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【転載歓迎】「JAPANデビュー第3回」全内容-Part.4

★アメリカ国立公文書館

日本は、アメリカの政策にどう対応したのか。アメリカ国立公文書館には、戦争開始と共に接収された三井物産サンフランシスコ出張所の営業文書が残されています。1937年9月、三井物産サンフランシスコ出張所は、本社に打電しました。

「ゼネラル石油の社長から聞いた。合衆国大統領から日本への石油積み出し差し止めの可能性を打診されたという」

この直後、サンフランシスコ出張所は、管轄のメキシコ駐在員に命令を出します。メキシコから石油を購入する方策を練るように、というものでした。連絡を受けたのは、駐在員の鈴木勝です。メキシコは1910年代に大油田が発見された産油国でした。しかし、国内の石油産業は、アメリカ、イギリスに牛耳られていました。ところが、ラサロ・カルデナス大統領は、外国の石油資本を仰天させる行動に踏み切ります。

「石油生産に関する資産の国有化を宣言する。施設は国家のものとして接収する(1938年3月18日)」

石油施設を奪われたアメリカとイギリスと、メキシコの外交関係は険悪になりました。三井物産メキシコ駐在員の鈴木は、早速石油輸入のための行動を開始しました。向かったのはメキシコ東部の街、ミナチトラン。ここには外国企業を接収して出来たメキシコ石油公社がありました。この時、三井とどのような取引があったのか。石油公社で石油の積み出しに関わっていた社員を訪ねました。

元メキシコ石油公社社員・ラウルサリナス・アラゴンさん:
「アメリカやイギリスから報復として、メキシコの石油を買わないという圧力を掛けられていたんです。だから、買いたいという他の国に売らざるをえませんでした」

――三井という日本企業が当時石油を買いに来ていたかご存じですか
「どの会社に売っていたかは、分かりませんね。当時、それは機密事項だったんです」

★メキシコ石油公社歴史文書館

石油公社の記録を読み込んでいく中に、漸く三井物産の取引の形が見えて来ました。メキシコの石油産業が国有化された1938年頃から、長渕商店という会社が、取引書類に現れます。長渕商店は三井物産の代理店をしている現地法人でした。現地法人の取引にすることで、三井の名を出さず、石油を輸入しようとしていたのです。

テレサ加藤さんの父親、ヒデオ加藤さんは、当時メキシコの日本人社会のまとめ役でした。ヒデオ加藤さんは、生前、三井物産の鈴木勝と会っていました。

「これは1938年8月8日の写真です。コアツァコアルコス、当時メキシコ港と呼ばれていました。これは、この港に来ていた船の一つです。」

★建川丸の入港記念。三井のマサルさん…

三井物産の鈴木勝は、メキシコから石油を積み出すことに成功しました。

★建川丸 横浜へ出港(1938年8月8日)

その第一便、タンカー建川丸が日本に向け出港しました。ところが、二年後。メキシコ政府は、日本への石油輸出を突然停止します。メキシコ外務省の機密文書に、停止の理由が記されていました。

「我が国が締結した米州諸国連帯政策により――メキシコ政府は、日本への石油の輸出を禁止する」

第二次世界大戦の枢軸国であるドイツ、イタリアは、南米から石油などの物資を輸入していました。アメリカは、メキシコと関係を修復し、南北アメリカとイギリス以外には、石油を輸出しないという経済協定を締結していたのです。

寺島実郎:
「日本は日本でね、石油っていうなんか死命を制せられるカードを、こうだんだんだんだん真綿で首を絞められるように握られて、締め付けられてくるっていう被害者意識ね。えー、石油っていうキーワードがね、えー、国家の死命を制する、血の一滴に近い、イメージのものにですね、作り上げてしまっていたっていう状況がね、また、日本の戦争っていうシナリオに結び付いてった、流れだったって言ってもいいかもしれませんね」

★ニューヨークの風景

この頃、アメリカ政府は、新たな事実に気付きます。ニューヨーク連邦準備銀行の検査が切っ掛けでした。横浜正金銀行ニューヨーク支店の帳簿に、出所の不明な多額の預金が突如現れたのです。不審に思い調べたところ、奇妙な口座が見付かりました。アメリカ財務省に報告された調査の結果です。口座の残高は一億ドル、日本の国家予算の7%に相当する巨額の資金です。口座の持ち主は、日本銀行でした。日銀は、アメリカで金を売却して得たドルを、この口座に集めていました。横浜正金銀行は、この口座について、アメリカの法律で義務づけられた報告をしていませんでした。そのため、アメリカ財務省は、これを隠し口座と認定。

★意図的な隠ぺい(willful concealment)

日本が巨額のドル資金を密かに蓄積していたことが明らかになったのです。アメリカ国立公文書館の資料を元に、この事実を探ったエドワード・ミラーさんです。

歴史家・エドワード・ミラーさん:
「日本の資産凍結は、1937年から研究され始め、アメリカの専門家達は、日本の金融資産を注意深く観察していました。日本は中国との戦争に、貿易で稼いだ多額の資金を投入しなければならないので破産する、と予測していました。しかし、実際にはそうなりませんでした。日本はドルを稼ぎ、ニューヨークに隠していたんです。非常に多額のドル資産を持っていましたが、アメリカ当局、連邦準備銀行には一度も報告されていませんでした。これで勢いづいた政府の強硬派は、日本人は我々を騙した、嘘を吐いたと、より対決姿勢を強めたのです」

1940年1月、アメリカは「日米通商航海条約(1940年1月26日)」を破棄。航空機燃料などの輸出制限を開始、いよいよ経済封鎖が始まりました。

★第二次世界大戦(1939年~)

ヨーロッパでは、ドイツに攻められたオランダ政府が、イギリスに亡命しました。日本政府は、この混乱に乗じ、オランダ領東インドから石油の購入を計ります。日本は、オランダ領東インド政庁に対して、315万トンの石油購入を希望。当時の日本の一年間の輸入量にほぼ相当します。実現すれば、アメリカへの過度な依存から脱却出来る量です。

★日本・オランダ石油交渉(1940年9月~1941年6月)

バタビア、現在のジャカルタで交渉が始まります。会議には、スタンダード社、ロイヤルダッチ・シェル社も参加しました。日本側の実務トップは、三井物産会長の向井忠晴。政府の役人では警戒されるという理由で、民間企業の向井が選ばれました。交渉は順調に滑り出し、日本の要求も受け入れられるかに見えました。

★オランダ領東インド経済省長官・フーベルタス・ファン・モーク

しかし、突然オランダの代表が、口を濁すようになります。実は、この交渉の舞台裏では、アメリカ政府が動いていました。オランダ・ハーグの国立公文書館で、今回、それを示す記録が見付かりました。ロイヤルダッチ・シェルの社内文書です。

★電信文:患者(PATIENT)―JAPAN、家主(landlord)――オランダ政府

第三者に情報が漏れないように、電信文には隠語が使われていました。日本を患者、オランダ政府を家主と表現。この中に、医者と表記される人物がいました。スタンレー・ホーンベック、アメリカ国務省特別顧問のことでした。ホーンベックは、オランダ、イギリス政府に対して、日本に大量の原油を輸出しないこと、また、十二ヶ月以上の長期契約はしないことを要求していました。

★日独伊三国同盟締結(1940年9月27日)

交渉開始から二週間後、日本がナチスドイツと同盟を結んだことが、交渉の行方を決めました。

★外交史料館「日蘭会商関係」(1940年10月26日)

日本側の交渉団が、外務大臣松岡洋右に報告した記録です。

「オランダ側から質された。日本はドイツへの輸出を禁止することを確約出来るか」

オランダ戦争資料研究所主任研究員・ピーター・ポストさん:
「オランダやイギリスは、もし日本が求めている通りに、300万トンの石油が、日本側に渡れば、その石油はシベリア鉄道を経由して、ソ連を通過し、ドイツに供給され、ドイツの軍事力が強化されると考えました。もし、それが現実になれば、オランダ領の石油がオランダ人の弾圧に使われてしまいます。イギリス人を征圧するために、使われてしまうのです」

日本交渉団のトップ、向井忠晴は食い下がりました。しかし、要求量315万トンに対して、購入出来たのは、726500トン。航空機用燃料は全く契約出来ませんでした。目標の1/4しか契約出来ないまま、交渉は打ち切られました。

★在米日本資産凍結(1941年7月25日)

ルーズベルト大統領は、翌月、アメリカの日本資産を凍結。横浜正金銀行ニューヨーク支店などに蓄えたドル資金が使えなくなり、日本は輸入の手立てを失います。日本は、フランス領インドシナ南部への進駐を開始。アメリカは、日本に対し、遂に石油輸出を全面停止します。四ヶ月後、太平洋戦争が始まりました。

★木炭自動車

これは1936年頃に、日本で作られた木炭自動車です。ドアの横に取り付けた装置で、木炭からガスを発生させて走らせます。実は、この木炭自動車は、三井物産初代社長の益田孝が最晩年に使っていたものです。石油の禁輸が迫る中、益田は木炭自動車が実用に耐えるのか、自宅のあるこの坂道で試していました。

益田孝の子孫 益田信一さん:
「元々でも、木炭車っていう自動車自体がそれほど力のある車じゃなかったと思いますから、勿論坂道も、こういった急峻な坂道っていうのはね、あの、かなりしんどい思いをして上がられたでしょうし…」

通商国家JAPANを背負ってきた益田孝。木炭自動車が坂道で止まってしまった時、深い溜息を吐いたといいます。

寺島実郎:
「戦後の日本はね、大東亜共栄圏という眦決した展開に、一敗地にまみれてね、懲りて、今度は新手のね、脱亜入欧論として、まあ謂わば登場させてきたのがね、要するに通商国家帰りなんですよ、戦後の日本はね。通商国家っていうのは、別の言い方すると、あのー、例えば地域主義だとか、イデオロギーだとかってものに拘らないで、この、ある種の政治性を越えてね、日本を豊かにしていこうっていうコンセプトでもあるんだけれども、一方でね、日本国の国益、利害っていうことで、何をもって国益とするかって時、常にね、悩ましい問題が起こって来るっていうかですね…」

150年前、貧しさから逃れようと通商国家を目指したJAPAN。世界に市場を求めて孤立し、資源を求めた末に破滅を迎えました。国家の利害がぶつかるグローバル経済の中で、一人ひとりの真の豊かさを齎す通商国家をどう作っていくのか。模索は続きます。

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★エンドロール
NHKスペシャル
シリーズJAPANデビュー
第3回 通商国家の挫折

資料等協力(略)

タイトル映像:西郡 駿
語り:濱中博久、礒野佑子
声の出演:81プロデュース
撮影:相馬大輔 野瀬典樹
音声:鈴木隆之 鈴木彰浩
編集:松本哲夫 田村 愛
ディレクター:小林竜夫 小倉洋平
制作統括:増田秀樹 河野伸洋
制作著作:NHK
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文字起し:夕刻の備忘録
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Author:JIF-情報統括
すべての拉致被害者の
 生存と救出を祈って…

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