ウオッチング・メディア

濃縮ウランの街からヒロシマを訪ねた女性

街の誇りと罪悪感の葛藤に悩み、苦しむ

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ただ耳を傾け、理解することが大事

 スミスに仲介してもらって、ミッチェルにメールを送った。彼女と話してみたかった。素直で正直な人だと思った。1週間ほどして、丁寧なメールが来た。

 「はじめまして。ネットの上ですが、初めてお目にかかれてうれしく思います」「取材の対象に加えていただいてありがとうございます」

 末尾には卒論のPDFファイルが添えられていた。

 2008年、サウスカロライナ大学を卒業するときの卒論として広島訪問を考えついた。大学での専攻は宗教学と数学、スペイン語だった。卒論の調査奨学金で得た1200ドルを渡航費用に当てた。現在はジョージア州の大学で生物統計学の博士課程にいる。

 メールをやりとりして彼女をインタビューした。

──あなたは「私のヒロシマへの旅は、純粋にパーソナルなものです。誰かの考えを変えたいとは思いません」と書いておられます。旅は個人的な思索の旅だったのですね。では、そもそもヒロシマに行こうと思った最初のきっかけは何だったのでしょうか。

 「大学の授業の課題でジョン・ハーシーの『ヒロシマ』(原爆を生き残った6人にインタビューしたルポルタージュ。ピューリッツァー賞を受賞)を読んだことでしょうか。私は葛藤しました」

──ヒロシマに行った動機は何だったのですか。謝罪や罪悪感ですか。

 「罪悪感があったことは確かです。それはある時は『私は何千という人を殺した爆弾の共犯者の1人かもしれない』という罪悪感であり『自分の故郷を生んだ科学の進歩への裏切り』という罪悪感でもありました。ヒロシマに行くことを決めてからは、自分の感情はよく理解できなくなりました。ただ『自分のやらなくてはいけないこと』という思いが強まりました」

──故郷のオークリッジが原爆の原材料である濃縮ウランをつくったことはどうやって知ったのですか。

 「特定の出来事は覚えていません。オークリッジを故郷とする子供にとって、故郷が原爆と関係があることは『集合的記憶』みたいなものなのです」

──ヒロシマを旅して、原爆が起こした悲劇への罪悪感と故郷への誇りは折り合うことができましたか。

 「ずっと内面の戦いが続いています。対立する2つの感情が折り合えるのか、それが人生のうちに果たし得るのかどうかさえ、分からなくなりました。ただ1年以上原爆のことを調べるうちに、あきらめました。どちらかを選ばなくてもいいのだと分かりました。どちらの側の言い分も筋が通っているからです」

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