8月は、死者に思いを巡らせることがことのほか多い月である。6日、広島の原爆の日。9日は長崎。15日、終戦の日。お盆には霊が帰ってくる。
死者を追悼し、私たちに託されたものを自覚すべきはずのこの月に、今年は不快な、いらぬ湿気が体にまとわりついてくる。隣国による声高な歴史問題の言挙げによって、である。
ことあるごとに「正しい歴史認識」を持ち出し反日ぶりに余念がない韓国では、あろうことか5月、日本への原爆投下は神の懲罰だとする記事が有力紙・中央日報に載った。原爆の犠牲者をさらに傷つけるもので、醜悪さはここに極まった。厚顔無恥に尖閣諸島(沖縄県石垣市)をうかがう中国首脳は昨年来、日本は尖閣を盗んだ、戦後の国際秩序を守るべし、などと繰り返している。詭弁(きべん)、ないし、でたらめという。2国とも日本の政治家の靖国参拝に横やりを入れているのも周知の通り。
先の大戦の、海外の犠牲者に思いを至らせることは大切だ。
しかし国内で戦災により犠牲になった同胞、国のために殉じた英霊をまず追悼するのは日本人として当然のことである。
◆悔恨共同体
ここでは、これ以上この2国に触れない。領土や歴史問題での言いがかりには筋を通し、しかし対話の門は閉ざさずと静かに構えるのが、東洋の君子国たる日本にふさわしい。だがこうした事態になるに至った日本の戦後に、なにがしかの隙はなかったか。日本が抱える問題を広島に即して2つ、あえて厳しく考えてみたい。
1つ。昭和27年にできた原爆死没者慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻まれている。常識的には、日本人が過ちを繰り返さない、と読める。原爆を落としたのは日本ではないから、これはおかしい。
このような異議申し立てはむかしからあり、文を作った広島大学の教授は、主語は広島市民であるとともに世界市民であるわれわれだ、これは全人類に通じる感情だ、とした。しかしこの考え方は高貴なようでいて、なにかを隠している。世界市民には日本人も含まれる。つまり主語を伏せながら、原爆を落とされた当事国がやはり自らの「過ち」を認める構図になっている。