「日本の植民地支配下で、多くの独立運動家が共産主義の理念を受け入れ、解放と革命を追求していた。しかしこれらの運動家は失敗した。人格が高潔でなかったからでも、運動が革新的でなかったからでもない。理念が間違っていたからだ」
ソウル大学経済学科の李栄薫(イ・ヨンフン)教授は2008年、左派系韓国史教科書に対抗して『代案教科書 韓国近現代史』の出版を主導し、その後左派による集中攻撃の対象になった。その李教授が、500ページもある新たな韓国現代史の著書を出版した。『大韓民国の歴史:国造りの足跡 1945-1987』(深い青社)だ。5年前の「教科書」で記述が不十分だった部分を補った、本格的な研究書だ。
-なぜ、経済学者が歴史書を出版するのか。
「大韓民国建国の意味について、誰もきちんと書いていないからだ。歴史学者は、ほとんどが左右合作論を中心にして現代史を記述している。感性的な共同体意識である『民族』に余りにも執着しているため、より上位の理念である『自由民主主義』をきちんと見ることができていなかった」
-自由民主主義は独裁を擁護する政治理念、という批判も受けるが。
「そうではない。20世紀の世界史は、政治的・経済的自由を許容する国家体制が人々を最も幸福にする、という真理を経験的に立証した。大韓民国の建国は、韓国の文明史が大きく転換するプロセスだった。性理学(儒学の一学説)に基礎を置いた伝統体制が解体され、自由民主主義の理念に基づいた新たな政治的統合が成し遂げられたのだ。その土台の上で、産業化と民主化を達成した」
-大韓民国の建国が分断を固定化したのではないのか。
「分断に向かって先に走り出したのは、北の共産主義勢力だった。北朝鮮は、1946年2月に実質的な政府を立て、3月に急進的な土地改革を実施、自由民主主義勢力を追放した。李承晩(イ・スンマン)を中心とする建国主導勢力は、『南で自由民主主義体制をしっかりと作ってから統一を追求しなければ、民族全体が共産化する』と考えており、その考えは正しかった」
-李承晩・元大統領を美化し過ぎているのではないか。
「李承晩・元大統領の誤りは明確に記録した。しかし建国後には、李承晩が主張した大統領中心制と民主党勢力が主張した議院内閣制をめぐる深刻な対立構造があり、副統領(副大統領)直選制といういびつな制度も生まれた。63年に朴正煕(パク・チョンヒ)が大統領中心制を復活させたとき、誰も異議を唱えなかった。李承晩は退陣したが、李承晩が擁護していた政府の形は受け入れられたということだ。87年6月の民主化抗争で復活した大統領直選制は、結局のところ『李承晩・元大統領の遺業の発展的継承』だったということになる」
-金九(キム・グ)について好意的でない部分もある本書の記述は、主な論争の対象になりそうだ。
「金九は民族的大義に立脚して南北交渉を推進したが、結果的には、共産主義の宣伝・扇動に利用された。金九は、大韓民国の建国勢力を『わが身の貧しき安逸を取る者』とののしっただけでなく、大韓民国の将来について悲観的な見方を持っていた。しかし金九の考えとは違って大韓民国は生き残り、繁栄した」