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【転載歓迎】「JAPANデビュー第3回」全内容-Part.3

★イギリス 旧貿易省

日本とイギリスは綿製品を巡る貿易摩擦を解決するため、二国間の交渉を重ねました。

★日英会商(1933~1934)

イギリス側は日本側に、最長三年間の輸出自主規制を要請します。日本側はこの要請を拒絶。あくまで自由競争を主張しました。両者の主張は噛み合わず、交渉は決裂します。

ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス経済史学部教授ジャネット・ハンターさん:
「イギリス人の多くは、綿製品の国際市場で、日本が自分達の競争相手であるということを受け入れたくありませんでした。イギリスは、世界市場を長い間支配してきましたから。日本が世界一位を獲得したのは、不正競争によるものだと考えた人も多くいました。こうした日本の競争力への懸念が、紛れもなく、日本の輸出に対抗する、保護主義の政策を増幅させたのです」

イギリスは、長い間の国策であった自由貿易主義を放棄します。大英帝国に北欧などを加えたポンド・ブロック経済圏を強化。特に日本製品に対して、高い関税を掛け、市場からの締め出しを計りました。これに続き、フランスはフラン・ブロックを、アメリカはドル・ブロックを形成。世界貿易は保護主義に傾いていきます。

寺島実郎:
「特にその、大恐慌を境にしてね、欧米が、物凄く、この立ち尽くしている時にね、ひたひたとね、力を付けていく日本に対する警戒心が、ある種のブロック化なんていうね、流れを、恐慌の後、作っていく中で、日本もね、えー、結局、欧米がそういう路線を取ることに、呼応するような形で、えー、自分達も自分達の共栄圏というかですね、ブロックってものを作っていかざるを得ないっていうような思考に向かってってしまったというかですね、だから、要するに、脱亜入欧論がね、機能しなくなっちゃって、で、えー、再び、思い起こしてですね、えー、アジア帰りってやつで、その、あうー、それをね、正当化して言い換えたものが大東亜共栄圏で、えー、国境を越えた、現在でいうグローバリズムのようなね、流れに対する激しい反発、憎悪ってものが、増幅してくるっていうかね」

この時代、一つの商品が通商国家JAPANの命運を握ることになります。石油です。日本海軍は1930年代になり、ほぼ全ての軍艦を、石炭燃料から石油燃料に切り替えていました。重油タービンエンジンは、スピード、燃費、補給の容易さなどで石炭エンジンに勝りました。三井物産は、海軍に依頼され、三菱商事や浅野物産などと共に、石油の輸入を行ってきました。三井物産が石油事業の方針を立てた計画書です。

「軍事上、文化上、石油はまさに国家の生命」

しかし、三井物産が輸入出来たのは、重油、ガソリン、灯油などで精製していない原油は、自由に輸入出来ませんでした。綿花をはじめとし、世界中から原料を買い集めてきたこれまでとは違っていました。

語り・礒野佑子:
世界の石油産業の始まりは、日本が横浜を開港した年、1859年です。アメリカ東部、ペンシルベニア州タイタスビル。この年、この田舎町で、初めてパイプを通して地中から石油を取り出すことに成功しました。石油ビジネスに逸早く目を付けたのが、ジョン・デイビソン・ロックフェラーです。ロックフェラーは、スタンダード石油会社を設立。世界に輸出する事業に乗り出しました。同じ頃、ロシアでも大油田が発見されました。カスピ海沿岸のバクー油田です。この油田を開発したのは、ヨーロッパの実業家達です。バクー油田から石油を運び出すのに、樽詰めではなく、タンカーという新しい船を使うことを考え出し、成功を収めたのが、イギリスのマーカス・サミュエルです。横浜の貝殻細工の商人から身を立てたサミュエルは、自分の会社をシェルと名付けます。続いて、アジアでも油田が発見されます。

1903年、オランダ領東インド、現在のインドネシアのスマトラ島です。オランダ資本のロイヤルダッチ社と、イギリス資本のシェル社が合併し、開発に当たりました。すると、すぐにアメリカのスタンダード社も進出して来ました。ロイヤルダッチ・シェルとスタンダード、この二大石油資本が激しい競争を繰り広げながら、世界の石油資源を手中に収めていきます。日本が石油の時代を迎えた時、既に世界はこの巨大石油資本によって支配されていたのです。

ケンブリッジ・エネルギー研究所所長・ダニエル・ヤーギンさん
「石油という商品は、他の一次産品とは、ビジネス規模において異なります。始まった時からグローバルなビジネスでした。世界中、何処の国でも必要とされる商品という意味で特殊です。そして、石油のもう一つの特筆は、戦略的な一次産品であるということです。二十世紀初めに、アメリカ、日本、そしてイギリスの海軍が皆、石油へと移行したため、国家の安全保障にとって、極めて重要な一次産品になったわけです」

語り・濱中博久:
満州事変後、石油を輸入に頼っていては、有事の際に不足を招くと懸念が拡がりました。
★徳山海軍燃料廠

更に軍関係者を焦らせる事実が発覚していました。これまで戦闘機などの航空機用燃料は、軍艦などに使う重油を分解して製造出来るので、輸入が止まっても対応出来ると考えられてきました。しかし、海軍はそれが不可能なことを知ります。

★日本海軍燃料史 執筆者 元海軍少将 渡辺伊三郎

重油を分解したものでは、ゴムのような物質が発生し、エンジンが詰まってしまうという致命的欠陥が分かりました。当時の技術では、航空機用燃料は、原油からしか作ることが出来なかったのです。戦闘機が使えなくなる。このことが大問題になりました。海軍は、商工省と共に石油についての国家の方針、「燃料国策の大綱(1933)」を定めました。この中で、原油を確保するため、海外油田への進出を掲げます。

★大連の風景

日本が油田を探した場所は、日本の傀儡国家、満州国でした。満州国が出来た時、既に石油製品の販売は、スタンダード社とロイヤルダッチ・シェル系の二社が抑えていました。

「ここは当時、シェルが使っていた埠頭です。中国ではそれまで大豆油を使っていましたが――シェルが来て、灯油を使うようになりました」

★「満州国」国務院跡

ロイヤルダッチ・シェル、スタンダードの支配を破るため、満州国政府は法律を制定します。石油専売法(1934)です。

「満州での石油の製造や輸出入は、全て政府の許可を要する」

この法律を元に、石油を自らの手で支配しようとしたのです。

★中国遼寧省 阜新

中国遼寧省、阜新市郊外。石油専売法に基づいて作られた満州石油の調査隊が訪れています。

劉永艘さん:「これは日本人が作った道ですよ」

広大な満州で石油資源を探そうと、油田の探査が行われました。満州石油には三井物産も出資しており、資材の調達や情報収集には、その力が使われました。

当時、十二歳だった劉さんは調査の様子を見ていました。

劉永艘さん:「ここに油井があったんです。やぐらはとても高かったです」

試掘は二十ヶ所で行われ、1700メートルまで掘削を試みました。

――結局 油は出ましたか
劉永艘さん:「いいえ」

調査は、ソビエト国境地域まで行われました。しかし、有望な油田は一ヶ所も見付かりませんでした。

★日中戦争(1937~)

日中戦争勃発後、近衛内閣は東亜新秩序声明を発表。日本は、「日満支」、日本と中国からなる独自のブロック経済圏の建設を宣言します。それは、一貫して中国市場の門戸開放を主張してきたアメリカとの対立に発展しました。国務省特別顧問・スタンレー・ホーンベックの言葉です。

「日本に中国を支配させないことがアメリカの重要な国益である。アメリカは議論よりも強い武器を行使する意志を持たなければならない。我々がとりうる最も現実的な選択は中国に援助を与えることである。決意を持ってそうするべきだ」

国務省では、通商条約の破棄、報復関税措置、貿易の制限など対日経済制裁の検討が始まりました。アメリカが、建国以来初めて検討する、外国への経済制裁です。

寺島実郎:
「第二次大戦と称し、太平洋戦争と称する戦争にね、踏み切っていく直前の日本の貿易においてね、資源の八割ぐらいはアメリカに依存していたわけですよ。で、逆に言えば、アメリカにとってみれば、日本は大変いい市場だったわけですよ、その時期ね。だから日本はね、そのアメリカがですね、完全に中国を支援する形で動くとは思わなかった、つまり日本の主張にもある程度ね、配慮していくであろうと思ってたわけですね。絶対、決定的なダメージは与えてくるような決断はしませんよって、高括ってたんだけども、そうでもないってですね、何故そうなっちゃってたかっていうと、米中間の連携で、やはりアメリカの中国を支援した人の側から言えば、中国を近代化させて、工業化させて、市場を大きくして、今と似てるわけですよ、で、アメリカにとって、日本なんかよりも、もっと期待出来る市場がそこにあるはずだってことの思いがあるからね、えー、日本をですね、えー、決定的に追い詰めてやろうという方向のシナリオに舵切ってたっていうかですね、そういうことだと思いますよ」
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JIF-情報統括

Author:JIF-情報統括
すべての拉致被害者の
 生存と救出を祈って…

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