1980年代のソウル大学では、「韓国史」の講義を「国民倫理」と共に教養の必修科目として聴講しなければならなかった。韓国史を専攻する著名な教授の講座を1学期間受講したが、教授は専攻の古代史をしばらく講義し続け、高麗時代に入ることもなく学期が終わってしまった。ほかの講師の講義を聴講した友人たちは「高校の国史の教科書を学び直しているようで退屈だった」と不平を漏らした。
ソウル大学が90年以降選択科目に回した「韓国史」を、再び教養の必修科目に変更する案を推し進めているというニュースに接して、喜びと共に懸念も抱いた。入試で選択科目に転落し、高校では「仲間外れ」にされている韓国史教育を、大学だけでも正常化したいという趣旨には共感するものの、過剰な民族主義や偏った歴史解釈が原因で批判された国史学界が韓国史教育を独占することになったら、むしろ問題を大きくしかねないからだ。
また現実の面では、暗記式の高校教育の二番煎じになる可能性が高い。ソウル大学のコミュニティーサイトには「『韓国史』を必修科目にするのはいいが、歴史全体が暗記授業に転落する可能性が高い」「『大学国語』のように一括した教育課程や教材を作り、それを教える形になる公算が高いが、歴史を解釈する観点はいろいろあるのではないか」などの書き込みが寄せられている。
韓国史と国民倫理が教養の必修科目だった80年代、この2科目は「官製学問」扱いされていた。80年代に大学へ通った人々は現代史への関心が高く、自分が重要だと感じた現代史が欠けている韓国史の講義に背を向け、その隙間に『解放前後史の認識』といったイデオロギー色を帯びた書籍が入り込んだ。国史学界の韓国近現代史研究は、こうした偏向から自由ではない。
そのため、ソウル大学の韓国史必修化が効果を上げるためには、韓国史講座の門戸を国史学だけでなく隣接分野にも開放すべき、という声が上がっている。植民地時代を「収奪と抵抗」の二分法だけで観察し、解放後を「分断韓国史」とだけ捉えてアプローチしていた国史学界の惰性を批判し始めたのが、国文学や経済学、政治学、社会学、法学など他分野の研究者だ。これらの研究者は「都市」「近代」「民主主義」「経済成長」「社会発展」といったキーワードを用いて、韓国近代史を見るさまざまな「眼鏡」を用意した。韓国学中央研究院で「韓国史の理解」という課目を担当している政治学者の李完範(イ・ワンボム)教授は「第1次経済開発は経済学者が、李承晩(イ・スンマン)時代と朴正煕(パク・チョンヒ)時代の比較は政治学者が講義を担当し、かなり効果的だった」と語った。
ソウル大学が必修科目にしようとしている「韓国史」は、「近現代韓国の理解」などの名称にして、国文学や経済学、政治学、社会学、法学など隣接分野の講座開設を許容し、学生たちに選択権を与えるのはどうだろう。韓国現代史の成功と限界を世界の中で客観的に見るチャンスを提供すれば、学生たちも、もう少し多様かつ柔軟な歴史観を持つようになるだろう。カリキュラム開発がさらに進めば、同一の講座内で複数の分野の教授が一緒に教える統合講座を開設することもできる。韓国史教育は、国史学界が独占権を行使する「聖域」ではない。