元プロレスラー、ザ・グレート・カブキの「秘蔵写真」
【芸能】
<「ジャップをやっつけろ」>
「1978年のフロリダでの試合の入場前だね。向かって左が60年代から70年代、アメリカでヒール(悪役)として活躍したマサ斎藤さん。真ん中がマネジャーのタイガー服部さん。右側が『タカチホ』の名で闘っていた30歳の時のボク。試合を待つ1万5000人の客の熱気を感じながら、士気高揚の瞬間だね。
見てよ、服部さんの服。僕が中2の時から住み始めた愛知県知立市の消防署からもらった法被ですよ。《知立市消防団》と縫い込んである。当時は漢字が入った服であれば東洋的というわけで、着てたんだろうね。
ボクらは日本からやってきたヒール。入場と同時に“誰かあのジャップをやっつけろ”“ブーッ”と、罵声とブーイングの嵐でした。とはいえ、ヒールにとって、ブーイングは勲章みたいなもの。試合のたび、ブーイングをもっと大きくしてやろうと観客を挑発しまくってた。血気盛んだったんだね」
<天龍らと毎晩飲んだ>
1964年に日本プロレスに入団。同年、高千穂明久のリング名でデビュー。70年にアメリカ遠征に出発し、デビル・サトの名で活躍した。73年に帰国したが、78年から再びアメリカを主戦場にした。ミスター・サイトー(マサ斎藤)とタッグを組み、78年1月にはNWAフロリダ・タッグ王座を奪取するなど、華々しい活躍を見せた。
「78年以降は、11カ月間休みなし。とくに土日は昼と夜、試合をするダブルヘッダー。連戦に次ぐ連戦でした。でも、アメリカのプロモーターは金払いがいいから金は稼げるうえ、毎日仕事がある充実感から、本当に楽しかった。試合後は毎晩のように、やはりアメリカで闘っていた天龍源一郎やキラー・カーンらと飲み屋でドンチャン騒ぎ。ビールやワインを20杯以上飲んでは、バカ騒ぎしたもんです。ハハハ」
ヒールゆえの思い出も数多い。観客との乱闘事件もあったという。
「あれはオーランドでの試合のとき。ボクとマサやんがタッグを組んで、アメリカ人をやっつけた。リングを去ろうと、僕らの前をセコンド役のタイガー服部さんが日本の旗を振り、観客を挑発しながら歩いてた。
その時、相手選手が背後から殴りかかってきたんです。1分、いや2分くらい応戦していると、マサやんが『服部は?』と叫んだ。ふり返ると、服部さんが何十人もの観客に取り囲まれてボコボコ殴られているじゃないですか。頭にきましたね~、あれは。あわてて助け出したんだが、観客のひとりが『レスラーに殴られた』と訴えやがってね。結局、裁判で『僕らは観客からのパンチをよけただけ』となり、おとがめなし。忘れられないね。
あと、タッグの試合中、ロープの外で待っていると、背後から近寄ってナイフでアキレス腱を切ろうとする客がいた。また、一度は入場口付近で銃を向けられ『バ~ン』。幸いかすりもせず、九死に一生を得た。ハハハ、本当ですよ。とにかくアメリカの観客は血の気が多かった。プロレスが盛り上がっていた時代だったんだね」
<カブキメーク初登場>
ところで、カブキメークは日米のプロレス界に旋風を巻き起こした。そのキャラクターは、武者修行時代に試合を盛り上げるための秘策として生まれたものだ。
「あれは1980年の1月。当時のマネジャーのゲリー・ハートがある日、『おまえ、これできるか?』と、雑誌をポンと僕の前に投げ出した。見ると、そこには連獅子の写真。『できなくはないけど……じゃ、やってみよう』とね。
最初は髪も短く、隈取りのペイントも『ハロウィーンみたいだ』と、反応はいまいち。数週間考えて、口から毒霧を吹いてみると、子供たちの間で人気が出た。『カブキ、カブキ』って、たちまち歓声が飛ぶようになった。僕が出る試合の観客数はうなぎ上り。ソールドアウト続きです。うれしかったなぁ。
でも、浮かれている暇はなかったね。メークはそのままで毎回、忍者や鎧(よろい)姿などコスチュームを変えた。観客を飽きさせないさまざまな工夫をしないと、生き残れなかったから。ま、昔の話さ」