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米軍ヘリ墜落 - 政府のアリバイ工作をする新聞報道
沖縄の米軍ヘリ墜落事件。一夜明けた今日(8/6)の朝日の1面には、こんな記事が書かれている。「今回の事故について、岸田文雄外相は5日夜にルース駐日大使に電話で遺憾の意を表明し、再発防止を要請。大使は『要請を真剣に受け止めたい。徹底的に原因究明し、情報を提供したい』と語った」。これは嘘だ。同じく、2面の記事にはこう書いている。「安倍晋三首相は事故発生直後、内閣危機監理監に対し、米側に迅速な情報提供を求めるよう指示」。これも嘘だ。この二つの記事内容は、昵懇の政治記者に、こう書いておけと菅義偉が指示したもので、英語で言うところの"story"であり、日本語で言えば「作り話」である。岸田文雄とルースの話が嘘だとする根拠は、国務省の会見での副報道官のハーフの言動と態度だ。DCでのこの会見は日本時間の深夜に開かれ、私はTBS朝ズバで見たが、質問に対して軽くあしらって受け流す誠意のない口調で、「日本政府とは極めて緊密な関係にあり、さまざまな問題をめぐり引き続き協力していく」と紋切り調で済ませた。質問の部分の放送はなかった。おそらく、日本人の記者が、国務省のコメントを求めて質問したのだろうが、ハーフの応答には、遺憾の意の表明も何もなく、「真剣に受け止めたい」だの「徹底的に原因究明」するだのの言葉は一切なかった。米政府が事態を全く深刻に受け止めていない様子が一目で了解できる映像だった。


この事件に関する米国の報道操作は実に狡猾で、日本のマスコミ(政治記者)を使って、恰も米側は「真剣に受け止め」ているような「事実」を文字情報で残し、その一方で、生の会見映像を日本国民に見せ、「こんな瑣末な問題で大騒ぎするな」「これぐらい当たり前だ」という真意を態度で知らしめているのである。ハーフの冷淡さが米国政府の本音であり、この事件についてのメッセージなのだ。墜落事故を重大視して米国側の反応を注視する日本人に対して、「うるさいぞ」と拒絶の姿勢で返しているのである。が、事故翌日の日本の新聞記事の内容は、言わば歴史に残る記録だ。10年とか20年経った後で、経緯を調べようとする者が読むテキスト情報である。だから、ここには、いかにも米国側が事態を重く受け止めて恐縮しているように書かせているのである。無論、それは日本政府の(マスコミへの)指示によるもので、日本政府の情報工作と世論工作である。すべて嘘なのだ。昨夜(8/5)のテレビのニュースでは、外務省のコメントは事務次官の齋木昭隆がカメラの前で対応していた。岸田文雄は出て来なかった。その時間、安倍晋三に同行して専用機で広島に向かっていたからだが、羽田発が17時25分だから、事故対応をマスコミに説明するには十分な時間があった。そもそもルースも広島に飛んでいる。3人が広島に帯同して一夜を過ごしているのだから、抗議はフェイス・トゥ・フェイスでやればよいのだ。

後段の、安倍晋三が、米側に迅速な情報提供を求めるよう指示したという件だが、誰に指示したという話なのだろうか。内閣危機管理監に指示したって意味がない。当然、岸田文雄に、ルースに日本政府としての(情報提供の)要請を指示するということでないといけない。だが、それが行われたのは夜だ。(無論、単なるマスコミ用のアリバイ工作で捏造した架空の「事実」だが)。つまり、午後4時から午後5時まで、もっと遅くの夜間まで、日本政府は何もしていないのである。朝ズバに出た宜野座村長の當眞淳の証言では、沖縄防衛局を通じて、ヘリ墜落を米軍側が認める情報が役場に入ったのは、午後5時過ぎだったと言う。事故発生から1時間以上も経っている。このとき、マスコミの相手を立ち話で受けていたのは、小野寺五典と斎木昭隆で、官房長官の菅義偉は最後まで表に出なかった。日本政府の責任ある立場の者として公式会見で発言していない。官邸のサイトの記録を見ても、昨日(8/5)の会見は午前の1回きりだ。午後はしていない。逃げて隠れている。こんな異常が許されるのだろうか。信じられない気分だが、そのことを衝いた報道は1社もない。この事件のマスコミ報道、特に新聞記事は欺瞞だらけだ。マスコミは、政府が策する「事件の沈静化」にばかり手を貸し、世論を宥める工作情報で新聞を埋め、いかにも米国と政府が問題を深刻に感じているように見せる演出報道を撒いている。ポーズを宣伝している。

パシリの小野寺五典は、殺到するマスコミのカメラを前に、沖縄の住民の安全については一言も口にせず、ヘリ搭乗の米軍兵士の安否を気遣う見舞の言葉を強調していた。沖縄の人々にとっては、この兵士どもは、操縦ミスで事故を起こして住民に生命の危険をもたらした加害者ではないか。訓練は日常的に住民の頭上で行われていて、今回の墜落は住宅地から僅か2キロのヒヤリハットだった。小野寺五典の言葉は、予め周到に準備したもので、ルースやアーミテージやM.グリーンに見せて聞かせて点数を稼ぐ思惑のものに違いない。パシリの小僧は、こうやって要領よく出世するのである。せっかく掴んだ防衛相のポストだから、献身的に米国と米軍に奉仕するところを見せ、勤務査定の評価を上げ、彼ら(ジャパン・ハンドラーズ)の心証をよくし、いずれは首相を狙う地位へ押し上げてもらおうと機会を逃さなかったのだ。思い出せば、2004年の沖縄国際大学の構内にヘリが墜落したときも、外相の町村信孝がそういう立ち回りをやっていた。10月に現場を視察したこの男は、「被害が重大なものにならなかったのは、操縦士の技術も上手だったのかもしれない」などと暴言を吐き、沖縄の人々を挑発して激怒させている。その後も町村信孝はこの暴言を撤回することなく開き直り続けていた。本土のマスコミも事故を大きく扱うことなく、アテネ五輪の金メダルの話や、渡辺恒雄の巨人オーナー辞任の話をトップに持ってきて報道していた。

このところ、沖縄について、いろいろと思い込むことがある。例の普天間基地移設の騒動があった2009年以降、ずっと、沖縄は本土と手を切って独立すればいい、というのが、私の沖縄論のソリューションの基本線だった。それが合理的で、歴史本来的で、あるべき未来像の方向だと。切断論、断絶論の発想である。しかし、最近、その考え方に対して、それでは無責任ではないかという反省の気分も生じている。阿波根昌鴻と伊江島の歴史すら知らなかった自分の無知を恥じ、あるいは、9条を守らなくてはいけないと、そう眦を決して切実に訴える(決して豊かではない)沖縄の高齢者の平和の祈りの姿を見て、その姿勢では倫理的に問題があるように思えてならなくなった。断絶論と独立論でスパッと切って、沖縄と日本は別々の道を歩めばよいのだと、沖縄は日本から自由になって万国津梁の幸福な理想国家を建設をするのだと、その程度の「構想」の持論で、何か政治的展望と理論的解決を見出したような気分で満足するのは、自らの未熟と傲慢の裏返しであり、忍耐を欠いた思考停止でしかないのではないかと、そうも思えてくる。沖縄の人々は本土の人間に対して、日本(本土)の政治を変えるよう求めていて、本土の人間は、その責任を果たさないといけない。切断論で責任を見切ってはいけない。沖縄と本土は繋がっていて、繋がりを放棄することなく、断念することなく、粘り強く、繋がった絆から要請される責任を引き受けなくてはいけないのだと、そういう心境になってきた。

阿波根昌鴻の岩波新書を読むことや、沖縄の戦後の歴史を知ることや、とんでもない現在の人権侵害の実態を知ることが要請されている。沖縄の人たちは、きちんと抵抗のデモをする。何かあれば、必ず抗議と行進の先頭に糸数慶子が立ち、琉大学生会の旗がある。昔の、30年前の本土人がやっていたような、日本の市民社会と民主主義のスタイルを守り、やるべきことを労力を惜しまず、権力や政敵に誹謗中傷されることを恐れず、怯まず勇敢に奮闘している。そう見える。同じ見方を共有しているのか、ガバン・マコーマックが、沖縄は日本のどこよりも民主主義が機能していると指摘した。当を得た政治学的認識だ。その沖縄の人々が、県内41の全市町村の首長・議長や県議らを含めて上京し、オスプレイの配備撤回を求めて日比谷と銀座で抗議行動したことがあった。今年の1月末のことだ。その沖縄の請願団の一行を、数寄屋橋交差点付近で大量の右翼集団が待ち受け、下劣で悪辣な野次と罵倒を飛ばし、売国左翼呼ばわりして襲撃した事件があった。右翼一色に染まった2chやTWなどの狂暴なナチス的空間が、バーチャルからリアルに、スポット的に現象化するような、そういう凄惨で凶悪な政治情景が今の東京には現実にある。その禍に遭遇し目撃した沖縄の人たちは、果たして、私の前者の切断論・独立論と、後者の連帯論・責任論をどう考えるだろうかと勝手に想像する。日本(本土)は、来るところまで来てしまった。絶望と諦観しかないヨハネ黙示録的なフェーズに来てしまった。と、また、そういう思いが噴出し、堂々めぐりの循環になる。

断念・絶望と反省・覚醒の反復、像を一つに結べない矛盾の往還。ジレンマと無力感。沖縄と米軍基地だけでなく、広島・長崎と核兵器・核戦争も、福島と放射能・原発も。活路はあるのだろうか。救いの道は開けるのだろうか。せめて、この夏に、筑紫哲也が生きていてくれたらと、そう思って天を仰いで蹲る。


by thessalonike5 | 2013-08-06 23:30 | Trackback | Comments(0)
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