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【転載歓迎】「JAPANデビュー第4回」全内容-Part.3

★第二部 日独伊三国同盟

1922年。ドイツはソビエトとの間で、国交の正常化を図るラパロ条約を締結。ドイツの高い技術力を求めるソビエトと、軍事的な協力関係を深めていきます。

こうした中、軍備を厳しく制限されていたドイツが、本国では作れなかった軍事的な拠点をソビエトに次々と作っていきます。リペツクの飛行機学校。ベルサイユ条約で、空軍を持てなかったドイツは、ここでパイロットの育成を続けました。トムカの毒ガス実験場。毒ガス弾の発射など、戦闘訓練が協同で行われました。カザンに作られた戦車学校では、操縦の訓練だけでなく、戦車の開発や量産化のための様々なテストが行われていました。

★クルップ歴史アーカイブ(ドイツ・エッセン)

ドイツの再軍備を制限するベルサイユ条約に違反するこうした行為が、どのように行われていたのか。当時、ドイツの巨大軍需企業だったクルップ社に残された資料に、その実態を知る手掛かりが記されていました。

★クルップ社技師 ベェルフェルトの証言

クルップ社がソビエトのカザンに運んでいたのは、大型のトラクターだった、と記されています。しかし、その正体は戦車。トラクターはベルサイユ条約を掻い潜るためのカモフラージュでした。カザンで撮影されたこの写真に写っている戦車も、トラクターだとされていました。この日は、スタッフの誕生祝い。しかし、直前まで攻撃のテストが行われていました。

ドイツがソビエトと手を組んだ思惑が、両国高官の秘密会談で語られていました。

「ドイツがロシアを必要としているのは、兵器廠としてである」

製造に当たり、様々な走行試験を必要とする戦車。ドイツは、それをモスクワから600キロのカザンに疎開する形で継続。戦車の製造技術を生き残らせることに成功しました。

こうして、ヒトラー政権誕生後の軍備拡張の土台を築いたドイツ。1939年の第二次世界大戦勃発後、瞬く間にヨーロッパを席巻して行きました。破竹の勢いのドイツに接近し、同盟の締結へと乗り出すのが、第二次近衛内閣の外務大臣松岡洋右です。松岡は、日独伊の三国にソビエトを加えた四ヶ国で同盟を結び、アメリカの参戦を抑える、という構想を持っていました。

その後、ドイツとの交渉が進展。1940年9月、日独伊三国同盟がベルリンで調印されます。この時の附属議定書には、ドイツが、日本とソビエトの間を取り持つ仲介者となることが謳われていました。

その六ヶ月後、松岡自らがベルリンを訪問。ヒトラーと面会し、日本とソビエトの仲介を務める約束の実行を求めます。しかし、これは拒否されます。実はこの時、ヒトラーは、ソビエトを攻撃するバルバロッサ作戦を既に決意。次のように命じていました。

「バルバロッサ作戦は、日本人に向かって決して漏らしてはならない」

ソビエトとの仲介を拒否された松岡は、モスクワに乗り込み、自力で交渉を開始します。そして、1941年4月13日。日ソ中立条約の調印に漕ぎ着けます。松岡はソビエトを加えた四ヶ国が手を組み、アメリカを抑えるという構想が、大きく前進したと、得意の絶頂にありました。

その前夜、松岡の下に、一通の書簡が届いていました。差出人はイギリスの首相となっていたウインストン・チャーチルです。ドイツと手を組んだ日本が、シンガポールなどを攻撃し、アジアに戦線が拡大することを危惧していました。チャーチルは、日本が置かれた状況を、箇条書きにして具体的に示し、松岡に問い掛けました。

「日本の三国同盟加盟は、アメリカを参戦させる可能性を高くするか、それとも低くするだろうか。イギリスとアメリカの鉄鋼の生産量は、合わせておよそ9000万トン。ドイツが負ければ、日本の700万トンという量は、単独で闘うには不充分ではないか」

これに対する松岡の返事です。

「日本の外交は、あらゆる事実を公平に検討し、決定されつつも、我が国が八紘一宇と呼ぶものを実現する宿願を持っている」

松岡は、チャーチルの警告を顧みることなく、日本の対外進出の姿勢を変えませんでした。日ソ中立条約成立の二ヶ月後。突如、ドイツが、バルバロッサ作戦を敢行。ソビエトに侵攻します。ソビエトを加えた四ヶ国で手を組み、アメリカの参戦を抑えるという松岡の構想は、ここに潰えました。

語り・礒野佑子:
軍事同盟は、最新の軍事技術獲得を巡る攻防戦に、大きな影響を与えます。第二次世界大戦勃発の直後、イギリスがドイツによる空襲に対抗するために開発したレーダー。およそ10メートルという長い波長の電波を使っていたため、巨大なアンテナが必要でしたが、ドイツ軍機の接近を事前に捉え、迎撃出来るようになっていました。こうして威力を発揮し始めたレーダー。さらに電波の波長を短くして小型化する画期的な基礎技術が、相次いで発明されます。1939年、波長10センチの電波を、高出力で発生させる磁電管「マグネトロン」が、先ず日本で開発されます。翌年の1940年。同じ波長10センチの電波を出せるマグネトロンが、イギリスのバーミンガム大学でも作られました。ほぼ同じ時に開発された二つのマグネトロン。同盟国を巻き込んだその実用化競争が、第二次世界大戦の帰趨に大きな影響を与えます。

語り・濱中博久:
1941年2月。日独伊三国同盟の締結を受け、日本海軍の視察団がベルリンに到着します。海軍技術研究所の伊藤庸二は当時のレーダー開発の第一人者でした。

★海軍技術研究所・伊藤庸二造兵中佐

ドイツは当時、波長80センチのレーダーを既に実戦に投入。その実用化に関する最新技術を得たいと、伊藤は考えていました。ドイツに入った視察団は、戦闘が続く西部戦線に出向きます。

伊藤庸二の次男良昌さんです。当時、伊藤が持ち歩いていた地図が残されています。

伊藤良昌さん:
「えー、ドイツからベルギーに入りまして、かの有名なあのダンケルクの撤退の所ですね。それで有名なモンサンミッシェルを通って、ブリタニーの先端まで行きまして」

大西洋に面したブルターニュ半島の至る所で、伊藤はレーダーの施設を目にします。しかし、それについて質問をしても、答をはぐらかされるだけでした。

伊藤良昌さん:
「執拗に見せてくれるということをドイツ当局に申し入れて、大変苦労したということだけは聞いとります。やっぱりドイツも最高の軍事機密だったんだと思いますね」

交渉の末、ロリアンという港町の郊外で3月23日、伊藤らは漸くレーダー施設の見学を許されます。「ドイツ電探をここで初めて実地に見る」。

ロリアンから北へ15キロ。第二次世界大戦中、ドイツ軍がレーダーを設置していたケロック村です。ジャン・フィシュウさんは、ドイツ軍に占領された後も、家を護るため、村に残っていました。

ジャン・フィシュウ(86)さん(英語:NHKによる翻訳):
「ここにレーダーの台がありました。固定した跡が残っています。とても大きなものでした」

ドイツ軍は、この村で防空レーダーを既に稼働させていたのです。伊藤は、実際に見たレーダーを、図入りの解説を付けて報告。装置二組を入手するよう、海軍省から命じられます。しかし、それが実現する前に帰国することになりました。その理由について、視察団は、機密兵器故、ヒトラー総統の決裁を要するため、時間が掛かることなどを報告しています。
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Author:JIF-情報統括
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