TOP | Profile | These Days | Works | Child | Link | Books

別冊宝島117 「変なニッポン ガイジンが好きな、そう思われているこの国!」 1990 宝島社

『キン肉マン』『聖闘士星矢』が引き起こした<日仏アニメ摩擦>




フランスで日本製アニメが警戒されている。子供たちが夢中になるアニメが「残酷で見るに耐えない」という理由で。「もうたくさんだ」「これは日本の文化侵略だ」などの声が飛び交うなか、「日本製アニメ論争」を追う!

 つい最近、TF1(テーエフアン・第一チャンネル)で放映中の『キン肉マン』が、同国のテレビ・ラジオ放送の「お目付役」である視聴率高等評議会(CSA)によって、放送停止勧告を受けるという「事件」が起きた。6月17日付の朝日新聞によれば、「ナチスのカギ十字に似たマークをつけた登場人物のひとりが、『主人公の右腕として活躍、好意的に描かれているのは好ましくない』」というのが停止勧告の理由だという。「ドイツ統一を控え、反ユダヤ人主義や民族差別を思わせる事件が相次ぐだけに、ナチスの『亡霊』に敏感になっている」と、同紙は、勧告の背景について解説しているが、従来からくすぶり続けてきた、日本アニメの横行に対する苛立ちが、ついに明確な抑止の形となって現れたものには違いない。
 フランス人たちは明らかに苛立っている。だが、いったいなぜ、何に対して、彼らは苛立っているのだろうか。


内蔵をえぐるケン・シュルビバン


 「日本のアニメにもいい作品はもちろんあります。しかしなかには、暴力的で残酷で見るに耐えないものがある」
 日本のアニメを放映していない、アンテン・ドウ(第二チャンネル)のプロデューサー、クリストフ・イザール氏は、今年の一月、パリを訪れた僕に、そう語った。
 「70年代から日本のアニメはフランスで放映されていましたが、評価と批判は半々でした。それが最近、急激に批判の声が高まりだしたのは、TF1のせいです。TF1が2年前に日本のアニメをまとめて百数十本も買いつけ、いい作品も悪い作品もごっちゃにして大量に放映し始めてからおかしくなった。暴力的な作品も多数放映され、それで教育者や親やマスコミから、非難がわき起こったのです」
 「子供に悪影響を与える」とかで、マンガを一方的に断罪し、排除しようとする魔女狩りめいた騒ぎが日本で持ち上がったのは、昭和20年代から30年代にかけてのことだった。30年近く遅れて、フランスで今、同様の現象が起きている、ということらしい。そもそもフランスの「大人」たちは、いったいどんな作品のどんなシーンが残酷で暴力的であると、まなじりを吊り上げているのだろうか。
 「ロボットもののアニメは、私たちの世代にとっての西部劇と同じです。バンバン撃ち合って敵がコロッと死ぬという設定で、これはいつの時代にも存在するものです。ところが現在の日本のアニメは違う。必要以上に残酷なのです。『ケン・シュルビバン』(邦題『北斗の拳』)はその代表です。内蔵をえぐるような暴力描写は、もはや虐殺というほかはない!」(イザール氏)
 「残酷さ」の受けとめ方には、日仏に文化的背景の落差があることも考えあわせなくてはならないだろう。たとえばヤリ玉にあげられた『キン肉マン』は、以前から格闘シーンの描写に批判が集まっていた。超人たちが繰り出す「残酷な」必殺技は、どれもプロレスのパロディにすぎず、われわれ日本人にはどうということのない、毒気の薄い代物である。しかし、プロレスに不慣れなフランス人の目にはきわめて暴力的に映るのだという。ナチスのイメージを借りた超人の登場に神経過敏となるのも、同様の事情による。もっとも、この点は彼らが敏感なのではなく、われわれが鈍感にすぎるのであるが。


暴力犯罪につながる
シュバリエ・ド・ゾーディアック


 日本アニメ非難の隊列には、政治家も加わっている。自身も二人の子どもの母親である社会党議員のセゴレーヌ・ロワイヤル女史は、日本のアニメ批判のために、わざわざ単行本を一冊書き下ろした。その本はあいにく手もとにないが、フランスの雑誌としては最大の発行部数を誇る週刊テレビガイド誌『テレ・セット・ジュール』誌上で、彼女はインタビューにこう答えている。
 「テレビをこのままにしておいてはなりません。テレビ映像によって、子供たちから、夢、優しさ、寛大な心といった美徳が失われてきているからです。私は、自分の著書のなかでその主たる原因が日本のアニメにあると指摘しました(中略)。米国のある実験報告によれば、テレビのバイオレンス番組の放送時間を何週間かにわたって減らしたら、国内の暴力犯罪が30%も減少したそうです。ことほど左様に、テレビには大きな影響力と責任があるのです。」
 セゴレーヌ女史の批判に対して、TF1の子ども番組『クラブ・ドロテ』の女性パーソナリティー兼プロデューサーのドロテ女史も反論を試みたが、劣勢は免れなかった。
 ちなみにこの『テレ・セット・ジュール』誌上でも、たびたび日本のアニメに関する企画が組まれている。「日本ではアニメの製作にあたって、必ず児童心理学者や教育学的カウンセラーの助言を得ている」などという眉つばものの記述や、「子どもが暴力的になる主な原因は両親の不和にあり、暴力的なアニメはそのフラストレーションの爆発の誘発剤にすぎない」という、日本の児童心理学者のもっともらしい弁明などが載っている。同誌に、及び腰ながらもどちらかといえば日本のアニメを擁護しようとする姿勢の記事が多いのは、『シュバリエ・ド・ゾーディアック』(邦題『聖闘士星矢』)のポスターを付録につけただけで、売り上げ部数が伸びるという営業上の「現実」が存在するからだ。
 「視聴率を安易に稼ぐための商業主義が、日本製アニメ全体の信頼と評価を損なっている。結果的に日本の残酷アニメの放送に『もうたくさんだ』と言い出した親たちがチャンネルを切り換えてしまい、人気はガタ落ちになってしまいました」
 前出のイザール氏はそう言って、自局の子ども番組のほうが今は人気が高いと胸を張るが、いささか我田引水の印象をぬぐえない。日本のアニメは「低俗」で「残酷」という大人たちの唱和はつのる一方だが、それでもなお、依然として子どもたちの間では高い人気を維持して揺らぐことがない。子どもたちは、大人の論争に参画する資格も言葉も持たない。当事者である彼らの声は不在のまま、アニメをめぐって大人たちのヒステリックな右往左往が演じられているのである。


文化侵略のゴールドラック


 フランスへの日本アニメ進出は、76年にまでさかのぼる。この年、『ゴールドラック』(邦題『グレンダイザー』)と、『キャンディ・キャンディ』が大ヒット。キャラクター商品も飛ぶように売れて品切れとなり、当時のジスカールデスタン大統領夫人までが、「孫のためになんとか手に入らないだろうか」と、業者にこっそり頼みこんだという逸話も語り伝えられている。
 この時期、ヨーロッパにおける日本アニメの浸透は、フランスばかりでなく、欧州全域に広がった。スペインでは国営第二チャンネルで『マジンガーZ』が放映されて空前の人気を呼び、『マジンガーZ』のコミックやぬり絵などの出版物が、ディズニーの全出版物の合計を上回る売り上げを記録したという。
 以後、着実に日本製アニメはヨーロッパ市場においてシェアを伸ばし、そのため80年代に入ってからは、「日本の文化侵略だ」という声が、業界の内部やマスコミから出始めるようになった。
 「日本のアニメが、ヨーロッパに入った責任の大半は、私にあります」
 東映動画国際部のエージェントである、東京ビジネスコンサルタントの松本隆夫氏は、パリの中心地、オペラ座近くに構えたオフィスでそう語った。
 「この二年間は、東映のものだけで週に12本放映させました。他社のもあわせると一週間に20本、日本のアニメが流れたことになります。誰だって多すぎると言いますよ。今年からは少し減らす予定です」
 ヨーロッパ製、アメリカ製、日本製がそれぞれ3分の1ずつ占めるような比率が理想的だと、松本氏は考える。だが、フランス製アニメは決して好調とは言えない。日本製アニメへの批判の裏には、力量不足のフランスの業界のやっかみもあるのだ、という。
 「日本製アニメの成功はまず、とにかく面白いことですよ。だから大人が批判しても子どもが見るんです。子どもは素直ですよ。よく『暴力的だ』という非難をされますが、私はそういう場合、日本の社会を見てくれ、欧米よりはるかに犯罪が少ないじゃないか、と反論するんです。アニメを見たら暴力犯罪が増えるというなら、今頃、日本はたいへんな犯罪社会になっていなきゃおかしいではないか、と」
 それからもう一点、日本のアニメの強みはコストが安いことだという。「フルアニメーションは一秒間に24コマですが、日本のものはリミテッド・アニメーションといって、一秒間二十数コマで済むように上手に省略しているのです」
 そもそも、日本製アニメへの批判はまず、この技術的な問題に向けられた。品質の悪い商品を作り、低価格で売っている、というわけだ。かつて、日本の家電製品に向けられた批判を思い起こさせる論法である。
 フランス社会党政権は、この問題に対して厳しい態度でのぞんだ。83年、ジャック・ラング文化大臣は、日本製アニメを「文化侵略を行う敵」とはっきり定義し、その上でフランスのアニメ産業の振興を政策として発表。ヨーロッパ文化の伝統に根づいたテーマで、しかも品質のよいフルアニメを作るよう、そのための助成金を政府が出すことを約束した。
 実際に四つのスタジオを開設し、アニメーターを育成するワークショップも作り、官民あげてフレンチ・アニメの制作に取り組んだ。しかし、結果的にはどの作品もコストが高くついて採算割れ。日本のアニメの技術水準を超えられず、ついにはリミテッド・アニメの手法を学び直すはめとなり、今では日本製アニメの品質や技術についての批判は、すっかり影をひそめた。そして現在では、先述したように、その「暴力性」に矛先が向けられている。
 もっとも、このプロジェクトはまったくの失敗だったわけではなく、この数年、少数ながらフランス国産アニメがブラウン管に登場するようになった。アトランティス大陸を舞台にした冒険ものの『モンド・アングルチス』や、ユリシーズをSFに焼き直した作品など、少数ながら人気を博す作品も現れた。それ以前は国産のアニメ番組はほとんど皆無だっただけに、日本のアニメの登場が刺激となって、フランスにアニメ産業を誕生させた、とも言える。


ジャンヌとセルシュでバレーボール


 TF1と並んで日本製アニメを放映している第五チャンネルのラ・サンク。当事者の、アニメ批判に対する反論に耳を傾けよう。
 「テレビ局にとって、子どもたちは非常に重要なお客様です。子どもたちの喜ぶアニメは、したがって、テレビ局にとっては欠かせない定番のプログラムなんです。では、今地球上でいちばん面白くて素晴らしいアニメを作っているのはどこか? 日本だ。だからわれわれは日本のアニメを放送しているんです」
 ラ・サンクのプロデューサー、カルロ・フレッチェロ氏は、イタリア人らしく、オペラを歌っているかのような大仰な身振りで話す。ラ・サンクはイタリアの資本によって経営されている、ボーダーレス・エコノミー時代ならではの後発民放局である。
 「私はイタリアにいたときには、午後8時のプライム・タイムに日本製アニメをぶつけることまでしました。なぜか? 理由は簡単、視聴率がとれること、そして一シリーズ中のエピソードの本数が豊富で、視聴者をひきつけられるからです。フランスでは、一定の比率でヨーロッパのものを流さないといけない。ところが放映しようにも作品数が非常に少ないのです。しかたなく何本か流していますが、質も落ちる。実際のところドラマはアメリカが女王、アニメは日本が王様、これは動かしようがない。
 なぜ、ヨーロッパは駄目なのか。それはヨーロッパでは、テレビについて考えられているレベルが芸術のレベルであって、いまだ産業ではないからです。日本では民放が発達していますから、視聴率さえ上がれば、スポンサーが番組にお金を出す。イタリアも同じです。ところがフランスでは、スポンサーは各番組に対してではなく、局に対してお金を払う。その金額も少ないから制作資金も足りない。世間はまだ、民放を悪魔のように思っているのです。まったく、70年代頃の議論を今、やっているんですよ」
 ラ・サンクで放映されているアニメは、すべてイタリアで買いつけられたもので、ヨーロッパ人の基準でいう度を超えた残酷描写、不可解なシーンなどは削除され、主人公たちも無国籍な名前に変えて、視聴者に受け入れられやすい工夫をしている。また、世間の批判をかわすためにスポーツものをメインにしており、とりわけ『ジャンヌとセルシュ』(邦題『アタッカー・ユウ』)は、少女たちの間ににわかにバレーボール・ブームを巻き起こすほどの大ヒットになった。その歳、8歳から10歳にかけての少女バレーボール人口は前年の倍に増え、バレーボール協会から感謝状も贈られた。
 日本から買いつけたアニメをそのまま放映しているTF1の子ども番組『クラブ・ドロテ』に比べて、万事要領がいい。批判を浴びるか浴びないかは、要するにやり方次第なのだ、とフレッチェロ氏は胸を張る。
 そして、彼はこう語る。
 「あくまで私の意見ですが、いつも市場の中に存在する商品には、ローカルなものとインターナショナルなものがあり、その間には弁証法が働いています。たとえば私の着ている服はベネトンですが、これは国際的な商品です。しかし同時に、この商品のデザインは、ある限定された地域の歴史的な記憶に根ざしている。インターナショナルな商品は常に、元々はローカルな商品なのです。どのような理由によるものか、それが突然、全世界的なレベルの商品に跳躍することがあるのです。日本のアニメは、まさしくそうした商品のひとつです」
 フレッチェロ氏の熱っぽい日本アニメ礼賛は、取りようによっては、利益を確実にあげられる商品の権利をいち早く押さえた者の、余裕の勝ちどきにも聞こえる。そうした損得勘定は差し引いて聞くとしても、日本のアニメはローカルな地平を離陸して、普遍性を獲得したのだ、という指摘は興味深い。そう遠くない将来、世界中の若者たちは、幼少年期の共通体験として、アラレちゃんや翼や、ラムの記憶について語り合うことになるのかもしれない。


フェアリーテールを子どもに


 日本のアニメについて語るときに、テレビアニメと並んで劇場用アニメの存在を忘れるわけにはいかないが、不思議なことに劇場用アニメはフランスではほとんど紹介されていないという。宮崎駿や押井守の作品が一本も公開されていないと聞くと、奇異な感じすら受ける。「宮崎作品がフランスで上映されないのは、20世紀最大の謎ですよ」と言うのは、大友克洋のリアルで金属的な、硬質の画風の形成に深い影響を与えたと言われ、日本でも一部にカルト的なファンを持つ、メビウス・ジャン・ジロー氏である。
 「一般のフランス人は、『風の谷ナウシカ』も『魔女の宅急便』も見たことがない。日本のTVアニメを喜んで見ている子どもたちも、それを苦々しく思っている大人たちも、実は日本のアニメ界が持っているバリエーションや品質の高さについて、まったく無知なんです。もし、自分に許されるなら、私は一日24時間、日本のアニメばかり流すテレビ局を作りたい。そう、MTVのようなやつをね。実現したら宮崎駿の作品だけでなく、もちろん大友克洋の『アキラ』も流したい。でも、正直言うと私は彼が大嫌いなんだ。なんでかというと、あまりにも素晴らしすぎるからね(笑)」
 しかし、それでも一般のフランスの大人たちにとっては、やはり「暴力性」が問題なのだ。昨年、故手塚治虫氏の葬儀にも出席したほど、日本のマンガに好意的なフランスマンガ界の第一人者、フランソワ・コルテジャーニー氏も、日本のアニメの暴力描写には批判的なひとりだ。
 「たしかに、ニュースを見ればアニメの百倍恐ろしいことが、現実に起きている。しかし子どもたちにはそんな悪夢のようなものをわざわざ見せなくてもいい。ヨーロッパには、子どもたちに美しいフェアリーテールを与えてあげるという伝統文化があるんですから」
 もちろん、彼はすべての日本製アニメを否定しているわけではない。『プリンス・サファイア』(邦題『リボンの騎士』)については絶賛するし、『レ・シュヴァリエ・ド・ゾーディアック』に夢中の二人の息子のために、。キャラクター商品のオモチャを買い与えてもいる。最近ではこの『ゾーディアック』と『ドラゴンボール』が大当たり。ちなみに『ドラゴンボール』は、アニメファン雑誌の89年度グランプリに選出された。
 コルテジャーニー氏自身のマンガ作品はと言えば、いずれもほのぼのとした、毒のない作風である。強い刺激とスピード感に慣れた日本の子どもたちには、彼の描くような優しいフェアリーテールは退屈かもしれない。だがそれも当然で、彼が読者対象としている子どもとは、10歳から12歳くらいまで。それより上は彼の定義によれば「子どもじゃない」。
 「ヨーロッパは、子どもをいつまでも子ども扱いしない。そもそも日本のように、子どもが王様という文化ではないんです。成長とは、子どもたちがだんだん自由を獲得してゆく歴史なのです」


「人間以前」とオトナ子ども


 日本やアメリカと違い、ヨーロッパは子どもを楽しませる文化がきわめて希薄である。つい最近「パーク・アステリクス」という遊園地がパリ郊外にできたが、それまで常設の遊園地などまったくなかった。ヨーロッパ各国、どこでも事情は同様であるが、とりわけフランスの場合は、レストランに犬は連れて入れるが、子ども連れは断られるという、徹底してオトナ中心の社会であり、文化なのだ。
 極論すれば、この国では子どもは「人間」ではない。「人間以前」だからこそ、親もリアリティのないフェアリーテールのみを与えてよしとする。そして「人間」になったとたん、今度は世界の現実を容赦なくつきつけ、背負わせる。
 たとえば、前出のTF1(テーエヌファン)の青少年番組のプログラム編成は、十歳以下までは、あたりさわりのないアニメや教育番組なのだが、11歳から15歳向けとなると、ガラッと変わる。代表的な番組は『LOUF』という視聴者参加の討論番組である。ここで取り上げられるテーマはセックス、麻薬、非行など、身近な(!)テーマばかりだというが、ローティーン向けの番組にしては恐ろしく生臭い。
 無菌のおとぎ話の国から、毒々しさに満ちた現実のただ中に放りだされたその日から、少しでも早く大人になり、自立することが彼らの目標となる。幼児性をずるずるとひきずり、成熟を拒むケースは、日本に比べてはるかに少ないという。
 日本のテレビ局の駐在員としてパリに住んで10年になる、30代後半のある独身日本女性は、大人になることの日仏の違いについてこう語る。
 「私、もう日本へ帰れないなと思うんです。日本で年を取るのがとても怖い。日本だと女性の現役は25歳くらいまでで、あとはおばさん扱いでしょう。ここだと年齢が幾つになっても、男性がちゃんと女性として扱ってくれるの。テレビは日本ほど面白くないけれど、この国にはほかにいくらでも大人の楽しみがありますしね。若いうちは日本はとても楽しい国だと思う。でも大人になってからは、決して楽しくないのね。すべてが子どもと若い人中心。だから日本の人は成熟したがらない、大人になりたくないんだと思うの」
 ヨーロッパにおいて成熟が自由の獲得であるなら、日本ではそれは、幸福とイノセントの喪失を意味する。そう言い切っても、あながちはずれてはいまい。成熟を呪うオトナ子どもたちが作り上げた、巨大なマスカルチャーとしてのマンガ・アニメ文化。ヨーロッパの大人たちが違和感を覚えているのは、アニメの暴力描写などと言う些末な問題だけでなく、その背後にある異文化としてのニッポンそのものに対してかもしれない。
 そして、その違和感は、ポスト冷戦の世界構造再編成のなかで、日本を排除してゆく政治的な動きともつながってゆく。


出稼ぎアニメキャラに祝福を


 ECは、昨年12月にEC域内のテレビ放映時間のうち、最低30%はヨーロッパ製のものにするという決議を採択した。これは、米国の映画・ドラマ、日本のアニメを念頭においたものであり、ヨーロッパが統一して文化防衛の共同戦線を張ろうとしているのだと、「ル・モンド」紙の、コミュニケーション分野担当のジャン・フランソワ・ラカン氏は明言する。
 「日本の影響を完全に排除したいというわけではない。また、そんなことはできません。ただ、ヨーロッパ文化のアイデンティティを守るために、一定の制限を設けようということなのです。アメリカは非常に敏感に対応してますね。ディズニーはパリ郊外とロンドンに、スタジオを開きました。ハリウッドの各映画会社も次々ヨーロッパに拠点を築き、ヨーロッパの会社との合作を増やしています。これは日本のビデオの締出しのとき、AKAIがオンフルールにいち早く工場を作ったやり方とまったく同じです。これは非常にいい解決方法です」
 日本がヨーロッパ文化をどれほど身近に感じていても、彼らからすれば日本は依然として、車とエレクトロニクスとアニメを洪水輸出する、理解しがたいアジアの島国なのだろうか。
 「いや、そうではない。日本のアニメが、ヨーロッパの文化のある部分にまるっきりとってかわることはできないということです。ただ、互いの立場がぶつかり合うことで、新しい文化の変容がもたらされるでしょう。すでにそれは起きていると思います」
 子ども中心の文化と、大人中心の文化の摩擦が生む熱は、苛立ちと不可解さのなかで空費されるのだろうか。それとも新たな創造のエネルギーとなるのだろうか。多くは望むまい。ただ願わくば、メディアのグローバル化が進むなかで、いつかポパイやミッキーマウスのような全地球規模のアイドルが、今、世界中に出稼ぎに出ている日本のアニメキャラのなかから誕生することを祈りたい。

この原稿は「クレア」(90年3月号)に掲載されたものに一部加筆・訂正を加えたものです。


TOP | Profile | These Days | Works | Child | Link | Books