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【転載歓迎】「JAPANデビュー第4回」全内容-Part.1

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★オープニングタイトル

JAPANデビュー
未来を見通す鍵は歴史の中にある
世界の連鎖が歴史をつくってきた
150年前 世界にデビューした日本
私たちはどう生きた
そしてどう生きる

NHKスペシャル
シリーズJAPANデビュー
第四回 軍事同盟 国家の戦略
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★砲撃演習

語り・濱中博久:
日本が世界の荒波に船出した150年前。
鎖国していた日本の扉をこじ開けたのは、西洋列強の軍事力でした。
その後、戦争に次ぐ戦争の時代を迎える日本。
列強と結ぶ同盟関係が国家の命運を大きく左右しました。
日本が初めて結んだ軍事同盟「日英同盟」は、日露戦争に勝利をもたらします。

★日露戦争(1904-05)

続く第一次世界大戦でも戦勝国となり、日本は世界の五大国の仲間入りを果たしました。
★第一次世界大戦後(1914-18)

その後、日本が接近したのがドイツです。

★日独伊三国同盟(1940)

しかし、世界の複雑な外交戦略の中で、列強の思惑を読み違え、次第に国際社会で孤立していきます。

その舞台裏には、最新の軍事技術「レーダー」を巡る駆け引きもありました。

★太平洋戦争(1941-45)

同盟に国家の生き残りを託しながら、破滅への道を突き進んだ、日本の歩みを辿ります。

★第1部 日英同盟の時代

日本海海戦を闘った日本の連合艦隊の旗艦「三笠」。
ロシアのバルチック艦隊を打ち破った5月27日。104年経った今も、歴史的な海戦の記念日として式典が行われています。海上自衛隊の幹部をはじめ、400人を越える人が集まりました。

★日本海海戦記念式典会場(国歌斉唱「君が代」)

海上自衛隊横須賀地方総監・松岡貞義海将:
「明治の帝国海軍の先人は、軍隊の究極の目的である戦闘において勝利するため、ひたすら坂の上の雲を目指して、戦備を整え、厳しい訓練を重ね、遂に国家存亡を賭けた日本海海戦において圧倒的勝利を得ました」

この日、日本の勝利に貢献したとされる「測距儀」が披露されていました。

説明者の声:
「それを動かして、像を合わせて下さい」

測距儀とは、目標までの距離を測る機器で、敵艦の位置を知るのに使われました。

説明者の声:
「今度、左を見たら距離が出ますから」

日本海海戦の時、東郷平八郎率いる連合艦隊には、イギリスから輸入された高性能の測距儀が配備されていました。

三笠の測距儀を製造したメーカーは、今、軍需企業タレス社に所属しています。日本支社長のミッシェル・テオバルさんです。

タレス・ジャパン社長・ミッシェル・テオバルさん(英語:NHKによる翻訳):
「敵より優位に立つには最新の技術が必要です。司令官を決定的な瞬間に支える技術が日本にあったことを、あの有名な絵は示しています」

★神戸(3月30日)

同じタレス社が製造した最新式の潜望鏡。今年三月に就役した海上自衛隊の最新型の潜水艦「そうりゅう」に装備されています。最新の軍事技術を巡るイギリスとの深い繋がりは、今も脈々と続いています。

★日英同盟(1902・明治35年)

日本がイギリスと同盟を結んだのは、今から107年前、明治35年のことです。明治維新以来、列強と初めて結んだ対等の条約でした。第三条にこうあります。

「同盟国が他国と交戦し、第三国が参戦した場合には共同で戦闘にあたる」

当時、朝鮮半島への進出を図っていた日本は、中国東北部、当時の満州からさらなる南下を目論むロシアとの緊張を高めていました。弱肉強食の帝国主義の世界で、生き残りを図るため、大国の後ろ盾を得ることは、日本の悲願でした。

★ロンドン

一方のイギリス。世界に手を広げていた大国が、日本と同盟を結んだ背景には、当時、各地で直面していた危機がありました。

語り・礒野佑子:
イギリスと日本の利害は、ロシアが脅威という点で一致していました。この頃ロシアが、同盟国フランスの出資で建設していたシベリア鉄道。完成すれば、ロシアは世界最強とされた陸軍を、極東に自由に送り込めました。イギリス最大の植民地インドを窺うことも可能になります。さらに、世界各地で同時多発的に起きた紛争が、イギリスを苦しめます。1899年に南アフリカ地域で起きた「第二次ボーア戦争」。ダイヤモンドと金を巡る闘いにイギリスは40万の兵士を動員。膨大な戦費を支出します。

翌年、中国で外国人を排斥しようという義和団事件(1900)が起こります。ボーア戦争への対応に追われたイギリスは、限られた兵員しか送れず、自国民の保護さえままなりませんでした。イギリスは、世界各地の軍事態勢を見直し、香港などに配備されていた、中国艦隊に着目します。

★イギリス中国艦隊(香港)

本国から遠く離れ、その維持には膨大なコストが掛かっていました。

語り・濱中博久:
この時、イギリスで何が検討されたのか。海軍大臣が作成した報告書に、その詳細が記されていました。

海軍大臣セルボーンの報告『極東における海軍力のバランス』(1901年9月4日):
「我々に今必要なのは、中国近海の海軍力を、最小限のものにすること。これを実現するのが、日本との同盟である。そうすれば我々の軍艦を、これ以上中国に配備する必要はない」

ロンドン大学名誉教授のイアン・ニッシュさんです。明治から昭和に至る日本とイギリスの関係を、半世紀に渡り研究してきました。

ロンドン大学名誉教授(日英関係史)イアン・ニッシュさん(英語:NHKによる翻訳):
「報告書に書かれていたのは、こういうことです。問題を解決する最善の方法は、日本との同盟を成立させ、東アジアの安全保障の責任を、日本と分担することである。イギリスが、経済的な支出をすること無く、帝国を如何に維持するか。同盟の本質はそこにありました」

日英同盟。そこには、アジアの新興国日本を、自らの世界戦略に組み込むイギリスのしたたかな計算がありました。

★日露開戦(1904年2月)

1904年2月。日露戦争が、日本の先制攻撃で始まります。戦場は、朝鮮半島から満州へと拡大。戦局は、大国ロシアに対して、日本の勝利が続く、予想外の展開となりました。

★サンクトペテルブルク(ロシア)

1904年の秋、ロシアは挽回策に打って出ます。当時、世界最強とされたバルチック艦隊を極東に派遣。戦艦「スボーロフ」や巡洋艦「オーロラ」など、およそ40隻の大艦隊が日本に向かいます。この大遠征の正否の鍵を握っていたのが、ロシアの同盟国フランスです。およそ3万キロの大航海。バルチック艦隊が向かう先々に、フランス領の港が点在しています。そこで、水や食料、燃料の石炭などの補給を受け、兵士を休ませることが出来ると、ロシアは考えていました。ところが、イギリスがその前に大きく立ち塞がります。

日露開戦後の1904年4月。「英仏協商」が成立。イギリスとフランスが手を結んでいました。英仏協商がある以上、フランスは、イギリスの同盟国日本の攻撃に向かうバルチック艦隊を支援しずらくなります。艦隊は、フランス領の港に思うように立ち寄れなくなり、積めるだけの石炭が積み込まれました。深く沈み込んだ船。同盟国フランスの支援を失ったバルチック艦隊の姿です。補給が限られた過酷な航海で、兵士達は消耗していきます。

巡洋艦「オーロラ」艦長・エゴリエフの書簡より:
「もう何ヶ月も乗組員は船を降りていない。デッキは石炭で埋め尽くされており、何時も粉塵の中に居て、肺結核になるのがとても恐ろしい。艦隊のどの階級からも、死者が沢山出ている」

日本近海に到着する前に、バルチック艦隊の兵士達は、体力も戦意も失っていました。

一方、東郷平八郎率いる日本の連合艦隊は、バルチック艦隊を迎え撃つ準備を、着々と整えていました。対馬沖での海戦。連合艦隊が発射した砲弾が、次々とロシア艦に命中します。日本の圧勝でした。

イギリスは、日本の勝利によって、極東における自らの地位が保たれたと評価します。後に首相となるウインストン・チャーチルは、日英同盟が検討された時、初当選したばかりの新人議員として、同盟に賛成の一票を投じていました。

チャーチル著『The World Crisis 1911-18』より:
「イギリスは、日本との同盟条約を守りつつ、同時にフランスとも、良好な関係を築いていた。ヨーロッパで唯一先見の明を持っていたイギリスは、日本の軍事力を正確に見極め、力と安全を手に入れた」

日本では列強の一つロシアを打ち破った快挙に、国中が沸き返りました。日露の闘いを、太平洋を挟んだ彼方で見つめていたアメリカ。大統領セオドア・ルーズベルトは、日本とロシアが闘い意味を、アメリカの国益に照らして、こう見ていました。

「日本とロシアが闘い、両国は国力を可能な限り使い果たすことは、我がアメリカの利益である」

日本海海戦から二ヶ月余り。ルーズベルトの斡旋により講和会議が開かれます。日本の全県代表は、小村寿太郎。戦勝に沸いた日本の国民は、賠償金獲得の期待を膨らませていましたが、これに応えることは出来ませんでした。

★東京朝日新聞(1905年9月6日)

この結末に、国民の不満が爆発しました。講和に反対する特集記事。「命の大安売」という言葉には、肉親の命を国に差し出しながら、何も報われなかった、という強い嘆きが込められています。

日露戦争による日本の戦死者は、およそ8万人。静岡県藤枝市の「常昌院」では、今も慰霊が続けられています。この地域から出征し帰らぬ人となった兵士の木人形。その数223。遺影を元に、一つずつ手で彫られました。

新聞への投書・横浜市民(遺族):
「余が唯一の弟は、昨年戦死せり。今度の如き屈辱の平和を見るに至っては、彼も虚しく犬死にせしかと、実に憤慨に堪えず。国民は政府当局者を信頼して、子を殺し、夫を殺し、あらゆる犠牲を供して、戦勝の結果を待ちしに、国民の犠牲を顧みざらんとは」

国民に多大の負担と犠牲を強いたロシアとの戦争。賠償金を獲得出来ませんでしたが、日本は満州を巡る権益を手にしました。その後の日本の外交に取って、重要な要素となる満州の権益。遼東半島にある大連、旅順の租借権と、長春と旅順の間の鉄道、後の南満州鉄道の権益がその主なものです。しかし、これらの中、早いものは1923年に期限を迎え、中国に返還しなければなりませんでした。

この満州の権益を巡る交渉を担うのが、加藤高明です。
加藤は、日露講和のポーツマス会議の4年後、友人に宛てた私信で、満州の権益について、強い危機感を訴えていました。

貴族院議員 山本達雄宛・加藤高明書簡:
「満州問題について、このままでは日本が、顔色を失うことにもなりかねない。実に危険千万である」

1913年1月。当時駐英大使だった加藤は、この問題についてロンドンで、イギリス政府の意向を探っていました。外務大臣のグレイと面談。日本が、将来満州の権益を中国に返還しない可能性があると伝えました。グレイの回答です。

駐日大使宛・グレイ外務大臣の報告より:
「一度手にした領土を去ることの難しさは理解しているつもりだ。しかし、満州の問題は、まだ差し迫ったものではないから、今議論をする必要は無いだろう」
プロフィール

JIF-情報統括

Author:JIF-情報統括
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 生存と救出を祈って…

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