FC2ブログ

【転載歓迎】「JAPANデビュー第3回」全内容-Part.2

★山本条太郎宛 益田孝書簡(1904年9月29日)

三井物産本社の益田孝から、上海の山本に送られた手紙です。

「こちらでは、清国で綿布を売るために専ら用意していいる」

益田には綿布を大量に売る秘策がありました。軍用手形です。
軍用手形とは、日本軍が戦争中に発行した代用通貨のことです。戦地で、物資調達などの支払いに使われました。
軍用手形を受け取った人は、日本が現地においている金融機関で本物の通貨に交換出来ることになっていました。

これが日露戦争中に発行されたものです。日本軍は、当時の額で一億四千万円分を中国で使いました。国家予算の半分に相当します。しかし、政府は交換のために国外に銀を持ち出すのを嫌ったため、五千万円分が交換されないままになっていました。

益田はそこに目を付けました。生活必需品の綿布なら、中国人は軍用手形と交換するはずだと政府に申し出ます。条件として、綿布の輸送代は一年間、南満州鉄道を無料に、一年半、船賃を半額にして欲しいと政府に要求しました。三井は回収した手形を日本の金融機関との決済に使います。これならば、銀が国外に流出することはありません。こうして三井は、アメリカ綿布よりも二割安い価格を実現しました。満鉄の主要な駅ごとに、手形と綿布の交換所が設けられました。

★三井物産 交換所

日露戦争開戦時に、満州で0.2%しか無かった日本綿布のシェアは、1907年に一挙に24%。1910年には60%に上昇。瞬く間に、アメリカから満州市場を奪っていきました。

寺島実郎:
「日本国というのは、通商国家モデルってキーワードとね、その、要するに、殖産興業を通商によって実現しようという流れと、日本国のですね、最初は独立を維持するためにってことだったんだけども、要するに軍事力を高めていかなければいけないってですね、あの、まさに、富国強兵のね、という路線と、このね、通商国家と、富国強兵っていうね、この二つのキーワードがね、糾える縄のように絡み付いてね、きたことの持つ可能性と限界とってのを示したのが、日本の近代史だったともいえるのではないかと、こう思うんですね」

辛亥革命(1911)

辛亥革命。日本はこれを中国市場に食い込む、次の大きなチャンスと捉えました。清朝が滅び、中華民国が建国されると、革命の指導者孫文が臨時大総統に就任しました。

★中華民国 臨時大総統 孫文

三井物産は、この孫文と関係を築き、事業を広げようとします。日本はこの時代に、綿を中心とした軽工業だけでなく、重工業へと産業を拡大して行きます。三井物産は、重工業の分野でも国家との結び付きを更に深めます。重工業化の決め手として政府が作ったのが、官営八幡製鉄所でした。八幡製鉄所では、原料の鉄鉱石を中国有数の鉄鉱山である大冶鉄山の輸入に頼っていました。しかし、辛亥革命の影響で、供給が止まる恐れが生じました。

西園寺公望内閣は、資金を貸す代わりに、革命政府が支配する大冶鉄山を日中合弁化する案を閣議で決定します。その交渉が三井物産に任されました。益田の命を受けた森恪が革命政府との交渉に南京に向かいました。日露戦争の時に、小型船でバルチック船隊を追跡したあの森です。

交渉相手は孫文でした。孫文は南京に臨時政府を成立させたものの、政権を維持するための資金を必要としていました。これがその時に作られた契約草案です。協議の結果、大冶鉄山を中国、日本、両国人共同の会社、とする代わりに、日本側が五百万円の借款を提供することで、合意されました。草案には孫文が調印しています。

しかし、直ぐに中国で反対運動が起こります。大冶鉄山を所有する会社の株主総会が圧倒的な多数で、合弁案を否決します。日本が中国進出を加速させたのは、この二年後に起きた第一次世界大戦でした。

★第一次世界大戦(1914~1918)

ヨーロッパ諸国は、中国市場を相手にする余裕を失いました。

★井上馨

「今回欧州の大禍乱は日本国運の発展に対する大正新時代の天佑なり」

三井物産支店長会議の議事録です。

「我々の畢生の力を中国に伸ばす。千載一遇の好機である。そのために訓練した千五百の精兵がいる」

日本は中国市場に輸出攻勢を掛けます。その結果、僅か五年間で、日本のGNPはおよそ三倍に急増。明治維新以来、対外債務に苦しんできた日本は、初めて債権国になりました。しかし、日本は中国市場から大きな反発を受けるようになります。

戦争中、大隈重信内閣は、山東省のドイツ権益を日本に渡すこと、大連、旅順の租借や満鉄権益の期限延長などを求める、所謂二十一ヶ条の要求(1915)を中華民国政府に突き付けました。中華民国政府がこれを受諾すると、激しい排日運動が起こります。それは日本製品のボイコット運動となって大きく拡がりました。

列強の中で、日本の中国に対する二十一ヶ条要求に、特に異議を唱えたのが、アメリカ政府でした。

★アメリカ国務長官 ウイリアム・J・ブライアン

ウイルソン政権のブライアン国務長官が声明を発表します。アメリカ政府は、中国の門戸開放に反する場合、日本の政策を断じて容認しない。アメリカは、日本が中国を独占することに、明確なNOを突き付けました。

語り・礒野佑子:
アメリカは、何故門戸開放を唱えたのか。アメリカは1898年、ハワイを併合します。続いてスペインとの戦争で、フィリピン、グアムを獲得。太平洋からアジアへ足場を築いたアメリカは、中国への進出に弾みを付けます。ところが、中国は既にイギリス、フランス、ロシアなどにより、勢力範囲の分割が進んでいました。利権を持たないアメリカが、列強に示したのが、中国における門戸開放、機会均等、領土保全の三原則でした。

寺島実郎:
「アメリカが掲げたのが、門戸開放、機会均等ね、で、中国にしてみれば、欧州の列強に蝕まれね、はたまた日本が中国に触手を伸ばしてきているタイミングで、アメリカが中国に登場して来たってことはですね、そもそもの関係においてね、要するにカウンターパワーってやつで、欧州と日本を牽制するカードとしてはね、アメリカの中国への進出ってのは、むしろ歓迎されたっていうかですね、それが米中関係の近代史におけるね、ある種の相思相愛的構造っていうのかな、で、これがですね、延々と引き摺るわけですよ、今日に至るまで、で、極端に言えばね、二十世紀の日米中、トライアングルの歴史ってのは、何だったかっていうと、太平洋戦争と言われている戦争だってね、突き詰めていけば、中国を巡る日米の対決、対立だったとも言えるわけですよね」

語り・濱中博久:
第一次世界大戦後のパリ講和会議で、中国は日本に山東省の返還を要求。しかし、それが認められなかったため、「五・四運動(1919)」と呼ばれる大規模な排日運動が全国的に拡がります。孫文も日本に対する態度を変えます。

★孫文

「東隣の志士よ
日本政府を促しすぐに反省して対外方針を変更させ
中国方面への侵略をやめさせなければならない
東京朝日新聞 一九一九年六月二十二日」

寺島実郎:
「ベルサイユにね、中国の代表団が現れてですね、アメリカの支援を受けながらね、日本のですね、所謂中国利権、山東利権というものをね、否定するという側に、アメリカを向かわせるように、もう懸命に動くわけですよ。で、その辺りでね、あの、日本の中国に対する野心というものを、決定的に印象づけてしまった。要するに、中国を巡る日米の対決っていう構図がですね、ぐんと明確に見えてくるのが、まさに、その第一次世界大戦
を前後した時期だったんですよね」

★世界恐慌(1929年10月~)

大恐慌。この経済危機で、日本は世界各国と貿易を巡り対立を深めることになります。日本では、アメリカの不況に円高が重なり、生糸の輸出が激減。米貨も暴落し、農村は深刻な打撃を受けます。都市部では企業倒産やリストラが続出。失業者が溢れました。不況のどん底の中で政権に就いた犬養毅内閣の大蔵大臣高橋是清は、景気対策に乗り出します。高橋は、円安によって輸出を促進することで、不況を克服しようとしました。金本位制を離脱し、円安を誘導します。円がドルに対して、半分まで下落します。

★三井物産の支店網

円安により三井物産も息を吹き返します。世界の支店を一気に拡張。これまで市場にしていなかった地域に貿易を広げました。玩具や自転車、そして機関車まで、扱う品目は百を越えていました。特に、輸出の主力、綿製品は世界中に輸出攻勢が掛けられました。その結果、1933年に日本の綿製品の輸出は、遂にイギリスを抜き、世界一になりました。こうした輸出拡大により、日本はこの年、10%を超える実質経済成長率を達成。大恐慌の影響を受け、欧米の経済が低迷する中、逸早く不況から抜け出しました。高橋財政により、大企業は潤いました。しかし、農民や中小企業は取り残されます。富める者と貧しい者の格差が拡がりました。

日本が金本位制を離れる前に、ドルを買って巨額の差益を得たとして、三井などの財閥は、国民の非難を浴びることになります。1932年、益田孝の後継者として三井財閥を率いていた団琢磨が殺害されます。世界市場では、輸出攻勢を掛ける日本と、各国との貿易摩擦が激化します。
プロフィール

JIF-情報統括

Author:JIF-情報統括
すべての拉致被害者の
 生存と救出を祈って…

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
訪問者数
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード