──ヒロシマへの旅はあなたの人生にどう役立っていますか。
「すべての見解が対立する問題への考え方を教えてくれました。1つに決めなくてもいいのです。批判したり擁護したりしなくてもいいのです。ただ耳を傾け、理解することが大事だという時があるのです」
彼女の行動と思索を称えたオークリッジの人々
ミッチェルの旅行記は地元紙に連載され、オークリッジの住民に賛否両論を巻き起こした。
感情的な反発もあったことはミッチェルもスミスも否定しない。しかし住民からの意見の大半は彼女に肯定的だった。彼女のヒロシマへの旅とその思索の結果を称えるものが多かった。
その理由をメールで聞くと、スミスはこう説明した。
「彼女はみんなが言うことに疑問を持ち、自分の目でその向こう側を見ようと行動を起こしたからです」
それは新鮮な驚きだった。ミッチェルが「建前」や「プロパガンダ」「スローガン」に疑問を持ち、問いかけの行動を起こすことを、オークリッジの人々は歓迎し、励ましたのだ。「社会の多数意見に同調する」ことより「多数と違っても自分の信じることに忠実であること」に敬意を払った。
私は考えた。これが日本が舞台なら、同じようになっただろうか。「故郷を裏切った」「日本人の味方をするのか」。ミッチェルはバッシングを受け、ブログやウェブは匿名の罵声で炎上する。だいたいそんな感じだろう。
アメリカにも「建前」と、それに固執する偏狭な人々はいる。しかし、それに疑問を持ち、たったひとりでも行動を起こす勇気。それへの敬意。「正しい・誤り」を早急に決めるのではなく多様な意見が出る環境を守ること。
このへんは、悔しいが、アメリカ社会が持つ「自由」「言論」の底力だなと私は思った。
人間は対立する2つの現実に直面すると、葛藤する。オークリッジの人々も、原爆のことで葛藤していた。
それは、福島第一原発事故を見たあとの私の葛藤と共通したものがあった。
電力が豊富にある生活は便利に違いない。しかしそれは「美しい山河を汚染する」「多数の人々が故郷を失う」「子孫に失敗の処理を押し付ける」という惨禍に値するものなのか。
エミリー・ミッチェルは言っていた。決めなくていいのだと。白黒をつけなくていいのだ。ただ耳を傾け、理解すること。今はただ、それが大事なのだ。そう言っていた。
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