また日記は、慰安所が日本軍の完全統制下で運営されていたことも示している。日記に登場する慰安所は、ビルマに27カ所、シンガポールに10カ所。各慰安所は「航空隊慰安所」「兵站(へいたん=戦闘地帯から後方の、軍の諸活動・機関・諸施設を総称したもの)管理慰安所」のように特定の部隊に所属しており、収入報告書・営業日報などの報告書を定期的に所属部隊へ提出した。「(ラングーン〈現在のヤンゴン〉の)インセンにいる高部隊、すなわち航空隊所属の慰安所2カ所が兵站管理に移譲された」(43年7月19日)「村山氏が経営する慰安所『いちふじ楼』が兵站管理になり」(7月20日)と日記に記述されているように、所属部隊が変更されるケースもあった。
さらに、慰安所は軍の命令によって移動した。「55師団から、慰安所をマンダレー近辺のイエウという場所に移転せよという命令があり」(43年3月10日)、「ペグーの慰安所『乙女亭』、『文楽館』、将校クラブなど3、4の慰安所は、今回アキャブ地方に移動した」(4月15日)、「『カナガワ』氏は、慰安所移動説があると言って軍司令部で調べてみた」(8月6日)という日記の記述が、これを証明している。
慰安婦暮らしをやめた人が、再度連れてこられることもあった。「以前村山氏の慰安所で慰安婦をしていて、夫婦生活を送るために出ていった春代と弘子は、今回兵站の命令で再び慰安婦として『きんせん館』に来ることになった」(43年7月29日)という日記の記述が、このことを物語っている。
日記で明らかになったこうした事実は「民間業者が従軍慰安婦を募集し、慰安所業者が営業のために軍部隊についていった」という一部の主張が事実ではないことを示している。
安秉直名誉教授は「従軍慰安婦は、徴用・徴兵・勤労挺身(ていしん)隊と同じく、戦争の本格化により日本が戦時動員体制の一つとして国家的レベルで強行したこと。しかも慰安婦は、募集時に自分たちがやることをきちんと説明されず、人身売買に近い手法が利用されたという点で『広義の強制動員』と見ても差し支えない」と語った。