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【暮らし】核の恐ろしさ 若者に伝える 広島の爆心から750mで被爆 米沢鉄志さん
広島の爆心地から約七百五十メートル離れた電車の中で、奇跡的に助かった少年がいた。当時十一歳だった米沢鉄志(てつし)さん(78)=京都府宇治市=だ。原爆の語り部となった米沢さんは福島の原発事故をきっかけに、あらためて「若い人たちに核の恐ろしさを伝えたい」との思いを強くし、先月、被爆当時の鮮烈な記憶を一冊の本にまとめた。 (宮本直子) 強い光に思わず目をつむると、百個の雷が一度に落ちたような、すさまじい音が続いた。 一九四五年八月六日、米沢さんは母と二人、疎開先から広島市内の家に荷物を取りに向かう途中、広島電鉄の中で被爆した。 電車から降りた時、目の前に広がっていたのは「地獄絵のような光景」。やけどで皮膚が垂れ下がった人たち、川を流れるたくさんの死体。黒焦げの赤ん坊を抱き、防火水槽の中で亡くなっている女性もいた。 十日後、米沢さんも急性放射線障害を発症し、死のふちをさまよった。髪がごっそり抜け、頭痛、高熱、吐き気に襲われた。同じ症状の母が二週間ほどで亡くなり、「自分も死ぬ」とあきらめた。だがある時、おなかにいた回虫を大量に吐き出すと、その日を境に快方に向かったという。 「偶然が重なって、浴びた放射能の量が少なかったから助かったのでは」。満員電車で大人に囲まれ、被爆の瞬間、電車は当時市内で一番高い八階建てのビルの横を走っていた。爆心から約七百五十メートル以内で被爆し、現在も存命なのは十人未満とされる。 米沢さんは京都の大学を卒業後、財団法人に勤めながら、四十歳ごろから関西地方を中心に被爆体験の語り部として活動してきた。 「地道に核の怖さを語り続けてきた自負があった」 しかし、その思いも3・11で吹き飛んだ。故郷を追われる福島の人々。事故後も各地で稼働し続ける原発。 「放射能が人体にどれほど恐ろしい影響を与えるか、原爆の体験がきちんと伝わっていなかったのか」。原爆の生き証人としての責任感に駆られ、反原発運動に積極的に参加。昨年五月から関西電力京都支店前で毎週金曜日に開かれる抗議行動にも駆け付けた。 出版の話が舞い込んだのは、そんな時だった。米沢さんが語った被爆体験を聴いた千葉県在住のフリーライター、由井りょう子さん(65)や仲間の出版関係者らが「本にするべきだ」と背中を押した。 米沢さんが語り、由井さんが文章にまとめた本の題名は「ぼくは満員電車で原爆を浴びた」(小学館)。小学三年以上の子ども向けに書かれているが、「あらゆる世代に読んでほしい」と由井さん。あの日から六十八年。米沢さんは「戦争や核の悲惨さ、愚かさを考えるきっかけになれば」と願う。 米沢さんと面識がある京大原子炉実験所の小出裕章助教は出版にあたって、「つらい記憶でも知らないより知ったほうがいい。きっと未来のための知恵を与えてくれる」との言葉を寄せている。 PR情報
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