長崎:ソ連が写した被爆1年後 露で13枚発見
毎日新聞 2013年08月08日 20時03分(最終更新 08月08日 22時31分)
【モスクワ田中洋之】原爆投下から約1年後の1946年9月に当時のソ連の軍情報部が撮影した長崎市内の写真がロシア外務省公文書館に保管されていることが分かった。毎日新聞は爆心地や大破した浦上天主堂などを写した計13枚の写真と報告書を入手した。当時の長崎市内の写真は少なく、米国と対立を強めていたソ連側が撮影したものとあって貴重な資料といえる。
写真と報告書を残したのはワシーリー・グリンキン氏(89年に74歳で死去)。ソ連軍の参謀本部情報総局(GRU)に所属し、終戦前は在日ソ連大使館員だった。長崎を訪れた46年9月当時は、終戦後に日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)の諮問機関「対日理事会」でソ連代表を務めたデレビャンコ陸軍中将の上級補佐官だった。
報告書によると、グリンキン氏は米国が主催した視察団に参加し、46年9月8日から12日にかけて神戸、広島、小倉など西日本を回った。長崎に入ったのは9月11日で、被爆した城山国民学校(現城山小学校)や長崎医科大学付属医院(現長崎大学病院)、三菱の兵器工場などを約3時間かけて視察した。城山小の写真上部には「長崎の旧ミッションスクールの建物」と誤った説明がつけられている。
写真はいずれも被爆で壊滅した市内の様子をとらえており、報告書には建物の被害状況などが詳細に記されている。報告書は46年10月に当時のマリク・ソ連外務次官(第二次大戦中の駐日大使)らに宛てたもの。表紙の右上に「秘密」のスタンプが押されているが、ソ連崩壊後の92年に機密解除となっていた。
報告書によると、長崎で視察が認められたのは市北部だけ。三菱造船所などがあった南部は「米国が立ち入りを許さなかった」と記されており、当時すでに始まっていた米ソ対立の側面もうかがわせている。
核兵器開発で米国に先を越されたソ連の指導者・スターリンは原爆投下の直後に広島、長崎へ独自の調査団を送り、情報収集活動をしていたことが分かっている。ソ連は49年に原爆の開発に成功した。
写真と報告書を閲覧したロシア科学アカデミー東洋学研究所のアレクセイ・キリチェンコ氏=元ソ連国家保安委員会(KGB)防諜(ぼうちょう)局の日本担当責任者=は「この資料を見たのは初めて。原爆の威力や地形による被害の影響など軍事的な調査が目的だったとみられる」と指摘している。