパイロットが最後までコントロール不能になった機体をコントロールしようとしたか、忘れては行けません
多くの命が失われた事故を風化させては行けません
そしてもうこんな悲惨な事故は起こってはなりません。

47 ■無題

読ませていただきました。あの時間帯に搭乗した事があります。関西弁が飛び交う機内です、ここは大阪か?と思うほどです。事故後一週間位で伊丹から羽田までの途中空から祈りました

48 ■無題

大事な人の死はとてもつらいです。
一日笑って過ごした日も、どこか空虚です。
それはきっと大事に過ごしてこなかったからかもしれません。
皆さんもどうか後悔しないように生きて欲しいです。

49 ■無題

偶然リツイートされていた神戸選手のブログの事を知り、読ませて頂きました。
この事故の一部始終は、良く覚えています。
私は当時12歳。この事故では、歌手の坂本九さん、当時の阪神タイガースの球団社長も搭乗され、帰らぬ人となりました。
ブログの最後の問いかけの健君のお父さんの行動、おそらくもし自分に子供がいて、同じ場所にいれば、同じセリフを吐いて、峠に向かった事でしょう。子供の為に自分を捨てられるのが、親というものでしょうから。
普段、命についてどれだけ考えているのか?人とは愚かなもので、こういった亡くなられた命の話に触れたときに、やっと思い出したように問いかけるのみ。進歩のない話かもしれませんが、
私もここまで40年生きてきて、11歳、15歳、16歳の時と、3人の同級生を病気、事故で亡くし見送ってきました。
そのいずれも、何の偶然か命日は夏。暑さを一瞬忘れる鎮魂の時を迎えます。30歳を過ぎたころからは、何だか自分が無念にもこの世を去った旧友たちに生かされているのではないかと
いう思いが、頭をよぎることが増えてきました。

私は普段、東海地方在住のドラゴンズファンであまりロッテ戦を観る機会も少ないのですが、
一プレーヤーとして、その思いの丈を乗せたプレーであの熱い千葉マリンのファンを魅了、活躍をされることを一プロ野球ファンとして祈念しております。

シーズンも残り3分の1に差し掛かってきましたが、正念場で故障等に気を付けて頑張ってください

50 ■無題

とてもいいブログでした。
命について考える良い機会になりました。
私は他球団のファンですが、応援しています。
これからも頑張ってください。

51 ■無題

自分の生まれる前の出来事で、今までは過去に起きた悲惨な事故としか捉えていませんでした。
今ある生活は決して「当たり前」ではないことを神戸選手によって改めて実感させて頂きました。
自分はヤクルトファンですが、神戸選手のこれからの活躍を願っています。
頑張って下さい!

52 ■初読です。

1985年は、まだ僕は産まれてないですが、調べるのが大好きで、1985年を調べていたら、この事故を発見しました。坂本九さんを含む、たくさんの方の命を亡くしてしまいました。もう、こんな事故が無いように、なってほしいですし、もう、誰も悲しまない世の中になってほしいものです。神戸さん、残りのシーズン頑張ってください。

53 ■無題

よくがんばった

これからも頑張れ

僕もがんばります

54 ■久々に

自分は83年生まれなので、僅かながらに事故の事は覚えております。
自分は飛行機嫌いで学生時代の修学旅行も参加の可否を最後の最後まで悩んだ記憶があります。
もちろん飛行機嫌いの原因はこの事故です。
あまりにも悲惨な事故。

この事故のフライトレコーダーの音声を大人になってなってから全部聞きましたが、コックピットは最後まで冷静に機体を立直す、不時着させる事に精一杯でしたね。

まさかプロ野球選手のブログでこの話を読み入るとは思いもしませんでした。

ご家族の居る方、神戸選手の気持ちを汲み、改めて家族の大切さ有難さを考えてみましょう。

残念なことに自分にもう家族はおりませんが、明日は奇しくも明日は迎盆。この話を思い出しつつ亡くなった家族を迎えに行こうと思います。

良い日と言ったら大変誤解のある言葉になってしまいますが、この事件の事改めて考えさせてもらいました。

最後に今後の活躍ご期待申し上げます。
QVCでの神戸コール楽しみにしております。

55 ■無題

始めまして。
僕は神戸選手のことはよく知りませんでした。
今回このブログにたどり着いたのもTwitterを通してです。
ブログを読んで涙が出てきました。
日本人に、とって夏は大切な時期ですね。
とても心に響きました。
僕もまた命について考えて行きたいと思います。
これからの神戸選手の活躍を期待しております。

56 ■無題

この記事泣きました。
テレビや映画で見た事がありましたが事故のことをあまり知らなかったしその時はそんなに深く考えてなかったからここまで深く考えたのは初めてです。
ありがとうございます。

57 ■なんだろ

物凄く胸が痛くなった。

俺の今の命。
もう少し大事に、そして誰かの為になる事やりながらすり減らして行こうかなと。

ありがとう。
俺はもう少し生きてみる。
もう嫌な事ばかりで、いつ死んでもいーや。
とか思ってたんだけど、アンタのブログ読んで何か。何かやってみる気になったわ。ありがとう。
野球頑張ってね

58 ■無題

私は幼稚園生だったので覚えてませんが。
茨城の実家に私を連れて帰ってたときだ、覚えてる。と、母から何度も聞いたので…知っていたと思ってましたが、ブログ読んで、知らないこと多すぎて放心状態になりました。

母はいつも、あなたくらいの子がね、生きてて…ヘリコプターで救出されてたの、と。最後に語るんです。

きっと他人事ではなかったのかもしれません。
今日だよね、と、再度話題にしたら、そのこの名前を覚えてました。いつもは物忘れ多い母なのに…。

8月はご冥福をお祈りする月でもありますね。

あのときは、飛行機事故が多かった。。。

飛行機に当たり前に乗れるようになったのが複雑におもえます。

59 ■初めてコメントさせていただきます。

神戸選手、はじめまして。
プロ野球ファンです。
ブログを拝読して、涙が出ました。

私は昨年8月8日に母を亡くしました。
高校野球が始まる日が母の命日となってしまい、去年と同じようにこの暑い中逝ってしまった母のことを思いながら、負けたら後がないから必死に頑張る高校球児の姿に、去年、旅立つ直前まで必死に生きようと一生懸命闘った母の姿を重ねながら今年も過ごしていたので、神戸選手のブログを拝読するまで、日航機墜落事故の日だったことを忘れてました。

私は健くんより少し年上なので、8.12のことはすごく覚えています。
当時、やはりもういない祖父のもとに帰省している時に、この事故を知りました。
野球が好きだった健くん。
私も当時憧れていた桑田さん、清原さんに逢いに行く途中でその短い生涯を閉ざされてしまった健くん。
健くんがご存命なら、なにか野球に関わることをされていたかもしれない、そんな健くんの無念を思うと、自分は本当に『生かされている』んだって思い、桑田さん、清原さんのおかげでプロ野球ファンになったとも言える私は今、ある選手を強く応援し、逢いに行くことだけをただ楽しみに、励みにしていますが、それは当たり前なんかじゃない、そうさせてもらっているんだということを改めて思い知らされ、感謝しなければならないと、強く思いました。
そして、健くんをはじめとする、28年前の犠牲者の方々が果たせなかった、『逢いたい人に逢える』ことがどんなに素晴らしく、幸せなことであるかも、強く思い知らされました。

また、神戸選手のように、このようなことをブログに書いてくださる方なら充分ご承知だと思いますが、私が応援している選手をはじめ、すべてのプロ野球選手が、今、好きな野球を職業にできていることを、感謝の気持ちを忘れずに頑張ってほしいなと思います。
健くんのように、もしかしたらプロ野球選手になれたかもしれないけどなれなかった人のためにも。

文中、多々失礼な表現があったかと思います。ごめんなさい。
神戸選手も、まだまだお若いので、頑張ってくださいね。応援してます。

改めて、日航機墜落事故の520名の犠牲者の方々のご冥福をお祈り申し上げます。

60 ■無題

そう今日があの痛ましい事故の日だったのですね。
私は良く覚えていますよ。
坂本九さんが亡くなったことや、生存者の中に子供の女の子がいたこと、そして確かその子は看護師になられたはず。

でもこのブログな遭わなければいつか忘れてしまいそうでした。
生きることの、生かされていることの意味、真剣に考えてみます。

神戸選手、長文ご苦労様でした。そして有難う。
そらから私も遺族の方々が少しでもご納得されるような、事故の真相究明を心より願います。

61 ■無題

当時中学3年生の僕も2005年の特番は観ていました。その放送のちょうど1週間後、自分は病に倒れました。脳内出血の手術で、術後も右半身が動かず、リハビリの日々が続きました。利き腕が使えないストレスと、術後の頭痛でいらいらしていましたが、生きている事の幸せをどこかで感じていました。
そしてそれから8年が経った2013年、昨日僕は一歩間違えれば命を落とすところでした。
奇跡的に無傷ではありましたが、このタイミングでまた、命の尊さを身を以て感じました。
最近自暴自棄になりかけていた中で、昨日の事故も、この記事にこうして出会えたのも、自分に何かを暗示しているのかもしれませんね。
辛い事があっても生きているだけで幸せだって、そう考えたら少し元気を取り戻せました。

後半戦の活躍に期待しています!

62 ■なんとなくコメントしたくなりました


東日本大震災からちょうど1年2ヶ月たった2012年5月11日に娘が生まれました。

震災に限らず、少なからずとも絶望があるこの世の中で、誰か、人々の「希望」の「光」であってほしいと願い、「光希」(みつき)と名付けさせてもらいました。

同じパリーグ、ライオンズのファンではありますが、球団に限らず、どんなスポーツに限らず、どんな職業に限らず、人は夢や希望を与えられるもとだと信じています。

63 ■忘れてはなりませんね。

事故当時、TVや新聞で絶え間なく報道されていたこの大事故、当時「一生忘れることはできないだろう」と感じるほど、胸に刺さる悲しい出来事でした。
しかしながら、残念なことに、
お恥ずかしいことに、あの夏から18年、まだ20年とたたないのに…
私は今日がその日だったことを、他の方のtweet、そして、神戸選手の記事を読むまで、忘れておりました。
本当に、恥ずかしいことです。

そして、9歳で貴い命を奪われた美谷島健くん、
私よりも1歳下で、懐かしさを感じさせる近鉄帽を被ってKKコンビに胸を躍らせていた彼の事は、当時から私も野球少女だったゆえに、他人事とは思えません。
大人になるまで生きられなかった彼の分まで、しっかり生きなくては…と、身の引き締まる思いがしました。
美谷島健君のご家族の皆さまには、このお写真とエピソードを神戸選手のブログを通して伝えて下さったことに、深い敬意と感謝、そして健君のご冥福をお祈りいたします。

そして、亡くなられた方へのご冥福をお祈りいたします。

神戸選手、本当に、本当にありがとうございました。
ロッテも応援します。

64 ■無題

はじめまして、2chから来たものです。

失礼な言い方ですが、まだ無名の野球選手のあなたが、こうゆう記事を書いてくださりとても感謝しております。

日航123便墜落事故は、まだ自分が、生まれるずっと前に起きた本当に悲しい事故です。

これからもこの事件を未来の子供達に語り継がれれていくことを祈りたいものです。

乱筆失礼しました。

65 ■無題

とても感動しました。

私はこの事故が起きた頃はまだ生まれていなかったので詳しくは知りませんでした。
神戸選手のこのブログでこの事故のことを深く知ることが出来ましたし、命の尊さや家族の大切さなど再確認できました。

初めて神戸選手のブログを読ませて頂きましたが、読み終わった頃には目に涙がたまっていました。

Twitterでぜひ読んだ方がいいと聞いたので読みにきました。ほんとにこの記事に出会えてよかっです。いろいろ考えることができました。素晴らしい記事をありがとうございます。

66 ■無題

自分もこの事件について関心を持ち調べてみたことがあります。YOUTUBEの動画やネットで検索したら見られる損傷の激しい遺体の写真なども見ました。この事故に限らず航空機事故って整備不足とか人為的なミスが原因のものが多くて、本来なら防げたはずの事故もあるんじゃないかな、と思います。自分はこの事故について知って、命の大切さとか今を生きていることの貴重さについて考えるまでには至りませんでしたが、確かに人の命って一瞬で奪われることありますよね。ちょうど帰省中なのでいつもより多めに家族とコミュニケーションとろうとこの記事読んで思いました。あと、偏見ですが野球選手の方がこのような文章を書かれたということに少なからず驚きました(失礼w)

67 ■読みながら涙が出ました…。

ただただ祈る事しか出来ません。
風化してしまう事が一番怖いです。


ありがとうございました。

68 ■身が引き締まる思いです

墜落しつつある飛行機の中、乗客の方々の胸中に思いを馳せて涙が溢れてきました。飛行機という逃げ場のない場所では、生きるために最後まで「もがく」ことすらできない。どうしようもない、覚悟を決めなければならないという残酷な数分間に、なおも残された方々に何かを遺そう、託そうとする。

色んな感情が交錯して上手く言葉になりません。ただ言えることは、日頃の私があんまりにも一日を雑に過ごしているということ。家族への感謝、今日を普通に過ごしていられた幸福、明日にでも、もう二度と味わえなくなるかもしれないのに。

身が引き締まる思いです。神戸選手の仰る通り、夏は命と向き合わなければならない季節なのかもしれません。当たり前過ぎて気を緩めればすぐに忘れてしまう、今の一瞬、一日の尊さ、もう戻らない時間。だからこそ必死に生きなければならない。

素晴らしい記事を書いて下さってありがとうございました。神戸選手のご活躍を陰ながら応援しています。

69 ■無題

ブログを拝見させていただきました。 亡くなられた方々の気持ちやその遺族の方々の悲しみを考えると物凄く胸が痛くなりました。今、当たり前に生きているこの瞬間を大事に、たったひとつの命、家族とめぐりあえた奇跡に感謝していきたいと思います。

70 ■無題


こんばんは!

今日も、お疲れ様です

初めまして、ホークスファンですが
コメントさせていただきます。

この事故はまだ僕が生まれる前のことですが、本当にたくさんの命や悲しみを作った、言葉に表せられないような悲しい出来事ですね…

読んでいて、胸が苦しくなりました

僕の将来の夢は航空整備士です
4月から専門学校で勉強しています

飛行機は本当に大きく整備は難しいです

しかし、安全第一というのは
どこの、どんな整備士でも同じです

一歩間違えたら事故起きますし…

そんな重大な作業をやっていらして
改めて整備士さんのスゴさが分かります

僕もこのようなことが起きぬよう、
当たり前の安全を守りたいと思います

最後に
プロ野球選手の皆さんは、打てなくても失点しても反省して次に活かせばいいですが、もし整備士が失敗なんてしたらこの事故が何度も起きるでしょう プロ野球選手の皆さんは必ず打つ、必ず抑えることは出来ますか、空の世界では失敗とか絶対に許されないんですよ?

もしこの先、この1球で全てが決まるという時は失敗は許されないと思ってみては?

例え仕事は違っても、命を懸けてでもやってやるという心を持ってみるのもいかがですか?


71 ■無題

僕は同年6月12日生まれです。
よく母親が僕の生まれた直後の印象的な出来事として当時の事をよく話してくれたのを思い出します。
不思議ですよね、僕も生まれ年に起きた事故という理由からか、事故についてはもそうですが、航空機の安全についても色々興味を持ち調べたことがあります。


これだけお詳しいならご存知かもしれませんが、この事故を題材にした映画「クライマーズハイ」、「沈まぬ太陽」はどちらもお勧めです。


話は変わりますが、そろそろ1軍でみたいですよ!頑張ってくださいね!

72 ■無題

私が生まれる10年くらい前のことで、事故のことはうっすら知っていましたが、神戸選手の記事に私の知らないことがたくさん書いてありました。

読んでてすごく心打たれました。なんか言葉にできないです…

これからの人生、一生懸命生きます!

73 ■無題

自分はこの事故が起こった時は生まれておらず、この事件の存在もちゃんと知りませんでした。

けれど神戸選手の記事を全て読んで、こんな惨事を知らずにぬくぬくと過ごしている自分が哀れだとも思いました。

この事件を知らない人は知る事が必要だと思うし、今知った自分が言うには相応しくないかもしれませんが風化させない事が大事だと思います。

ごく平凡な生活が送れる事を当たり前と思うのではなくて、感謝しないといけないなとひしひしと感じました。
いつも忘れている家族への感謝を忘れずに家族を大事にしたいと思います。

神戸選手応援してるので頑張ってください!

74 ■ありがとうございます

はじめまして。88年生まれ女です。
この事故のことを、貴方のブログで初めて知りました。
医療職に従事している私は、亡くなられる方、そしてそのご家族と接する機会がままあります。
普段から命について考えることは非常に多く、当事者の方々との接し方や自分の振る舞いにも悩み葛藤することが多いです。
そこでいつも思うのが、病気という生命に直結する問題がある方のご家族では、悲しみはもちろんありますが家族の死への需要期間が少なからず設けられることに対し、事故や震災では全くの青天の霹靂なもので、その衝撃や悲しみ、怒りから需要に移行するのは大変難しいだろうということです。
いつも想像してみますが、その悲嘆は推し量れません。
東日本大震災に関してもたくさんの著書が出ています、それを読みながら
家族や友達、大切な人々がわたしの周りにいてくれることにいつも感謝し、自分の生きている意味もそこにあるのだと改めて考えさせられていました。
正直貴方のことは存じ上げませんでしたが、わたしに考えるきっかけを新たにくださってありがとうございました。
これからのご活躍を期待しています。

そして、お誕生日おめでとうございます♡



75 ■ありがとうございます

この日のとき、僕は小1でした。
祖父母の家から帰って、夜、家のテレビのニュースで報道されていたことを思い出します。

当時の状況、またこんな原因があったとは知りませんでした。
そして、こんな小さな被害者がいたなんて・・・

神戸選手のおっしゃる通り、命の貴さについて、考えたいと思います。

戦争も、事故も、二度と起こしてはいけません。

76 ■感謝

他球団のブログから来ました。私の誕生日は原爆の日です。だからいつも平和や戦争について考えさせられます。

日航機事故もリアルタイムでニュースで見て、悲惨な写真も記憶に残っていますが、神戸選手のおかげで新たに知るところが多く、この度の記事は深く心に残りました。

ただただ感銘を受けています。

当時の衝撃や恐怖と戦った乗客、乗務員の方々のことが思い出されます。

東北・北関東の震災の悲劇さえも風化しそうなこの頃、命あることが、家族や友人がいて当たり前の日常を送れることが、野球が楽しめる環境がどれほど尊いか教えてくださってありがとうございます。

神戸選手の発信力は素晴らしいです。
今後のご活躍を祈っております。

77 ■同じく、、、

私は事故の前日に産まれました。事故のことを知ったのは小学生のころ。
母より「あなたの産まれた次の日、沢山の方が亡くなられたの。坂本九さんもよ。大変な事故だったの。だからね…」と誕生日に教えて貰いました。

その後、同じように当時の新聞を見たり、ジャンボ機、御巣鷹山、坂本九さんに興味を持ち始めました。

坂本九さんのドラマ、映画を見たりし、当時の搭乗者とその家族の方々の思いを知ることになりました。


自分の体調が回復したら、登山したいと考えています。

78 ■無題

同じ日、同じぐらいの時間の便に私の兄も大阪行きの飛行機に乗っており、この速報が入ったとき、ものすごく心配したのを覚えています。

中越地震では親戚が被災しました。
東日本大震災では友人が被災しました。

私も家族との連絡がなかなかつかず、全員の無事を知るのに数日かかりました。
どんなに折り合いが悪くても、家族は家族。


生きるってなんだろう
家族ってなんだろう


そう思う出来事がくさん起こりました。

今こうして生きていられることに感謝しないと、と思いました。


改めて考える良い機会となりました。


後半戦の活躍に期待しています!

79 ■感謝

当時、中学生だった者です。

世に名を知られた方が、こういうことを書いてくださったことに、事故当時の記憶を持つ者として感謝します。

きっと、多くの人達が読むことでしょう。

ありがとうございました。

80 ■無題

この記事を読んでから、YouTubeのフライトレコーダーを聞きました。コックピットに鳴り響くアラーム、終盤に聞こえてくる「機首を上げろ」と言う自動音声。そして、賢明に機体をコントロールしようと奮闘するクルーの声に心が震えました。当時を知りませんが、文字だけとはいえ機長の「どーんといこうや」が、批判される理由が分かりません。取って着けたようで申し訳ありませんが、神戸選手のこれからの活躍を祈っております。

81 ■はじめまして

まず、このような記事を…ありがとうございます。
私は来年から、ある航空会社の客室乗務員(CA)として勤務します。そのため、空の安全に関しては、本当に考えさせられますし、自分が今後、その安全を担う一人なんだと痛感しました。

もし、このような悲劇が今後、自分の乗務する便で起こった時、私はどんな行動を取るのか…取るべきなのか…すごく考えさせられます。

CAとして、乗客のみなさまを守る事が間違いなく正しいでしょう。わかってます。しかし、自分の命も大切なことに変わりありません。同じくらい助けたい命です。

いくら技術や化学が進歩してきてるとは言え、100%安全などありません。
100に満たない所を補っていくのが、パイロットである運行乗務員、私たち客室乗務員なんだと感じます。

命の大切さ、空の安全…
これから入社して退社するまで
何があっても忘れられない課題だと思います。

82 ■無題

僕が生まれたのはこの事故の10年も後のこと。でもこの事故を知れば知るほど、今約束されているように見える"安全"というものの脆さを考えさせられます。
僕がこの事故を初めて知ったのも神戸さんと同じく、20周年のドキュメンタリーでした。あれから今でも、ネットや図書館などでこの事故を調べることがあります。
あの明石家さんまさんはひょうきん族の収録が予定より早く終わった為、いつも使っていた123便をその日に限って乗らずに済んだそうです。
人生何が起こるかわからない。
だから今を精一杯生きないと。

僕も知らない情報がたくさんありました。
ありがとうございました。

83 ■無題

思わず読みいってしまいました。神戸さんの遺族や命に対する思い、文章力など様々な部分に感銘を受けました。
私も今生きていることを当然と思わずに様々な不幸で亡くなった人に恥ずかしくないよう必死で生きていこうと思います。
神戸さんも野球を是非頑張って下さい。マリンフィールドへはよく行くのでグラウンドで見れる時を楽しみにしています。

84 ■無題


この事故も
他人事や昔の事では済まされない。
風化してはならないことなのだと
改めて気付かされました。

85 ■無題

ええんとちゃう(適当)
まあ、この話は置いといて
もっと活躍してクレメンス

86 ■無題

何度も読み返してしまいました。
あの時、機長の方々、客室乗務員の方々は一生懸命頑張っていたんですね。

あれから28年も経ったのか、このニュースを見る度にそう思います。

原爆の日と、終戦記念日がある8月は、特に命について考える機会が多い月ですね。

87 ■無題

お邪魔します。野球好きの者です。
当時大学生、鮮明に覚えています。
この日ちかくに祖父が亡くなったという出来事とセットです。

それから私は後に発覚した障害や、
障害による疾患に、また2度の離婚などの出来事に振り回され、
何度も自分の命を粗末にしようとしました。
生きたかったのに生きられなかった命のことを忘れて。

今、野球が見られること。
かわいい猫と、ささやかでも穏やかに暮らせること。
すべてに感謝しなくてはいけないと、
そして感謝、願い、平和、すべてを祈り続けなくては、
と改めて思いました。
そのきっかけを作ってくれてありがとうございます。

暑い日が続きますが、神戸選手の活躍をお祈りしています。
またマリンで見られる日を楽しみにしています。

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