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【転載歓迎】「JAPANデビュー第4回」全内容-Part.2

★第一次世界大戦(1914-18)

1914年7月。第一次世界大戦が勃発。西洋列強は、多くの軍事力をヨーロッパでの戦争に費やし、東アジアに一時的な力の空白が生まれます。外務大臣に就任していた加藤は、これを満州の権益を確保する絶好の機会と捉えました。1914年8月。日本はドイツに宣戦を布告し、第一次世界大戦に参戦。およそ5万の兵をドイツの拠点、青島がある山東半島に派遣します。そして、ドイツ軍を圧倒し、二ヶ月で山東半島全域を征圧しました。その二ヶ月後の1915年1月。日本は中国に対して、所謂「二十一ヶ条の要求」を突き付けます。主な内容は、旅順、大連の租借や、所謂満鉄の期限を99年延長するなど、日露戦争で獲得した満州の権益を長きに渡って確保しようとしたものでした。

さらに加藤は、この時、第五号と呼ばれる、より踏み込んだ内容の要求を中国に突き付け、交渉を進めていました。中国政府や軍の顧問として、日本人を招くこと。日本から一定の量の兵器の供給を受けること。外国の資本を導入する時は、先ず日本に協議すること。中国側は、内政への干渉だと強く反発します。

この第五号に対して、イギリスの外務大臣グレイは、日本に対する強い不信感を露わにします。

「問題は第五号である。この中には、厳密な意味が疑わしいものがある。日本人顧問の要求などは、中国を日本の保護国にしかねないのではないか」

マンチェスター大学元教授(日英関係史)ピーター・ロウさん(英語:NHKによる翻訳):
「第五号の問題点は、条文の中身が明確に定義されていない極めて曖昧なものだったということです。その曖昧さを利用して、日本が将来中国に対して、さらに要求をするのではないか、とイギリスは疑いました。この要求が、急速な日本の拡大を惹き起こしかねないと、危惧したのです」

二十一ヶ条の要求をまとめていた加藤達の下には、軍部をはじめ、様々な業界や団体から、中国に対する要望が数多く寄せられました。中国の陸海軍に日本人を招聘すること。こうした要望が、二十一ヶ条の要望の第五号に取り上げられることになったと考えられています。

京都大学大学院准教授(日本政治外交史)奈良岡聰智さん:
「第五号というのは、加藤個人が積極的に発案したというよりはむしろ、軍、実業界、あるいは与党の同志会、宗教界、教育界、など、あの、様々な方面からの意見を、聞かざるを得ない状況になって、そういう要求を、政府で集約した結果、出来たものだと。まあしかし、その中で、この対外的に何処までのことが出来るのかと、いう意識が非常に甘くなり、そして国内のいろんな強硬論に引っ張られて、その結果、あー、従来日本が学んできた帝国主義外交の範囲を逸脱してしまう、ようなことをしてしまったというのがこの第五号だと思うんですね」

イギリスの外務大臣グレイの強い抗議を受けて、加藤は第五号を取り下げることを余儀なくされます。しかし、その後、中国に対して、武力行使を匂わす最期通帳を突き付け、残りの要求を受諾させました。

アメリカのウイルソン政権は、これに猛反発し、日本に対してこう表明します。
「アメリカは中国の主権を脅かす日本の政策を一切承認しない」

二十一ヶ条の要求は、太平洋を挟んで緊張を高めていた日本とアメリカの間に新たな火種を残すことになりました。この時、イギリスは、第一次世界大戦を乗り切ることを優先し、同盟国の日本から、更なる協力を引き出す道を選びました。その方針が、東京のイギリス大使館で作成された報告に記されています。

グリーン駐日大使の報告:
「我々は足踏みをして時期が来るのを待つ。戦争の厳しい曲面を乗り越えるまで」

ロンドン大学名誉教授(日英関係史)イアン・ニッシュさん(英語:NHKによる翻訳):
「当時の、第一次世界大戦の戦況は悪く、イギリスとしては、日本を仲間に入れておくこと。つまり日本との関係を乱さないことが重要でした。時間稼ぎをするとは、こういうことです。日本に対しては、暫くの間、兎に角何もしないでそっとしておく。つまり問題は棚上げしておこう、というものでした」

第一次世界大戦が勃発した時、海軍大臣となっていたチャーチルは、日本の海軍省に宛てた書簡で、こう述べていました。

「現在、我が国の関心は、北海と地中海での作戦に移っている。しかし、将来必要な時には、日本海軍の強力な援助を頼りにしている」

チャーチルが考えた日本を必要とする時は、直ぐに訪れます。1916年、ドイツ製潜水艦「Uボート」が大西洋や地中海において、連合国側の一般艦船を集中的に攻撃する作戦を展開します。1917年1月。イギリスは、日本艦隊の地中海への派遣を要請。日本政府がこれに応じ、駆逐艦8隻を中心とする第二特務艦隊が編成されました。

向かったのはマルタ島。イタリア半島とアフリカ大陸に挟まれた要衝の地です。イギリスの地中海艦隊の司令部が置かれ、連合国軍の拠点となっていました。

第二特務艦隊がマルタに到着したのは、1917年4月。隊員の総数はおよそ1000人。ヨーロッパの戦場に、兵員や物資を運ぶ連合国の艦船の護衛が任務でした。地中海での戦闘は、どのようなものだったのか。駆逐艦「松」に乗っていた近藤英次郎が、その詳細を綴った記録を残しています。

 ―失礼します。あっどうもこんにちは。

近藤英次郎の長男の勲さんです。

 ―今日、ちょっと色々お話しを聞かせて……

勲さんは、父親が地中海遠征の労を労う勲章を貰った年に、生まれました。

近藤勲(89)さん:
「これは、あの、金鵄勲章ね」

 ―金鵄勲章ですか

「ええ、この勲章ね。あの勲のね、あの勲章のくん、付けて頂いて。な、名前にちょっと押されてますけどね」

近藤が乗る駆逐艦「松」と、常に行動を共にしていた「榊」。二隻はマルタ到着の二ヶ月後に、Uボートの脅威を思い知らされます。

船首を大きく吹き飛ばされた「榊」。敵に捕捉されていたことに気付かず、いきなり魚雷を撃ち込まれました。59人が命を落とし、15人が重軽傷を負いました。

近藤勲さん:
「ちょうど頭の真ん中に、10センチばかりのね、傷がありましてね。それはもう、榊がやられた時の破片受けた傷だよっつってました。」

この時、近藤は榊に乗り込み、遺体を収容しました。

1917年6月12日:
「惨状目も当てられず、肉片飛散し、鮮血甲板を染む。内蔵露出し、全身焼爛し氏名を判じ得たる者、僅かに18名。肉片、大型毛布に包む」

マルタに派遣されたおよそ一年半の間、第二特務艦隊は、連合国の艦船788隻を護衛。護送した人員の数は70万人にのぼりました。その働きぶりは、ヨーロッパで「地中海の守り神」と賞賛され、特務艦隊を讃える歌まで作られました。しかし、地中海での任務は過酷を極めました。何時魚雷攻撃を受けるか分からない、常に死と隣り合わせの恐怖。極限状況の中で、兵士が消耗していく様子が、近藤の日記に克明に綴られています。

『地中海遠征日記』1917年8月18日:
「約二週間、敵船を避くるため、連日、夜行のみに始終し、疲労甚し。これ皆、英国のためなどと思うと、時々馬鹿らしくなれり」

岩手県二戸市。地中海遠征に参加し、マルタで病死した五日市規矩司の故郷です。

★五日市規矩司大尉

妹の沢田季子さんは、18人兄弟の末っ子。兄の規矩司は次男でした。

沢田季子(87)さん:
「右側が規矩司兄さんだと思います。右側の方が兄だと思います」

享年三十一。許嫁を東京に残していました。五日市家には、マルタから送り返されてきた軍服などの遺品が当時のままに残されています。

沢田季子(87)さん:
「こんな色で、もう少しね、あかるーいあの、あれで。これやっぱり、何年も経っているから、こんな色になったと思いますよね。随分綺麗なあれだなあと思って私」

国家間の同盟故に、遠く離れた異国の地、マルタで失われた若い命でした。

第二特務艦隊の犠牲者の数は、78人にのぼりました。しかし、この兵士達の死が報われることはありませんでした。第二特務艦隊が地中海に派遣されていた最中の1917年8月。イギリスの駐日大使グリーンが、東京からロンドンの外務次官に宛てた書簡です。

二十一ヶ条の要求を巡り、日本政府と折衝したグリーンは、日英同盟の将来を否定。アメリカを巻き込んで、東アジアの安定を図ることを提案していました。

★イギリス駐日大使カニンガム・グリーン

1917年8月30日 駐日大使グリーンの書簡:
「現在のうわべだけの日本との友好関係は長続きしない。我々はこれを近いうちに解消し、アメリカを味方に付けて、極東における勢力の均衡を取り戻すことになるだろう」

第一次世界大戦を通じて、世界の盟主となったアメリカ。戦勝国として、新しく五大国の一員となった日本。両国の間には、緊張が高まっていました。イギリスは、大戦中からアメリカと着々と関係を深めていました。外務大臣のバルフォアは、イギリスが将来取るべき道について、こう述べています。

★イギリス外務大臣 アーサー・バルフォア

「日本がアメリカを攻撃した場合、我々はアメリカ側に着く」

第一次世界大戦終結から三年後の1921年。太平洋の現状維持を定めた四ヶ国条約がアメリカで結ばれ、日英二国間の同盟が廃棄されることが決まります。日露戦争以来、20年に渡って後ろ盾となってきた同盟国を、日本は失いました。

語り・礒野佑子:
イギリスとの同盟を失った1920年代以降、日本はドイツに接近します。日本が求めたのは、最新の軍事技術です。潜水艦Uボートの建造技術も、その一つでした。しかし、当時ドイツは、ベルサイユ条約によって潜水艦の保有は出来ず、その他の軍備も厳しく制限され、軍事技術の輸出も禁じられていました。

★ベルサイユ条約・ドイツの軍備を厳しく制限

日本とドイツは、水面下の交流を活発化させます。そして、1936年。社会主義国ソビエトを共通の敵とする日独防共協定を締結。結び付きをさらに強めました。ところが、ドイツは軍事技術を巡って、他の国とも関係を深めていました。その一つが、敵対するはずのソビエトだったのです。この時期、日本にもソビエトにも同時に接近していたドイツ。日本は、ドイツの多面的な軍事・外交戦略に対し、難しい国の舵取りを迫られることになります。
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JIF-情報統括

Author:JIF-情報統括
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