被爆者手帳:今夏取得の67歳「私は被爆者」 母の胎内で
毎日新聞 2013年08月06日 06時28分(最終更新 08月06日 09時00分)
68年前、原爆投下直後の広島市内に入った母親の胎内で被爆しながらそのことを語らず、医療ソーシャルワーカーとして被爆者支援に携わってきた広島市西区の三村正弘さん(67)が今夏、被爆者健康手帳を取得した。1960年に亡くなった母は手帳を持たなかったため、取得を諦めていたが、昨年になって証人が見つかった。被爆から68年目、三村さんは真新しい手帳を手に「被爆者」として歩み始めた。
原爆投下翌日の45年8月7日、三村さんの両親と当時10歳だった兄(78)は、広島市の爆心地から約7キロにあった自宅を出て母の実家に向かった。おはぎと米を届けるためだった。実家は爆心地の西約3キロ。焦土の中を歩き、妊娠8カ月だった母は「これ以上進めない」と、荒神橋(現広島市南区)付近で引き返した。同13日にも母と兄は再び母の実家を訪ねた。
三村さんは中学3年だった60年の6月に父、11月に母を相次いでがんで亡くし、原爆孤児になった。展望が持てず、すさみかけた時期もあったが、原爆孤児向けの奨学金を得て大学に進学。医療ソーシャルワーカーになり、病院に勤めた。
81年に仲間と「原爆被害者相談員の会」を設立。2010年に代表に就任した。さまざまな事情で手帳を取得できない「被爆者」の支援、生活相談、高齢被爆者の介護などに対応してきた。口をつぐむ被爆者を説得し、自分史作りを勧めたこともある。
しかし、自身の過去は語ってこなかった。05年に1度だけ、勤務先の病院が出した証言集に被爆体験を書いた。ただ、題名は「M君のこと」と三人称にし、M君を「半被爆者」だと表現。「(打ち明ける)勇気がまだないようです」とつづった。
昨年、兄は母の実家近くにある寺を訪ね、同い年の女性に会った。原爆投下翌日に兄たちが食料を届けに来たことを覚えていた。兄はこの女性に証人になってもらい昨秋、手帳を取得。兄とその女性らが証人になり、三村さんもようやく被爆の事実が認められた。
「大変だっただろうね」。三村さんは5日、荒神橋のたもとに立ち、大きなおなかを抱え峠を越えてきた母の苦労を思った。6日は、広島市内である集会で自分が「被爆者」だと明かすつもりだ。「自分史を書かなきゃいけないかな」。封印を解き、過去と向き合っていくことを誓った。【加藤小夜】