原爆の日:被爆80歳「戦争は狂気」 日中の緊張懸念
毎日新聞 2013年08月06日 12時31分(最終更新 08月06日 13時19分)
高知市で老舗陶器店を営む被爆者の植野克彦さん(80)は68年前のきょう6日、父(当時49歳)と姉(同19歳)、兄(同16歳)の3人を原爆で一瞬のうちに失った。これまで平和記念式典に行く気になれず、被爆体験を語ることもなかった。陶磁器を扱う商売柄、中国との民間交流に長年尽力してきたが、その中国と日本が領土問題を巡り緊張を高めている。大事に思っている平和憲法を改正しようという動きも見えてきた。「何ができるかは分からないが、このままではいけない」。そんな思いを抱き、初めての式典に臨んだ。
原爆投下時、広島高等師範学校付属中1年生で12歳だった。広島地裁判事の父・中澤好英さんと姉、2人の兄と広島市中心部の大手町(現中区)で暮らしていた。爆心地から約1・5キロの中学校そばで被爆。大やけどをしてがれきの下敷きになったが脱出し、逃げる最中に気を失った。山口県境の広島県大竹町(現大竹市)の国民学校に担ぎ込まれ、意識を取り戻した時、軍医から「日本は負けた」と知らされた。
「父や姉、長兄は絶望的だ」。疎開先から迎えに来た母に聞かされた。3人の行方は今も分からず、遺品も見つかっていない。次兄は無事だった。一時は米国を恨んだ。だが、「戦争は狂気。立場が逆なら日本が核兵器を使ったかもしれない」と思うようになった。
戦後は父母の郷里の高知に移り、高校を出て銀行員になった。その後、妻の実家の陶器店を継いだ。1990年に中国・景徳鎮市を初訪問して以降、現地の陶芸家との交流を続け、96年には愛知県瀬戸市と景徳鎮市の姉妹都市提携の橋渡しをした。
植野さんの祖父は明治の自由民権運動家で衆院議員も務めた中澤楠弥太(くすやた)氏。「祖父は清(中国)の留学生の面倒を見ていた。中国との関わりは、不思議な縁かもしれない」と語る。
しかし、昨年9月、高知県の友好都市である中国・安徽(あんき)省の、李斌(り・ひん)省長を訪問した際、面会を断られた。同氏が前年高知に来た際に交流を深めたばかりだったが、尖閣諸島問題で日中関係が悪化していた。長年積み上げた親交が政治に翻弄(ほんろう)されることに「これまで築いた交流を絶やさないことで精いっぱいだ」と悔しがる。
一方で中国も核保有国の一つ。被爆者として核廃絶は願うが、何よりも「最後のボタンを押さない努力、押させない努力が必要だ」と思う。