カテゴリー: 仲正昌樹

仲正昌樹(第10回)

悪質な二流人間が生まれる理由

 「二流大学」という言い方をすると、多くの人は、入試偏差値とか国家試験の合格率等で、「一流大学」よりも格が明らかに落ちるが、底辺ではない、という意味に取るだろう。私が、自分が務める金沢大学が「二流」であると言う時、それとは別の意味“も”込めている。それほど頭が良くない、つまり学問をするための基本的訓練ができておらず、未熟な思考しかできないくせに、そのことを素直に認められない学生が多い、という意味である。教師に言われる前に、自分で学ぶという積極的姿勢も、自分がバカであることを認める謙虚さもないのが、「二流」の学生である。
 当然、東大などの「一流大学」にも、そうしたどうしようもなく「二流」の学生は一定の割合で存在するが、本当の「一流大学」であれば、天才的に頭のいいことがはっきり分かる学生、勉強が根っから好きな学生が周りにいるので、あまり堂々と「バカな自分」を肯定しにくい。いじけるしかない。逆に言えば、バカが堂々と、「私に分かるように教えてくれない教師が悪い」と吹聴して回れるような大学は、たとえ旧帝大・早慶クラスであっても、「一流大学」としての実質を失っている。
 金沢のような所では、バカに対する牽制になりそうな、目立って優れた学生が極めて少ない。いても目立たない。だから、二流の連中が大手を振ってのさばり、ツイッターやLINEを介してバカ仲間を増殖する。
 二流の連中は、自分がバカであることを素直に認められないので、そのことを気付かせようとする教師にすぐに反発し、「ひどい授業だ」と騒ぎ出す。バカ仲間に「そうだ!そうだ!」と言ってもらって、安心する。騒ぐ一方で、自分が基本的なことを知らなかったのを恥じ、ちゃんと勉強するのならまだいいが、二流は、そんな殊勝な人種ではない。騒いで、仲間に“同意”してもらったら、それは自分が学ぶ必要のない事項になる。そうやって、どんどん「知らないでもいいこと」が増えていき、思考停止状態に陥っていく。
 例えば、私のドイツ語の授業で、「彼は彼女の宿題を手伝う」という意味の文を教える前に、「英語でこれどう言ったかな。中学校で習ったろ。まさか未だに、~ help his home work と言うなんで思ってないよね」、と聞く。誰も答えられない。当然、「困ったもんだ」と言う。そういうことを言うと、すぐに「仲正に傷付けられた」とか、「メンタルが相当強くないと、仲正の授業は苦痛だ」、などとツイッターで騒ぐ――オマエは、バカの王国の王子様か!
 こういう奴らの中から、知識人ごっこをして注目を集めたがる、知の乞食が生まれてくるのだろう。ブログやamazonレビューなどで、「批判」と称して著名人の悪口を書き連ね、無理で幼稚な誤読に基づいて、「この程度で大学教授になれるんだ!」と雄叫びを上げ、溜飲を下げたつもりになる、どうしよもない連中のことである。私の出会った最悪の例が、自称文芸批評家の山崎行太郎やその子分格らしいEasy Resistance(第五回参照)、自称IT企業法務担当で民間論客の伊藤晋(第二回参照)などである。
 最近は、この三者に匹敵するほどひどいのはあまり見かけないが、拙著『カール・シュミット入門講義』に関して、余計な話が多くて無駄に長い、などといちゃもんを付ける失礼な輩が、何人かいる。例えば、どこかの大学法学部生で国際政治学・開発途上国研究をやりたいと自己紹介しているposaune724という人物は、読書メーター(http://book.akahoshitakuya.com/u/185582)で、「講義録だから仕方ないんだろうが、もう少し整理して本にしてくれればいいのに。あまり上手くない比喩も入っていて、そういう点では「無駄に」厚い」と述べている。
 講義の記録なので、普通の書き下ろしと同じ調子で整然と論を進めていけないのは事実であるが、余計なことを文章にするはずがない。シュミットのテクストの特定の箇所に大事なことが書かれているので、短い章句に拘り、その解釈の可能性について検討したうえで、私なりの解釈を示すという方針で講義を進めた。文章にする時は、そういう拘りをより正確な形で表現した。そうやって、私なりの「拘りどころ」を示すのが、どうして無駄なのか?そんな無駄のオンパレードのものを、どうして出版社が本にし、法学や思想史の専門家が読んで評価してくれるのか?
 私は、ネームヴァリューだけで無駄な本を出し、他大学の教員に無理に誉めさせることのできるような大物ではない。無駄でないと思ってくれる人たちが一定数いるからこそ、本として出せるのである。一度自分で本を書いたら、そんなことは分かるはずだが、posaune724にはそんな経験などないだろう。経験がなくても、少し考えれば分かりそうなものだが、posaune724は「少し考える」こともできないくらい、頭が悪い奴なのだろう。
 それに、「うまくない比喩」とは何だ! そんなにたくさん比喩は使っていないし、使っている場合は、分かりやすさをかなり考慮に入れている。私の譬えは分かりやすい、と編集者や親しい読者から言われることが多い。そうでなかったら、本を書いて欲しいという依頼が来るはずがない。どこの譬えが気に入らなかったのかしらないが、自分の趣味で勝手に「下手」と断じているとしか思えない。
 結局のところ、posaune724にとっては、自分の頭ですぐに理解できないことは、無駄なのだろう。向学心があれば、自分にはどういうことか分からないけれど、ひょっとしたら何か重要な意味があるかもしれない、と立ち止まって考えるだろう。そういう反省的思考ができないから、著者や編集者の意図、他の読者の評価など一切無視して、「無駄」と断じてしまうのだ。
 posaune724の他の書評を見ると、著名な学者の著作をあまり根拠も示さずに、「すごい」「知的刺激がある」、という感じで持ちあげている。学習能力が枯渇しているくせに、権威主義的になっている最悪の輩と見た。こういうのが、まかり間違って、研究者の道を歩き始めると、いろんな所に、迷惑をかけて回る、山崎のような人間になってしまうだろう。
 一般的に迷惑野郎の中で特にたちが悪いのは、研究者になりそこなった人間だ。そういう輩は、評論家とか、独立研究者を自称する傾向がある。職業的には、塾・予備校講師、大学図書館司書等がそういう手合いがになりやすいようである――私は、そういう職業の連中の匿名書き込みで、被害を受けたことがある。そういう手合いにとって、私のように、二流大学の教員で、たくさん本を書いている人間は、かっこうのターゲットのようである――度胸がないので、一流大学の教授にはいちゃもんを付けられないのだろう。内の大学の二流君たちの中から、この手の迷惑人間が生まれて来るかもしれないと想像すると、本当に憂鬱である。

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tetsugaku

ちくま学芸文庫 ハンナ・アレント『人間の条件』
2013/02/09(土) 第1章
2013/03/09(土) 第2章
2013/04/13(土) 第3章
2013/05/11(土) 第4章
2013/06/08(土) 第5章
2013/07/13(土) 第6章
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仲正昌樹(第9回)

アニメとツイッターと法学と動物化する学生

 前回、前々回と、私の勤めている二流大学の“学生”の生態について述べたが、その後もしつこく「○○も仲正の被害者なの」「なかまさこわい」「なかまさどれだけ嫌われてるん」「俺は中国に逃げるつもりだった」、とか同じようなことをしつこく言い続ける奴が何匹か湧いて出た。法学類だけで、同類が数十匹いそうである。幸い、この連中もさすがにまずいと思ったのが、大半が自分のアカウントにロックをかける――連中は、それを「鍵垢」と呼んでいる――か、悪口のやりとりはLINEに移すかしたようで、このところ、あまりひどいのには出くわさなくなった。
 この間、この手のバカなツイートをしたがる連中を観察している内、何点か共通する特徴があることに気が付いた(ような気がする):①本名に近いアカウントを付け、大学・学類(学部)・学年・所属サークルを表示したがる(=自己顕示欲の中途半端な現われ)、②アニメ・キャラをアイコンにし、しばしばアニメのキャラに言及して、「萌えた!」とか「来たー!」「カッコイイ!」等と幼稚な叫びを発するが、そのアニメについてちゃんと情報交換しているわけではない(=とにかく誰かの注意を惹きたい焦りの現われ)、仲正のような語学や政治思想史のような“役に立たない科目”の先生をけなすのと対照的に、たまに、憲法とか民法などの法学先生とか法学系サークルの先輩を持ちあげる(=虎の威を借る狐の中途半端な権威主義)、そのくせ、「仲正の被害に合っている」というような法学的センスのかけらもなさそうな、不用意な発言をする(=リーガル・マインドの欠如)。
 この四つの特徴から、ツイッターにかじりついている“二流大学の動物たち”の性格を、やや強引に分析する――他人の悪口に群がる蓄群は、少々強引に“分析”してやってもかまわないだろう――と、大凡、以下のような感じになる。連中は、中途半端なプライドの高さと、とにかく誰かにかまってもらえないと不安になってしまう体質を合わせ持っている。そのため、注目されるネタを探すことになる。
 一番てっとり早いのは、BSで深夜に放送している、『進撃の巨人』のようなアニメだろう。しかし、普段から頭を使っていないので、そのアニメについて深く分析することなどできないし、ストーリーさえよく覚えていない。すぐに話題が尽きてしまって、そのアニメについて友人と落ち着いて語り合うことなどできない――そういうオタク友達でもいれば、ツイッターで脈絡のない話を延々と続けたりしないだろう。「キター!」と叫んで、同級生からRTを2~3回獲得するのが、精々であろう。それに、そういうのを言い続けると、バカだというイメージが定着してしまうことくらいは分かる。
 そこで勉強の話もしようとするのだが、受験疲れと「金沢にしか入れなかった」という劣等感で、あまり頭が働かない。(大事なことは先生がプリントを配ってくれるのが当然だと思い込む体質が身に付いているので)授業中ノートを取っていないし、居眠りに近いようなぼーっとした状態を続けているので、授業の高度な中身についてツイートすることなどとてもできない。そこで、私のようなキツイ教員を揶揄し、自分と同じ様に、勉強する気をなくしかけている連中の共感を呼ぼうとする。自分たちが、怠け者なのではなくて、仲正が異様なのだということにしようとする。私は、たくさん本を書いていて、学外に多少は知られているので、ターゲットにちょうどよいようである――普段は、「仲正なんて誰も知らない」というそぶりをしておきながら、悪口のネタとしては利用しようとする。
 私が教えている科目が、ドイツ語と政治思想史であることも、連中が悪口をいいやすい背景にあるようである。ドイツ語なんて履修するのは一年生の間だけのことであり、“運良く”、私のクラスにならずにすんだ奴にはそもそも関係ない。法学類の科目の中で政治思想史は、いらないと見なされている科目のナンバーワンなので、取る必要などないし、学類内でのその教員の発言権など、大したことないと思っている――実際、そうなのだが。だから、気楽に悪口を言う。
 ただ、仲正のようなどうでもいい教員の悪口を言い続けると、やはり、あまり勉強のできない奴というイメージが付く。そこで、六法科目とか行政法、知財法などの、何となく役に立ちそう――本人が勉強しなければ、そういう科目も結局役に立たないのだが、プライドの残骸にしがみついているアホどもはそこまで頭が回らない――な科目の先生を、意味もなく持ち上げる。「仲正の政治思想史は、全然面白くなかったが、民法の不法行為法の授業の最先端の学説を踏まえた紹介は面白かった」的なことを言いたがる。実際には、私の授業には登録しただけで、ほとんど出席しないまま、「不可」か「放棄」になっているので、内容を知りようがないし、民法の授業は、指定教科書の難しそうな見出しを見て適当に想像しているだけなのだが、同じ様なレベルの奴が多いので、その手の話がまかり通ってしまう。
 法学部のある多くの大学でそうであるように、金沢にも法学系の公認サークルがある。そういうところに、登録しておくと、一応勉強のできる奴のように見えるので、名前だけ登録している奴や、実部室でずっとだらけて、だべってばかりいるような奴が多い。やる気のない奴がだべっていると、当然、先に述べたように、仲正のような“不要科目”の教員をけなし、“偉い科目”の教員を持ち上げることによって、“親睦”を図ろうとする。そういうのに限って、ツイッターのプロフィールに所属サークルを書きたがる。法相(法律相談所)と模擬国連に、ゴミが集まっているようである。無論、これらは所属人数が比較的多いので、クズが含まれる可能性が必然的に高くなってしまうということかもしれない。“真面目な学生”の方が多そうな気もするが、ゴミたちがサークル部屋を起点として恥ずかしい話を平然と拡散し続けられるのは、他の学生の“真面目さ”がたいしたものではないからだろう、と私は推測する。
 念のために言っておくと、私は、授業で疑問を感じることがあればいつでも質問に来るように常日頃から言っているし、試験に出る問題を――試験期間に入る前に――事前に予想し、それに対する解答を自分で考えて持ってきたら、出きるだけ速やかに添削する、とまで言っている。にもかかわらず、真面目な質問に来る学生はほとんどいない。それなのに、授業に出ないまま、「政治思想史は勉強する意味はない。仲正は人格破綻者」だという噂が、「法相」と「模擬国連」を起点として拡散し続ける。結局のところ、私をけなし、重要科目の先生を持ち上げるという擬似権威主義的な態度で、中途半端なプライドを保とうとしているのだろう。
 言うまでもないことだが、アニメと擬似権威主義と誹謗中傷が結び付くのは、二流大学の法学類に限ったことではない。多くの大学や会社に、同じようなコンプレックスを抱えて、同じように愚鈍なツイートを繰り返している輩は少なからずいるはずだ。

仲正昌樹(第8回)

何も考えてない“学生”たち

 前回、二流の金沢大学の厄介な学生の話を書いたが、あれが掲載された直後、またまた典型的なバカ学生がツイッターに湧いて出た。
 私は専門の政治思想史の他に、ドイツ語を週二コマ担当している。法学類一年生向けの時間帯である。普通の大学だと、英語と第二外国語の授業は、受験の際に希望を聞いたうえで最初からクラス分けしているが、金沢大学は学生に好きな先生を選ばせるようにしている。私が金沢大に勤め始める前からある制度なので、由来はよく分からないが、学生に授業を選ぶ権利があってしかるべき、という理屈らしい。
 当然、第二外国語は、最も初歩から学ぶわけだから、教えることはほぼ決まっている。教えることが違っていたらおかしい。本来、クラスを選ぶ材料などないはずだが、学生にシラバスを読ませて選ばせるというのが建前になっている。シラバスから分かるのは、その先生が厳しそうかどうかくらいである。シラバス+先輩の噂で決めることになる。先生が、日本人かネイティヴかという違いもあるが、内の大学の学生はそんなことは一切考えない。単純に、単位が取りやすいかどうかだけである。それを、内の大学のお偉方は、学生の主体性を重んじるカリキュラムだと称している。まともな大学ではない。
 私を知っている人には、想像がつくと思うが、私はどの先生よりも厳しめにシラバスを書いている。しかし、具体的に厳しく書いているのは、「三回以上の無断欠席は放棄と見なす」という点だけである。他は、他の先生のシラバスとほとんど違わない――違いようがない。実際の授業でも“厳しい”が、具体的には、宿題をやってこない学生、遅刻がひどい学生、受け答えや挙動からして意識朦朧としている学生に、その都度注意しているだけである。
 そんなの当たり前のことでないといけないはずだが、内の“ゆとり学生”たちは、授業中叱られた経験がほとんどないらしい。また、語学の授業でも五回くらいは、欠席する“権利”があると思っているらしい。そういう“ゆとり君”たちは、ちょっとでも、厳しくされると怨みに思う。ツイッターで怨みがましいことをツブヤク。ご丁寧なことに新入生向けに、「ドイツ語を取るなら、仲正という奴だけはやめておけ」などと書く。それを真に受けて、「他のクラスが定員一杯で、抽選で仲正になったらどうしよう」という話題で、盛り上がる、クズの新入生もいる。
 今年は、そういうクズが三匹湧いて出た。その内、一番ひどい奴は、「ドイツ、抽選で仲正になったらスペインに逃げる!」とツブヤイタ。しかもアホなことに、すごく分かりやすいハンドルネームを付けている。金沢大学法学類の一年で男子という時点で、既に、一〇〇名くらいに絞り込むことができる。そいつは、プロフィールで、自分が関西人であると書いており、ハンドルネームに関西弁らしい語尾を付けているので、ハンドルネームから、誰なのか簡単に分かった。
 このアホに対しては、「私から逃げたかったというのであれば、ちゃんと理由を書きなさい。見ている不特定多数の人は何を想像するか、分からないだろう。私や大学が君の書き込みの波紋によって多大な迷惑を受けたら、責任取れるのか。法学を学んでいるつもりなら、それをやったらどうなるか、帰結をちゃんと考えてから行動しなさい」、というメッセージを送っておいた。そうしたら、すぐに書き込みを消し、その後、なりを潜めている。
 こいつに限らず、最近、すぐにバレそうなハンドルネームで、先生や友人、仕事の関係者などを誹謗し、バレルと大慌てする、ゆとり君が増えている。分かりやすいハンドルネームを付けるのは、自分の存在を多くの人に認め欲しいからだろう。そのハンドルネームで、怒らせたらまずい相手をdisるのは、恐らく、自分ではなく、相手が悪いことを、誰かに認めてもらって安心したいからだろう。分かりやすいハンドルネームで、まずい相手をdisる以上、バレた時のことを覚悟しておくべきだが、その覚悟が全然ない。幼稚だとしか言いようがない。
 内の田舎学生がアホなだけであれば、まだ救いがあるのだが、結構いい大学の学生が、後先考えず、思いつきをツブヤキ、不特定多数の他人の承認(RT)を求める。最近個人的にむかついた例を二件挙げておく。
 一件は、ICUの現役学生と卒業生で編集者をしているらしい二人の会話。どちらも政治思想史関係のゼミ出身らしい。「千葉眞先生と川崎修先生にお会いしたけど、二人とも私のような若輩にも敬語で接してくださり、本当に腰が低い。すばらしい人格の方たちだ。それに引きかえ、仲正先生は人格がゆがんでいるとしか…(笑)」、という。千葉さんや川崎さんを尊敬するのは勝手だが、どうして突然私を引き合いに出し、disるのか。当然、私はこの連中と全く面識はない。私の本の後書きなどから、勝手に連想したのだろう。仲正などどうせ小者だからdisって大丈夫だと思ったのだろうが、知らない人間についてこういうことをツブヤク自分の人格についてどう思っているのだろうか? そんなことで、院生や人文系編集者とやっていけると思っているのか?
 もう一件は、三月に出した私の著書『カール・シュミット入門講義』をめぐる、東大駒場の院生と、もう一人の院生らしき人物の会話。片方は、プロフィールに実名らしきものを載せている。彼らは、私を直接disったというよりは、私の本を某サイトで紹介した某経済評論家をdisったのであるが、どうも私までdisりたりような口ぶりだった。要は、その評論家がシュミットを理解していないので、自分たちが正しいシュミット像を示し、名を挙げたいということなのだろうが、私に対する扱いがひどくぞんざいだ。「仲正氏の本未読だが、まあ、○○の問題に関してはシュミットはかなり誤解されていて…」という調子である。これだったら、仲正なんて素養がないから、どうせこの評者と同じ様に誤読しているんだろ、読まなくても分かる、と言わんばかりである。著者である私に対して多少なりとも、学問的な敬意をはらうつもりがあるなら、最低限、「後で仲正氏の本そのものに当たって確かめないといけない」くらいは言うだろう。
 法哲学・法思想系の難しい理論を囓った学生には、自分も偉い人間になったつもりになり、「まあ、○○さんの△△理解は…」とか言いたがるのが、少なくない。飲み屋や喫茶店で言うのなら別に構わないのだが、ツイッターで公言すれば、その○○さんを敵に回すことになる。私のようなのは小者なので、敵に回したって構わないと思っているのだろう。だったら、こっちも遠慮しないぞ、という気になる。
 欲求不満を解消するためにツイッターで他人をdisり続けていると、思考停止してしまって、どんどんバカになっていくのか。そもそも元々バカで不安定な奴が、ツイッターにへばりつくのか。こういうのが大学にどんどん増えているかと思うと、本当に憂鬱である。

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ちくま学芸文庫 ハンナ・アレント『人間の条件』
2013/02/09(土) 第1章
2013/03/09(土) 第2章
2013/04/13(土) 第3章
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2013/07/13(土) 第6章
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仲正昌樹(第7回)

二流大学の厄介な学生

 私は二流大学で金沢大学の法学類という所に務めている。二流大学と言うと、最近の大学事情をあまり知らない年配の人から、「金沢ほどの大学がそんなにレベル低いことないでしょう。卑下しすぎ」、とか言われる。
 それは、「国立大学に通うだけで優秀」というのが常識だった、団塊の世代の感覚である。中には、金沢という固有名詞から、高級そうな感じを抱く人もいるようだが、加賀百万石とか旧制四校とかのイメージを、今の金沢大学に投影するのは全く見当外れである。そういう見当外れの感覚の人と、金沢大学について話をすると、疲れる。
 大学の格付けについての、業界人の大凡の常識を紹介しておこう。国立大学の中では、戦前帝国大学だった、東大、京大、東北大、九大、阪大、北大、名大は、当然別格扱いである。金沢は戦前、この七大学に京城帝大、台北帝大の二つを加えた九つに次いで、十番目の帝大になる可能性があったが、そうならなかった。だとすると、国立大の八位になりそうだが、戦後、文部省(現文科省)が、神大、筑波大、広大などを拠点大学として優遇したせいで、金沢は、何となくこれらの下に位置付けられる感じになった。
 そこに更に、理系だと東工大や医科歯科大、文系だと一橋大という専門に特化した大学が入って来る。文科省の運営交付金の配分額から見ると、金沢は八十六ある国立大学中の十二~十五位くらいである。よくて、十二位というのが常識だろう。
 私大や公立大を加えて考えると、更に順位は下がる。私大の多くは文系中心なので、金沢大でも理系は、十二位からさほど下がらないが、文系の順位はぐっと下がる。理系の場合、実験設備や病院などの施設の関係があるので、順位が変動しにくいが、文系の場合、良い所にキャンパスを作り、それなりに優秀な教員をいい待遇で呼んでくれば、それで“いい大学”になる。七〇年代から八〇年代にかけて、金沢文系はいくつかの私大に、抜かれてしまったと見るべきだろう。
 早慶に負けているのは当然のこととして、首都圏のMARCHや関西の関関同立などより、金沢が上だと言い切るのは難しいだろう。公立大だと、首都大や大阪市大は、金沢より上と考えるのが普通だろう。金沢大の教員で、これらの大学から招聘されて移動する人は結構いるが、その逆はあまりいない。そうすると、十一位下げて、二十三位になる。
 MARCHや関関同立の一部よりは上ではという見方もできなくはないが、戦後、金沢とほぼ同時期に国立になった旧六と呼ばれるグループの中で、(首都圏の)千葉や(新幹線で京阪と直通している)岡山は入試のレベルでは、金沢より若干人気が高い。単純に受験生の人気だけで言うと、横国にも負けている。文系でも当然、分野ごとにばらつきがあるが、全国で二十位以内に入っている、と自信を持って言える分野はないだろう。
 そういう風にリアルに考えてみると、決して一流大学ではない。二流だとはっきり認め、二流大学の教員にすぎない自分の分を弁えた方がいい、と私は思っている――三流でないだけまだまし、ということでもある。
 しかし学生の中には、その現実を認められることができなさそうな奴が少なからずいる。端的に言うと、名古屋や神戸に行く実力がなくて、不承不承金沢に入学したような連中である。そういうのは、“プライド”だけは高い。授業でそういう奴に、出くわすと厄介である。不快な目に遭うことも少なくない。
 何故、厄介かというと、自分は勉強ができない、授業が分からない、授業に身が入らない、という事実を素直に認められない。全て、教師のせいにしようとする。当然、厳しい教師は、嫌われる。嫌われること自体は、かまわないのだが、教師の人格がおかしいことにする。変人なので、自分の趣味でわざと難しいことを教えているとか、できるはずのない過大な宿題を出している、とかいう話にしてしまう。
 私は、政治思想史のほか、法学類の一年生のドイツ語も担当している。語学教師を真面目にやれば、恨まれやすい。私は、ごく普通のドイツ語教科書を使い、一年かけてちょうど終わるようにやっている。そんなに変わったことはやっていない。厳しいとすれば、予め担当箇所を決めたりせず、授業中に何度もランダムに当てること、訳読は基本的にやらず、ドイツ語の文章を口頭で言わせるよう徹底していることくらいだろう。ちゃんと身に付くように教えようとすれば、当たり前のことである。しかし、学生はそれが不当だ、という。自分にとって厳しかったら、全て“不当”なのだろう。
 他のドイツ語クラスや中国語クラスより厳しそうなので、不当だと言う奴もいる。教師が設定している目標が低く、大して身に付かなくても合格点が付くようなゆるい授業をやれば、やさしくなるのは当然だ。そのクラスで学んだことにより、最終的にどの程度その言語が身に付いたかを基準にして、授業の良し悪しを言うのであれば、全うであるが、私の悪口をツイッターでいいふらしているような奴は、そんなことは全く考えていない。今の自分にとってキツイ授業をやるのは、“悪い先生”である。
 あと、私は、宿題をやってこなかったため私の問いに答えられない学生、寝ぼけていて見当外れの返答をする学生にちゃんと指摘し、注意するようにしているが、それも気に入らないようである。人格を傷つけられたと思うらしい。やるべきことをやっていない自分が悪いとは、全然思わないのである。恐らく、「私は優秀なはずだ。優秀な私が答えられないのは、仲正が悪いんだ」、と脊髄反射的に判断するのだろう。そう思い込んでいるとしか思えない書き込みをツイッターや2ちゃんねる等でしばしば見かける。そういう書き込みをしている奴は、ハンドルネームや書いている内容からほぼ特定できるのだが、バレるとは思っていないらしい。それが、“優秀”な奴のやることか!
 私は結構たくさん本を書いているので、首都圏や近畿圏の真面目な学生で、私の名前を知っている人はそれなりにいる。ウチのアホたちでも、学外の友人との会話や、ネット上での――それほどネガティヴでない学術的な――噂から、私が多少世の中的に知られている、という情報を仕入れてくることがあるようだ。しかし、連中は、“悪い先生である仲正”が、学外で結構名が知られている、という事実を認めたくない。「仲正なんて、学内じゃ全然知られていない。それは仲正自身に大して実力がないからだ。多分仲正は、自分がすごい先生であるかのように、外でほらふいて回っているんだろう」、ということにしてしまう――どんなほらをふいていると想像しているのか、私にはあまり想像できないが。自分たちにとって“悪い先生”が、世間的に評価されるがはずがないのである。
 私のようなのが、“悪い先生”であるのに対し、全然準備しないで教室でぼうっとしている学生に、その場でちょっとしたアドバイスしてやるだけで、すごい議論ができるようにしてくれる、サンデル先生のようなタイプの先生――言い換えると、田舎の高校生がイメージする“カリスマ予備校講師”のような先生――が“いい先生”であるようだ。
 自習しない人間が、ちょっとこつを教えてもらっただけで、“教師もびっくりするようなすごい意見を言う優秀な学生”になるはずなどないのだが、最近の大学教師には、「私のアドバイスを聞けば、短時間でみるみる実力がつく」式のことを平気で言うのがいる――学問に王道なし、というフレーズを知らないのだろう。プライドだけ高い奴は、そういうのにすぐ飛びつく。そのせいで、私のようなのは、ますます“悪い先生”になる。
 勉強関係での教師の悪口はまだいい。私は、図書館でおしゃべりしている学生を見つけると、注意することにしているが、それが気に入らないで、「仲正は変人だ」、とツブヤクアホがいる。ある時、図書館で調べものをしていたら、担当しているクラスの学生に、「質問があります」、と話かけられたので、「ここで話をしては、まずいので……」と小声で言って、小走りきみにその学生をつれて談話ルームへ入っていったことがある。そしたら、その一時間くらい後に、以前に私におしゃべりを注意されたらしい奴が、「仲正、この前は学生が図書館で話しをしているのを怒っていたのに、さっき走っていた。矛盾した。今なら論破できそうな気がする」、とツブヤイタ。こいつの頭はどうなっているのか?「矛盾」という言葉の意味を理解しているのか? 仮に、おしゃべり=走る、ということだとしても、多くの人がいる図書館の中で何十メートルも猛ダッシュで騒音をまき散らすような走り方ができるはずないだろう。“優秀な私に注意し、プライドを傷つけた仲正”は許せないとかねてから思っていたので、目の前で見たことをねじ曲げ、難癖を付けようとしたのだろう。
 その他、喫煙スペース以外のところで煙草を吸う奴とか、校舎の前でスケボーをする奴、花火をあげる奴など、ひどいのはたくさんいる。ごく少数ではあるが、授業中に立ち歩くやつとか、携帯で会話をする奴などもいる。これが、一流大学だろうか?

仲正昌樹(第6回)

「哲学を学んだ」と称するクズども

 ネット上で哲学・思想書の著者を――その本自体をよく読まないまま――バカ呼ばわりしたり、思想関係の講演会・トークセッションに出かけていって質問タイムに、「あなたは肝心なことが分かっていない!」と叫んで、一人で悦に入っているようなバカの多くは、「私は哲学を学んだ」と主張する。「ちゃんとした哲学」を学んだので、似非哲学研究者、似非思想史家を見抜けるという前提に立っているのだろう。こういう輩は、そういう見苦しい振る舞いをすることで、自分自身が何重もの意味で“非哲学的”な人間であることを実証していることに気付いていないのだろうか?
 先ず、どうして哲学書を読んだり、講演やトークセッションを聴きに行くのだろうか? 無礼なクズ連中が、自分自身の中で、「哲学するとはどういうことか」について明確な基準を持っているとしたら、“哲学”に関して他人から教えてもらうことなどないはずだ。
 最も本来の意味での「哲学」は、自分にとって本質的な問いであることをとことん追求することである。自分でそういう問いを見つけて、既に探求しているのであれば、他人から何かを教えてもらう必要などないはずである。「私は哲学を学んだ」と称する人間が、他人の見解を気にすること自体がそもそもおかしいし、その見解が気に入らないからといって、不特定多数の第三者に宣伝して回るのは、尚更おかしい。自分自身の「哲学」にとって時間の無駄であるうえ、他人が「哲学する」のを妨害し、不快感を与えている。そんなことが分からないバカには、「哲学を学んだ」と称する資格はない。
 他人の考え方を参照することが必要になるのは、①自分に取っての本質的な問いが何となくあるのだが、うまく言葉にできない場合、②どのように自分の考えを進めていったらいいのか、うまく論理的に整理できない場合――のいずれかである。世の中で“専門的な哲学者”として通っているのは、この二つの側面において、的確に言葉を操ることができる(と多くの人から認められている)達人である。
 大学で学科として教えられ、研究されている学問としての「哲学」、狭義の「哲学」は、その人たちが“達人”であるように見えるのは何故か、どうやったら、その“達人たちの言葉”を更に完成度の高いものにすることができるのかを探求する営みである。当然、そういう学問的探求は、既に成されている研究(先行研究)を下敷きにして、特定の方向へと専門化していくものなので、各人の哲学的関心とはズレる可能性が高い。哲学書を読んだり、大学等での哲学に関する講義を聴いたりする際には、その当然のことを心得ておくべきである。それを心得ないまま、「本質を外している!哲学ではない!」、とわめくのは、ただの駄々っ子である。自分が見たいTV番組がないといって泣きわめているのと、同じレベルである。
 無論、学問としての哲学を研究している学者も、基本的に普通の人間なので、職業としてやっている部分、名誉のためにやっている部分はある。しかし、それは読者、観衆の側が明確な問題意識を持っていさえすれば、どうでもいいことのはずである。作家や芸術家が俗物であることと、作品の善し悪しが関係ないのと同じことである。要は、学問としての哲学の成果を、正確に紹介しているか否かであって、哲学する“動機”ではない。そもそも他人の動機がどうして分かるのか?自分が買った哲学書の著者が、自分の関心と違ったことを書いているからといって、「この著者は、本当の哲学が分かっていない。金儲けのために書いている!」、「哲学学しかやっていない。お仲間サークルでやっている哲学学を哲学と勘違いするな!」、などと決め付けるのは、哲学的真理を探究しようとしている人間の態度ではない。自分自身がどうしようもない俗物で、知的ルサンチマンの塊だから、そういう、どうでもいいはずのことが気になってしまうのである。
 哲学に限らず、知的刺激を求めて、本を読んだり、講演会に出かける人であれば、どんなつまらない本や講義・講演でも、某か発見があるはずである。どこかで聴いたような話でも、細部までよく観察すれば、その人の独自性を発見できるはずである。仮に論者が学問的に全く見当外れのことを言ったとしても、その意見がどうして見当を「外れ」たのか――安易に「見当外れ」と決め付けるのは、ただの傲慢である――考えようとするはずである。
 私自身、感触的にはあまり印象を持てない本を読んだり、他人の学会・研究会報告を聴いたりしていて、いろいろ発見するところがある。むしろ、ヘンテコな意見、下手なプレゼンから刺激を受けることの方が多いくらいである――無論、私はその時の直観で、「君は学問的になっていない」などと決め付けたりしない。ちゃんとした本であれば、新たな知識を得られ、頭の整理をする助けになるし、そうでない本からも、刺激を受けられる、と思って、じっくり読もうとする姿勢がない人間は、人文系の学問には向いてない――これは断言してよいだろう。
 自分が興味を持てないからといって、すぐに集中力をなくして、読み飛ばしたり、居眠りしたりしておきながら、「退屈だった。金(あるいは、時間)返せって感じ!」、などとわめくのは、ゲスの極みとしか言いようがない。この手の人間は、本当の意味での知的好奇心とそれに裏打ちされた知的集中力を持っておらず、単に、自分が「物知り」であることを確認したいだけである。あるいは、速攻で“物知り”になって、誰かに自慢したいだけである。そんなクズは、何を読んでも、何を聴いても同じである。自分にとっての、“明日からでも利用できるトリビア知識”が手軽に得られれば、「感動した!」と言い、そうでなかったら、「こいつは似非知識人だ!時間の無駄だ!」、と吠えるだけである。脊髄反射人間である。ご当人たちは、そのことに気付いていない。あるいは、内心分かっていても、全て、著者、講演者のせいにする。
 Amazonの「レビュー」もどきで、やたらと私の本をけなし、アンチ仲正連中――対して有名人でもない私のアンチになるような連中は、知的ルサンチマンが充満した相当のひま人なのだろう――から、「賛成」ポイントを稼ごうとする、「モワノンプリュ」「古本屋A」「建具屋の半公」「ゆみこ」「アレルゲン」などは、まさに、「物知り」ぶりたいだけのどうしようもない連中である。
 「アレルゲン」は、あろうことか、「仲正氏は、アーレントについての望ましくない解釈を日本に広めようとしている…」と、読者に警鐘(?)を鳴らしているが、何様のつもりか?「正しい思想の検閲官」にでもなったつもりか?そもそもアレルゲンが、仲正のアーレント解釈だとしているものは、私が説明に使っている言葉を、彼なりの日本語感覚で曲解して、ねつ造したものにすぎない。
 それで、「あなたのアーレント解釈を世に示したいのなら、勝手にやればいい。しかし、強引に私を曲解し、引用もどきをしないでもらいたい。私を引き合いに出したいのなら、どこでどういう風に私が間違っているのか、ちゃんとした引用をしなさい」、と抗議のメールを送った。そうしたら、「そんな学問的な厳密さを要求されたら、一般読者は論評できなくなる。それは検閲です」、などというふざけた返答を寄越してきた。「検閲官」を演じているのはそっちだろう!「望ましくない解釈を日本に広めようとしている」、とまで言い切って、人を害虫扱いするのなら、学問的にもきちんと論証するのが、最低限の礼儀であろう。
 アレルゲンは、「私は、自分が正しいアーレント解釈をしているという深い確信があります」、とも言っていたが、だったらどうして、きちんと論証もできないのに、他人に警鐘を鳴らしたりするのだろうか?
 こうした、自称「哲学好き」がどんどん増えていて、そういうのを想定読者として本を作ろうとする、あさましい人文系出版社・編集者も増えているので、本当にうんざりする。

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tetsugaku

ちくま学芸文庫 ハンナ・アレント『人間の条件』
2013/02/09(土) 第1章
2013/03/09(土) 第2章
2013/04/13(土) 第3章
2013/05/11(土) 第4章
2013/06/08(土) 第5章
2013/07/13(土) 第6章
講 師:仲正昌樹 →amazonで著書をみる

主 催:rengoDMS - 連合設計社市谷建築事務所

協 賛:作品社
受講料:各回 500円

時 間 : 開場17:45 講義18:00-20:00

ところ : rengoDMSホール / 〒102-0071 東京都千代田区富士見2-13-7 (googleマップ)

予 約 : こちらのフォームからご連絡ください。

当日受付も可能です。(満席の場合、ご予約されている方を優先いたします。)

仲正昌樹(第5回)

中傷誹謗も“コミュニケーション”?!

 ネット上で学者や知識人を中傷誹謗し、論破したつもりになって、悦に入っている輩の多くは、論壇ごっこをやることで、自分に注目を集め、あわよくば、“論客”としてデビューすることを狙っている。「インチキ知識人の正体を暴ける、真にすぐれた知性を持っている私は、もっと認められてしかるべきだ」、ということなのだろう。
 そうやって騒ぎを起こすことで、マスコミや出版社、ジャーナリスト、自分が“批判”している知識人と対立関係にある他の知識人から認められることを狙っているのなら、(浅ましい欲望を抱いているということが)「分かりやすい」のだが、中には、罵倒している相手と“コミュニーション”しているつもりになっている、本当に理解しがたい輩もいる。
 三年半ぐらい前に、山崎という自称文芸評論家が自分のブログ、私(=仲正)が統一教会の偽装脱会信者であるという前提で誹謗中傷——私は元統一教会信者であるが、偽装脱会ではないし、そのようなことを示唆する証拠などない——を書き込み、私の大学のHPに出ている私の顔写真を貼り付け、「正体暴露(笑)!」、などと大騒ぎしたことがある。この狂人は、ネットに出ている私に関する、いくつかの誹謗中傷記事などを検索してきて、それに自分の妄想を加味して、話をどんどん膨らませていく。当人は、私の秘密を暴いたつもりでいるらしい。
 元統一教会信者であるというのは、自分で言っていることなので、何の秘密でもない。ネットに出ている正確な情報は、ほぼ全て私自身がソースである。しかし、バカは、自分がそれまで知らなかった情報にネット上で出くわすと、“秘密”を発見したつもりになるらしい。山崎はその典型である。そこまで頭の弱いバカは、病気としか思えない。
 しばらく経つと、私の大学の事務局から、HPの教員情報の無断使用は違法であるとの警告が来たらしく、私の写真を削除し、多少はおとなしくなった。そしたら、今度は、その山崎の“ファン”で、山崎同様に小沢一郎を崇拝しているという、山崎に更に輪をかけたようなアホが、また蒸し返した。Easy Resistanceというハンドル名を付けているこのアホは、「山崎先生のブログが面白い。最近では、仲正という金沢大学の教授が、統一教会を偽装脱会したことを暴露し、顔写真まで公開しておられる。今後の展開が楽しみだ…」と、自分のブログに書き込んだ。当然のことながら、山崎の妄想を鵜呑みにし、面白がっているだけである。本当に安易である。
 山崎本人がバカのマックスだと思っていたが、他人を中傷誹謗する記事を見て、何の考えもなく、「〜楽しみだ」と平気で書いてしまう感覚は、別の意味で信じがたい。まさに、2ちゃん脳である。
 これには、これでかなり腹が立ったので、「どういうつもりで、根拠のない妄想混じりの中傷誹謗を鵜呑みにして、コピペするのか? この抗議を無視したうえ、『仲正から抗議が来た!やはり山崎先生は正しかった』等と、騒ぎたいのであれば、勝手にやりなさい。それは、君の人格の証明になる」と、抗議してやった。すると、この安直なアホは、「私が妄想を信じているなんて、それこそあなたの妄想ですね(笑)。それにしても、初めての相手を『君』と呼ぶなんて、それこそあなたの人格が…」、という全くもってふざけた文を、私にメールで返信するのではなく、自分のブログに載せた。
 これが正気の人間の言い分か?信じてもいないのに、見ず知らずの他人に関するネガティヴ情報をコピペし、煽るのは、妄想して誹謗中傷するのよりも更に悪質である。このアホはその程度のことも理解できないのか?どういう教育を受けてきたのか?
 それよりも更におかしいのは、自分は見ず知らずの他人に関する誹謗中傷をコピペして面白がっておきながら、その誹謗中傷した相手に対して、「初めての相手を『君』と呼ぶなんて…」、と平然と言い放つのはどういう感覚か?根拠もなく誹謗中傷されたら、怒って当たり前である。「君」なんて、かなり上品な方である。普段は冷静で紳士的な人でも、「おいおまえ、いいかげんにしろよ!」くらいは言うだろう。
 自分自身は、真偽が全く定かでない伝聞情報に基づいて相手を誹謗しておきながら、その誹謗した相手に、“コミュニケーションのマナー”を説こうとするというのは、一体どういう思考回路か? 自分が他人に迷惑をかけ、不快感を与えていることに一切気付かない——そのくせ、他人から何か言われると、どうして「そんなことを言うの!」と、くってかかる——タイプの自己チュー人間か、それとも、有名人、知識人、大学教授は、匿名の一般人に罵倒されても、丁寧に応答する義務があるというルールがあるものと勝手に思い込んでいるのか?
 この安直野郎に限らず、ブログやツイッターで自分を売り込むことに一所懸命の自称論客たちには、学者、知識人を誤情報・誤読に基づいて一方的に罵倒しながら、その相手に「まともなコミュニケーション」をするよう要求する、おかしな輩が多い。
 他人の文章を曲解して、「これは、仲正氏の理解の未熟さを示している。こういう人物が、国立大学教授として言論活動しているのは嘆かわしい。勉強し直してほしい」、と失礼極まりないことを書いておきながら、抗議すると、「誹謗中傷するつもりなどない。誤解だ!」とか、「私は先生から建設的な批判を頂きたいと思っていたのに残念です!」、とか、急に“まともで礼儀正しい人間”になったかのような返信をしてくる。
 こういうことを書くと、同じ様な思考パターンをしているどこかのバカが、また曲解するかもしれない——本当のバカには何を言ってもムダだろうが——ので、念のために言っておくと、私が活字にして書いたことや、公の場で発言したことを、揚げ足とりにはならないような形で、批判するのは全然問題ない。そういう批判であれば、きちんと応答する。問題は、「未熟だ」とか「国立大学教授として言論活動しているのが嘆かわしい」とか「勉強し直してほしい」とか、相手の人格を否定するような文句を並べ立てて、誹謗中傷を拡散させようとすることである。このような煽りをする相手とは、たとえ、一理ある批判をしていたとしても、まともに対話することなどできない——ほとんどの場合、誤解・誤読に基づく“批判”であるか、そもそも批判ではなく、人格攻撃だけを目的にしているわけであるが。
 想像するに、多少は名前の知られている人間を、「不勉強・無知・鈍感!」扱いして切り捨てるような、派手なコメントでないと、注目を集められないと思っているのだろうが、それはとりも直さず、その誹謗している人物を、「敵」に廻すことである。「敵」とコミュニケーションすることはできない。根拠皆無の罵倒をされても、その罵倒する相手とちゃんとコミュニケーションしようとする、聖人君子のような知識人もいるだろうが、それはごく少数だろう。少なくとも私の知り合いには、そこまで心の広い人はいない。
 二年半くらい前に、京都で南アフリカ出身のケントリッジという芸術家を囲む「ワークショップ」が行われ、そのパネリストの一人として私も呼ばれたことがある。ご本人と、「ワークショップ」を企画した専門家はその場でのやりとりに満足していたようなのだが、司会がフロアーからの質問を受け付けなかったことに不満を持った人間が数人いたようだ。その手の連中を“代表”する阿部和壁という自称美術ライターがツイッターで、「あの場は、本来、ケントリッジと若手のアーティストとの対話の場になるはずだった。なのに、パネリストの大学教授たちが見当外れのぐだぐだのコメントをしたので、台無しになった。ケントリッジも大分うんざりしているように見えた。私の知っている若手アーティストと話したが、みんな、そういう感想を持っていた」、とつぶやいた。ブログには、その悪口と恨み言をもう少し長めに書いてあった。本当に悪口と恨み言だけなのだが、それに同調してリツイートする、バカな“現代アート関係者”が数名いた。中には、「いいこと言っておられます」、と言っているアホもいた。パネリストの具体的な発言を批判しているわけではなく、単に、「俺達にも発言させろ(≒目立たせろ)!」と言っているだけなのに、「いいこと」と言ってしまうのだから、相当おつむが弱い。
 現代アートには、サヨクと同じ系統の人種が多いので、サヨク集会と同じ様な反応をする輩がいるのはある程度予想できたが、「本来、若手のアーティストとの対話の場」だというのが、かちんと来た。どうして、そういうことになってしまうのか?多分、「ワークショップ」を冠したイベントだったので、そういうことを連想したのだろうが、紹介のパンフレットを見れば、むしろシンポジウム的な性格のものだということは分かったはずである。仮に、誤解して共同作業的なことを連想したとしても、どうして「若手の現代アーティスト」が特別なのか?
 独善的な言い分に腹が立ったので、「あなたの言う若手アーティストとの対話集会なるものをやりたかったのなら、そういう場を設けてほしいと主催者に要望すべきだろう。自分たちに発言の機会がなかったのを、パネリストとして呼ばれてきた人たちのせいにして、誹謗するのは筋違いだろう。そもそも、あなたは、私たちの発言のどれがどうおかしいと具体的に指摘できていないだろう。自分が理解できないからといって、グダグダだと言って切り捨てるような独善的な態度で、どうして美術系ライターなんてやっていられるんだ。そういう態度を改めない限り、話にならない。改めるつもりがないのなら、あなたのブログは目の汚れなので、二度と見ないことにする」、という抗議文をメールで送った。
 すると阿部から、「あの場には、ケントリッジに会いたいと思っていた若手がいたのですよ…」、という、サヨクっぽい独善的な返信が来た。まるで、ケントリッジは革命の闘士で、日本の同士たちに会いに来た、と言わんばかりである。無論、たとえ革命の闘士を招いてのシンポジウムだとしても、その闘士と学者やジャーナリストが語り合うという設定であれば、日本の“若い同士”たちが特別の発言権を持てるわけではない。「若手のアーティスト」や「美術系ライター」なるものは、主催者の意図を無視して、企画を作り変えるだけの特権を持った特別の存在なのか?“革命”でもやりたかったのかもしれないが、“革命”をやりたい人間が、その場で企画破壊をする勇気を持てず、後になってツイッターで愚痴るというのは、まったくもってなさけない話である。
 しかも、この阿部は、それだけわがままな悪態をついたにも関わらず、私への返信の中で、「私は現代思想ではコミュニケーションが最も大事だと思っています。私との対話を拒否されるのは残念です」、と勝手なことを言う。発言内容を批判するわけでもなく、単に邪魔者扱いで罵倒した相手に対し、「コミュニケーションが大事だ…」としゃあしゃあと言ってのけるとは、どういう感覚か?せめて、「一方的に失礼なことを言って申し訳ありませんでした…」くらい言わないと、話にならないだろう。
 相手をコミュニケーション不可能な「敵」と見なし、敵対する気がないのなら、相手の言った中身を批判することに自己限定し、人格攻撃と取られるような余計なことを言うべきではないが、そんな基本的なことが分からないのか?
 自分の親や学校の先生なら、許してもらえるかもしれないが、本や新聞、雑誌での発言を読んで知っているだけの知識人は、親でも先生でもない。私の大学の学生の中には、愛嬌のつもりか、先生に関するひどい悪口をツイッターに書いているのがいるが、それと同じ様な感覚なのかもしれない。無論、高校生までと違って、大学生は基本的に大人であり、大学の先生と学生の関係は、クラスごとに授業を受ける学校ほど密ではない。よほど親しい先生でない限り、根拠のない噂を流したり、人格攻撃するかのようなフレーズを拡散させたりしたら、名誉毀損で訴えられても仕方ない。
 お子さま感覚で“コミュニケーション”を求める自称論客の増殖には、本当にうんざりする。

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tetsugaku

ハンナ・アレント『人間の条件』第1章 2013/02/09(土) 会費¥500-
ハンナ・アレント『人間の条件』第2章 2013/03/09(土) 会費¥500-
ハンナ・アレント『人間の条件』第3章 2013/04/13(土) 会費¥500-
ハンナ・アレント『人間の条件』第4章 2013/05/11(土) 会費¥500-
ハンナ・アレント『人間の条件』第5章 2013/06/08(土) 会費¥500-
ハンナ・アレント『人間の条件』第6章 2013/07/13(土) 会費¥500-

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仲正昌樹(第4回)

バカの一つ覚え
 
 第一回にも話題にしたように、ネット上には、知識人や学者を執拗に攻撃し、「こんなので、○○大学教授をやっているなんて…」とツブヤき、溜飲を下げたつもりになっている輩がいる。そうやって罵倒することで、暗に、「こんな奴より、私の方がはるかに優秀だ。その優秀な私が評価されないのは、世の中間違っている!」、と言いたいわけである。
 自分が優秀だと証明したいのなら、ちゃんとした論文あるいは評論の形で、独創的な議論を展開し、(まともな知識人や編集者から)注目を集めることに力を注げばよさそうなものだが、それだけの自信がないのだろう。あるいは、既に試みて挫折したのかもしれない。それで、ある程度名前が知られている知識人の文章の粗を必死になって探し、“批判”もどきをすることに終始することになる。
 「粗を発見する」ことが大前提になっているので、とんでもない誤読をしがちである。しかし、本人は、まともな知的訓練を受けていないので、誤読だと思わない。というより、何が誤読なのかさえ分かっていない。だから無邪気に、自分の目から見て“学者の無知”のように見えるものを“発見”し、鬼の首を取ったような気分になれる。バカげた振る舞いなのだが、その手の“自称論客”をフォローし、“情報”交換しているのは、同じ様な人種なので、同じ様な早とちりで、すぐに“賛同”する。「こんなバカが学者をしているなんて…」というフレーズで共感し合う。それが、快感なのだろう。
 この手の人たちに一般的に見られる傾向として、「バカの一つ覚え」がある。自分が学校あるいは大学で、尊敬する先生に“教えてもらったこと”、あるいは、有名な学者が本で書いている文章から“感銘を受けたこと”を、金科玉条扱いする。無論、ほとんどの場合、“教えてもらったこと”あるいは“感銘受けたこと”は、本人の頭の中でかなり単純化され、歪曲されている。
 にもかかわらず、その単純化、歪曲された“金科玉条”を、“似非知識人”に対する批判に応用しようとする。例えば、尊敬する先生が、「文章を書くときは、自分の考えをはっきり述べないといけない。他人の考えをコピペしただけの文章は読むに値しない」と教えてくれたとする。「自分の考えをはっきり述べる」というのが、具体的にどういうことを指しているのかは、その先生がどういう種類の文章を念頭において発言したのか、文脈を特定しないと分からない。というより、ほとんど意味をなさない。「自分の考えをはっきり述べる」というフレーズ自体が、かなり言い古されている。
 しかし、バカにはそれが分からない。『○○哲学入門』という本を読んだ感想として、「この著者はひたすら過去の偉大な哲学者の言葉を紹介するだけで、自分の考えを述べようとしない。こんなのは、学者と呼ぶには値しないと、尊敬する△△先生もおっしゃっていた」、と平気でツブやく。入門書もしくは教科書を“読んだ後”――本当に“読んだ”と言えるほどの知的作業を行っているかどうかさえ怪しいが――で、そんなことをツブヤくのは全くもって見当外れなのだが、バカには、そういう当たり前のことさえ分からない。
 そもそも、入門書や教科書であっても、書き手自身の考えが全く反映されていないなどということはあり得ない。同じ主題について全く同じ事を述べているように見える文章でも、比べてみると、書き手ごとの癖、考え方の違い、場合によっては、学問観が見て取れることが少なくない。更に言えば、分かり切った話でも、書き方によっては、読者に新しい視点を与えてくれることがある。細部の違いに注目することが、大きな発見に繋がることもある。
 優秀な人間は、そういう発見をするものだが、バカにはそんな発見ができるわけがない。自分が、既に知っているようなことしか書かれていなかったら、「この著者は無能だ。こんなのは、私でも書ける」と即断する。では、本当に書けるのか、自分の言葉で説明できるのかというと、当然、無理である。「それだけ分かっているのなら、何がポイントなのか要約して説明して下さい」、と言われても、ほとんど何も答えられない。分かったつもりになっていただけである。
 ひょっとすると、やはりどこぞの偉い先生に、「分かり切ったことしか書けない奴は無能だ。読者がつまらないと思うのは、その著者に書く力量がないからだ」、と“教えて”もらったのかもしれない。そんなことをマジで言っているとしたら、その“偉い先生”自身相当のバカである。
 先ほどの教科書の話よりも、一見多少まともに見える「バカの一つの覚え」のありがちなパターンに、「○○の△△論は、既に□□の▽▽論によって論破され、完全に過去のものになっているはずだ。それを未だに言っている◎◎は全然ダメだ」、という言い方がある。多くの場合、その手のことを言うのは、論争している一方の陣営の誰かである。端から信用することはできない。バカは、その手の発言の孫引きの孫引きくらいのものを、どこかで仕入れてくる。そして、それが既定事実になっていると単純に思い込む。何故、その人の発言が学術的に信頼できるのか、と聴かれても、答えられない。多分、“信頼できる偉い先生”の発言なのだろう。その手の孫引きの孫引きの孫引きは、当然のことながら、かなり歪んで、単純化されている。
 私にとって多少馴染みのある分野だと、「ポストモダンの欺瞞性は、ソーカル事件によって完全に露呈され、ポストモダニストたちは完全に論破された」、という言い古された言い方がある。2ちゃんねるで、その手の書き込みをしつこくやっている奴がいる。その連中のほとんどは、ポストモダンのどういう欺瞞が暴露されたという話なのか分かっていないし、ソーカル事件がどういうものかも知らない。ましてや、そのソーカル事件なるものによって、ポストモダニストが廃業しなければならなくなる理由など、説明できるはずもない。説明できないくせに、真理を掴んだつもりになっていて、その言い分を認めない学者、知識人を廃人扱いするので、全然話にならない。
 高校の英語や世界史・日本史の授業で習う内容から哲学の専門的論争の内容に至るまで、様々なレベルでの「バカの一つ覚え」がある。ネット上のバカたちは、そうした自分の一つ覚えに基づいて、似非知識人を成敗したつもりになり、悦に入っている。

 極めて当たり前のことだが、文章にはいろんな解釈の仕方がある。文系の学者、知識人になろうと思えば、どういう種類の文章をどう読むべきかについて、基本的ルールがあることを理解し、そのルールを習得しなければならない。ただし、ルールブックのようなものに全て書いてあるわけではないので、実地で少しづつ学ぶしかない。大学の演習とか読書会のような場に出席し、その分野の常識を無視したとんでもない誤読をしたり、横道にそれたりしないよう、お互いに批判し合う必要がある――素人だけの“読者会”だと、バカの相乗効果が生じる恐れがある。“偉い先生の教え”(と自分が勝手に思い込んでいること)も、様々な角度から捉え直す必要がある。
 しかし、バカはそういう面倒くさい手続きが必要なことを分かろうとしない。だから、努力しない。一つ覚えしたバカのままである。

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tetsugaku

岩波文庫 ルソー『孤独な散歩者の夢想』

2012/11/10(土) 前編、2013/01/12(土) 後編

講 師:仲正昌樹 →amazonで著書をみる

主 催:rengoDMS - 連合設計社市谷建築事務所

協 賛:明月堂書店

受講料:各回 500円

時 間 : 開場17:45 講義18:00-20:00

ところ : rengoDMSホール / 〒102-0071 東京都千代田区富士見2-13-7 (googleマップ)

予 約 : こちらのフォームからご連絡ください。
当日受付も可能です。(満席の場合、ご予約されている方を優先いたし ます。)

※弊社からの受付番号のご返信をもって、予約完了となります。

※お電話でのお問い合わせ並びに申し込みはできません。

※お支払いは当日受付にて。

※講座名に該当する書籍(岩波文庫刊)を指定テキストとします。必ずご持参ください。

※指定テキストをお持ちでない場合、原則質問等はお受けできません。

※指定テキストを講読せずに、関係の無い質問等をなさるのはご遠慮ください。

仲正昌樹(第3回)

編集者に社会性はないのか!

 人文系の学者として多少は名前が知られている人だと、時々出版社の編集者から「○○というテーマで一冊書きませんか」、という誘いが来る。私のところにも時々来る。
 大抵の場合、一度打ち合わせをして、話がまとまると、その編集者が企画案をまとめて送ってくれる。それに著者が一度目を通したうえで、企画会議の承認を得て、正式に執筆依頼を受けることになる。著者の方が持ち込んだのでない限り、企画会議で拒否されることはあまりない。
 2〜3人でやっているような小さい人文系の出版社の場合、正式の会議がなくて、オーナー経営者の独断で決まることがある。そういう所とお付き合いする時は、オーナー経営者がどの程度気まぐれか見極めたうえで、慎重にお付き合いすることにしている。無論持ち込み企画を自費出版したり、買取条件付きで出してもらう時は、話は別だ——就職のために、一冊著書を出しておこうと思っている若手研究者は、ひどい目に遭わないように気を付けた方がいい。
 私は幸いにして、これまで自費出版したことも、買取条件付きで出版したこともない。ただ、二度ほど、若手の編集者から持ち込まれた企画を、「分かったふり」をしたがるワンマンの編集長につぶされて、不快な思いをしたことがある。一度は、社名に「y新書」と付けた新書を出している出版社である。数年前のことだった。担当になるはずの若手の編集者によると、当時の名物編集者を気取っていた、全共闘世代の編集長は、その若手への“かわいがり”のつもりで、私の仕事自体をけなすような偉そうなことを散々言っていたらしい。本当にそういう調子だったのか、その場にいなかったのか分からないが、少なくとも私は目次案に詳細な説明を付けるなど、数ヶ月にわたって担当者と何度もやり取りしながら、企画案の作成に関与した。その努力を無駄にさせるのだから、一言謝罪くらいしてよさそうなものだが、その全共闘親父は何も言ってよこさなかった。何様のつもりか! お友達の左翼論客ともたれ合って生きている、ごくつぶしの分際で! 
 その件で懲りたので、企画書作りのためだとか言って、私にいろんなことをやらせる編集者や、ややこしそうな企画会議には警戒していたのだが、最近ちょっと油断して、またそういう目に遭ってしまった。安っぽい哲学入門書を何冊か出している中経出版である。
 編集者から、「仲正先生に、孤独というテーマについて是非書いて頂きたいと思いまして…」、とメールが来た。メールのやりとりだけで、企画書を作ってしまおということだった。そこでちょっと疑うべきだった。しかし、その時は、直接会わないで企画をまとめようと言われたのが、初めてだったせいもあって、「編集部内でほぼ了解が取れているのだろう」、と好意的に取ってしまった。それが間違いの元だった。目次案を書いてくれ、というのはまあいいとして、その内、出だしの文章をサンプルとして企画会議に出したいと言ってきた。そこで、気が付けばよかったが、「出だしの文章まで書かせるのだから、安易に却下できないだろう」、と良い方に取ってしまった。
 それで「プロローグ」を書いて送った。「孤独というのは、哲学的に考えるきっかけにはなる。恋人や友人がいないからといって悩んでいる人たちを助けることが哲学の目的ではない。お悩み解決は、その道のプロに任せればいい。孤独というのはそもそもどういう現象か、孤独だといけないのは何故か考えるのが、哲学だ。当面の“孤独の悩み”の解決など、どうでもよくなったところで、本当の哲学が始まる……」、という感じのことを書いた。
 そしたら、その編集者が急に及び腰になって、「確かにそうだと思います。しかし、これでは一般読者がついて来れないので、哲学で孤独を克服するための指針を示して頂けないでしょうか……」、などと言い出した。何かヘンな感じになった。哲学で孤独を克服するなんて、勘違いも甚だしい。「それじゃあ、私に頼む意味がないだろう。そもそも、私がどういうことを書いているのか知っているのか」、と言ってやった。それで向こうは、しぶしぶ企画会議に出したようだったが、提出から二週間後の会議——企画会議まで二週間もかかる面倒な所だと分かっていたら、最初から引き受けなかった——で、編集長などから、いろいろ“問題”を指摘されてダメになった、と報告してきた。
 かの編集者は、「先生の一ファンに戻ります」、と虫のいいことを言っていたが、多分、実際には私の本をまともに読んだことなど一度もなかったのだろう。当然、編集長等の責任者から、プロローグまで書かせて申し訳ありませんでした、というような謝罪はなかった。これほどまでに社外の人間に迷惑をかけておいて、何とも思わないような社会性のない出版社は、さっさと潰れるべきである。
 中経のせいで、いろいろと過去のイヤな記憶が蘇ってきた。私が最初の著書を出す前、本当に無名だった時期、いくつかの人文系出版社に出版を検討してくれないかと打診して回ったが、その過程で、物知り顔の偉そうな編集者・経営者たちからいろいろ無礼な目にあった。
 本当は、人文書は基本的にあまり売れないので、名前がかなり知られた大物か、その大物の一押しの“将来有望株(?)”か、あるいは、完全自費出版でない限り、なかなか出せないというだけの話なのに、「もっともらしいこと」を言って断ろうとする。そのもっともらしい言い方に腹が立つ。「あなたの本はよく書けているとは思いますが、本として出版するには、○○がまだ足りないようですね。どういう本が出版されて売れているのか、よく勉強されて……」、などと、まるで師匠にでもなったかのような偉そうな口を聞く。
 若手の研究者に偉そうなことを言って、優越感に浸りたいのか? 普段大物にへいこらしている鬱憤を、コネのない若手相手に晴らそうというのか? そんな態度を取られたら、よほど人間が出来ていない限り、こんな有害な出版社はさっさと倒産すべきだ、と思ってしまう。私は人間が出来ていないので、そうした扱いを受けて、許せないと思っている出版社が数社ある。
 この手の連中は、自分たちの偉そうな振る舞いで、多くの著者を敵に回していることを分かっているのか? 超大物の機嫌を取りながら、(偉そうに)自費出版を引き受けることで、生き残ることしか考えていないのだろうか? こんな連中の下では、ろくな編集者が育たないのももっともだ。

仲正昌樹(第2回)

プロバイダーは何様か?

 ネット上であることないこと他人の悪口を書きちらし、抗議すると完全に逆切れして、相手の仕事場にまで脅迫めいたことを書き送ってくるようなバカがどんどん増殖している。三年ほど前、自称IT系企業法務担当で「民間論客」であるという伊藤晋(ハンドル名:フロイデ)という狂ったおっさんから、ひどい迷惑を受けたことがある。
 それで、プロバイダーで、ココログを運営しているニフティ(富士通の子会社)に対処するよう問い合わせたところ、「“お客様同士のトラブル” ――私はニフティの顧客ではない――には当社は関与致しません。削除を求めるのであれば、所定の書式に必要事項を記入したうえ、当社法務部に郵送して下さい」、という無礼な返事が来た。
 プロバイダーには、自分の顧客が他人に迷惑をかけないよう配慮する義務があるはずである。法律で決められているのでもない、面倒くさい書式を勝手に設定したうえ、被害者に、プリントアウト代と郵便代金を負担させるとは何様のつもりなのか? 裁判所でもないのに、違法かどうか審査する、ニフティ法務部とは何様なのか? 恐らく、クレーム対応が面倒な、窓口業務担当者が、顧問料を稼ぎたいどこぞの悪徳弁護士とでも相談して決めたのだろう。
 「勝手に、裁判所の代行をするな!」と、抗議すると、「プロバイダー責任制限法」の“該当個所”の無意味なコピペを送ってくる。勿論、法律に、プロバイダーが勝手に手続きを決めて、障壁をもうけることを許すようなことが書かれているわけではない。無意味なコピペでも、素人は恐れ入る、と悪徳弁護士に言われ、クレーム撃退策としてやっているのかもしれない。
 腹が立つので、ニフティ本社に電話を入れても、何も分かっていなさそうな――恐らくはバイトの――受け付けが、「担当部署のメールアドレスをお伝えする、留守電に繋ぎます」、と、またまたふざけたことを言う。何のための受け付けか? 一応、生身の人間の声が聞けたら、バカな消費者は満足するとでも思っているのか? こんなのは、ブラック企業のやることではないか!
 一年くらい前に、OCNを運営するNTTコミュニケーションズに対しても、先のと同じような申し入れをしたが、全く同じ無礼な対応をされた。OCNはHP上に、OCNの顧客から迷惑を受けた人からのクレームを受け付けるページを設けているのに、実際には全くやる気がない。
 この対応はおかしいではないか、と会社の他の部署にメールすると、必ず、「カスタマー・サービスの斎藤」なる人物に届いて、「どこに連絡されてもムダです。これは会社の方針です」、という極めて無礼な“返事”が返ってくる。OCNは、礼儀をしらない一匹のチンピラに暴言を吐かせることで、全てのクレームを“処理”しているのか?
 ネット書店のAmazonにも、自分のからっぽに近い頭から絞り出した妄想で著者の人格を否定する“毒者”が出没するが、AmazonのReview担当者は、「これは本を読んだうえでの批判です」、などと勝手に決めて、著者の抗議を無視する。読んだかどうかなど、分かるはずない。毒者が、あたかもそう書かれているかのようにでっちあげているのを信じたふりをしているのである。
 プロバイダーにしても、ネット書店にしても、どうして、根拠皆無の中傷誹謗をして、有頂天になっているくずども放置しているのか? くずにガセ情報を流させることによって、金儲けをしようとしているとしか思えない。

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rengoDMS 哲学塾のご案内
内容:ルソー著『孤独な散歩者の夢想』を読む。
テキストは、入手しやすさ等を考慮し、岩波文庫の通常版を使用いたします。参加資格としてお申し込みされる方は、事前に本著を読んでこられた方に限らせて頂きますので、その旨宜しくお願い致します。

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ところ : rengoDMSホール / 〒102-0071 東京都千代田区富士見2-13-7
予 約 : こちらのフォームからご連絡下さい。 http://www.rengodms.co.jp/tetsugaku/#entry
当日受付も可能です。(満席の場合、ご予約されている方を優先いたします。)

仲正昌樹(第1回)

「毒者」は何を求めているのか

 人文系の本を書いていて一番イヤなことは、ネット上で、想定外にひどい「毒者」に出くわすことである。「毒者」というのは言うまでもなく、ちゃんと読んでいないのに、その本の著者をバカに見せようとして、様々な誹謗中傷をブログやツィッターで——多くの場合、匿名で——書き散らし、それに同意する者が一人でも出てくると、有頂天になり、論客ぶった物言いを始めようとする、どうしようもない輩である。
 あまりにも目にあまるので、「書いてないことを書いてあるかのようにでっちあげて、誹謗するのはやめてもらいたい」、と抗議すると、「知識人は、(誹謗中傷を含めて)あらゆる批判を受け入れる義務がある」とか、「言論弾圧だ!」とか、「あなたが世間知らずで人格破綻者であることが判明した。私の言った通りだ」、とか、無茶苦茶なことを言って、更に騒ぐ——“論客”のやることか!多分、臆病さと、相手してもらった嬉しさが入り混じった、原始的な反応なのだろう。
 この手の毒者の吠え方は、いくつかのお決まりのパターンがある
① 著者の人格を勝手に想像し、「どうしてこんなに人格が歪んでしまったのか」、と悪気なさそうにツブヤク、
② 自分なりの妙な“現実”観に基づいて、「現実を見ていない!」と、知識人批判もどきをする、
③ 自分が“尊敬”する他の知識人と——ほとんど争点がないのに——無理やり比較して、「こいつはダメ!」だと断ずる、
④ 自分の中で“定説化”している“学問の常識”に照らして、ニセ学者呼ばわりする。
 ある特定の学者・知識人のファンを自称している人間には、この四つの全てに当てはまりそうなのが少なくない。最近の私の経験からすると、「ハンナ・アーレント通」がひどい。アーレントには、「マイノリティとしての苦しみに耐え続けた人」というイメージがあるので、そういう餌に虫が引き寄せられるのだろう。純粋に“素人”だけならまだいいが、“プロ”になりかけている連中も結構いるので、イヤになる。
 今ちょうど、アーレントについての短い論文を書いているし、アーレントに関する仕事を企画している。だから、ひどく憂鬱である。