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【転載歓迎】「JAPANデビュー第3回」全内容-Part.1

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★オープニングタイトル

JAPANデビュー
未来を見通す鍵は歴史の中にある
世界の連鎖が歴史をつくってきた
150年前 世界にデビューした日本
私たちはどう生きた
そしてどう生きる

NHKスペシャル
シリーズJAPANデビュー
第三回 通商国家の挫折
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語り・濱中博久:
100年に一度とも言われる経済危機に直面している日本。通商国家JAPANは150年前に、貧しい島国として世界にデビューした時に始まります。

★現在の三井物産社内

その時代に、世界の市場と貿易を始めた日本初のグローバル企業があります。総合商社三井物産です。明治、大正、そして昭和。貿易によって富を得ようとする通商国家を支えた企業です。

★三井物産戦略研究所会長・寺島実郎さん

三井物産の商社マンとして、海外貿易の第一線で働いてきた寺島実郎さん。

★日米通商摩擦について議論―アメリカ上院にて(1989)

日本が大きな岐路に立つ今、未来に向けてどんな視点が必要なのでしょうか。

寺島実郎:
「冷戦後と言われた時代のですね、そのアメリカが世界の中心となって、ドルの一極支配、唯一の超大国ってメカニズムが崩れてきて、新しい秩序形成を巡って蠢き始めてますよね。このG8と言われてきた仕組、八つの国って仕組が、G20っていう二十ヶ国の仕組になりね、で、全員が参加して新しいルールを形成するような、大きな過渡的状況に入っていきますよね。こういう時にね、我々が学ばなければいけないものってのは、この戦前における世界秩序の再編期においてね、日本が犯した失敗とか、判断のミスだとかね、そういうものを再び繰り返してはならないっていうかね……」

貿易を始めた日本が、先ず向かったのは、巨大な中国市場でした。そこで既に市場を手中に収めていた西洋列強に競争を挑みます。1933年、日本は綿製品の輸出で世界一を達成し、経済成長を加速させました。ところが、世界貿易の枠組が突然変わってしまいます。列強がブロック経済圏を作り、弾き出された日本は、世界市場を失っていきます。国の命運を分けたのは、石油を巡る攻防でした。石油資源を求めて、日本は海外に進出、戦争へと突き進みました。世界市場の中で、私達はどう生きたのか、そしてどう生きるのか。

通商国家の歩みを辿ります。

横浜港、世界にこの港を開き、貿易を始めた日本は、貧しさに喘いでいました。明治の初め、輸入が輸出を常に上回り、国内の金や銀の流出が止まりませんでした。西洋列強と結んだ通商条約です

★改税約書

輸出、輸入に掛かる関税は、一律5%と設定されていました。列強は自国の産業を保護するため、20%から40%の輸入関税を設けていました。しかし、日本は関税を自主的に変更する権利が認められていなかったため、輸入超過を止められなかったのです。国の富の流出に直面した政府のリーダー、内務卿・大久保利通は、打開策として建議書を提出しました。

★海外直売の基業を開くの議(1875)

「農業、工業を奨励しても、国内には消費するものが少ないので限りがある。輸出を増やすため、今こそ商人を海外に送り出さなければならない。海外通商の道に熟達している者はいないが、通商を発展させ、世界に販路を広げることが最も重要である」

寺島実郎:
「福沢諭吉がね、この脱亜入欧というキーワードを言い始めたと。で、それは何だったかというとね、実は、日本はね、アジアのトラブルなんかに目をやってですね、手を取られている場合じゃなくて、分かり易く言えば、七つの海を広く見渡してですね、世界に向けてね、あの、通商をテコにですね、飛躍していくべきであるという考え方を、謂わば理論的に正当化したもので、あの、極端に言えば、その路線をですね、まさに別な言葉でもって言い換えたものが通商国家モデルだとも言えるわけですよ」

政府の大隈重信の求めに応じ、江戸時代からの豪商三井が貿易会社三井物産を興します。

★三井物産 創業(1876)

社長には益田孝という27歳の若者が起用されました。益田孝は、アメリカ駐日公使ハリスの下で英語を学び、明治維新を迎えた後、横浜の外国商館の店員になっていました。貿易の実務と英語に通じた人物ということで、井上馨が推薦したのです。会社設立に当たり、三井家は貿易はリスクが高いと考え、出資しませんでした。資本金ゼロ、社員16人で三井物産はスタートしました。

★中国・上海

創業の翌年、益田は中国上海に渡りました。中国の表玄関である上海には、列強の商社が集まり、競争を繰り広げていました。

★旧三井物産上海支店

三井物産初の海外支店を構えます。ここを拠点に、米や石炭などの一次産品の輸出で、中国との貿易を始めました。貨物の積み降ろしのため、三井物産が設けた埠頭に案内して貰いました。上海万博のための再開発が今進められています。

東華大学人文学院教授・陳祖恩さん:
「当時、三井物産の埠頭は、あの辺りまででした。先に来ていたヨーロッパ系の会社が広い場所を占領していたので、日本が大きな埠頭を設けることは出来なかったのです。三井物産が支店を立ち上げた時、上海に日本人は100人も居ませんでした。そんな環境の中で始まったので、非常に苦労したと思います」

清朝の治める中国の人口は、世界最大の三億人と言われていました。ヨーロッパに産業革命が起きるまで、中国は世界の富の中心地でした。その巨大な購買力を目指し、イギリス、フランス、オランダ、ロシアなど、列強の貿易商が殺到していました。

ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス経済史学部教授ジャネット・ハンターさん:
「ヨーロッパの商業関係者には、中国市場神話という言い回しがあったほどです。中国は宝の山として見られていたのです」

日清戦争の頃になると、日本の工業化が進みます。三井物産は中国市場に向けて、綿製品の輸出を始めました。しかし、売り上げは惨憺たるものでした。当時、中国市場で圧倒的なシェアを誇ったのは、右のように細い糸で織られたイギリス製の綿布でした。左のように太い糸で織られた日本製の綿布とは、品質に大きな差がありました。1840年に起きたアヘン戦争以来、日本より40年も早く中国市場に進出していたイギリス。ビクトリア女王が君臨したこの時代、黄金期を迎えていました。

ビクトリア時代の栄華を支えたのは、綿産業でした。イギリス綿製品の輸出額は、年間7000万ポンド。輸出額の1/3を占める大英帝国の看板商品でした。東京中野にある三井文庫には、戦前の三井物産の全貌を知ることの出来る経営資料が、保存されています。この資料を元に、イギリスが支配する中国市場に、三井物産がどのように参入していったのかを辿ります

★商況視察復命書

日清戦争の最中に行われた市場調査の報告書です。報告者は、上海支店の山本条太郎です。

★営口の風景

山本は、一人で中国東北部、当時の満州に乗り込みます。その様子を報告書につぶさに記録しています。

「遙河の河口をさかのぼること三里。冬は寒気ですこぶる烈しく、十一月下旬より四月初めまでは結氷す」

山本は満州で流通している綿布について調査しました。すると、意外なことに、ここで売れているのは、イギリス製品ではありませんでした。

「アメリカ製の綿布が売れている。金巾と雲齋の二種類である。厚地のほうがよく売れていて、薄地は好まれない」

満州は冬は酷寒、夏も涼しいため、アメリカ製の厚手の綿布が、市場の九割を占めていました。地元では、土布と呼ばれる布です。イギリス製の品質には歯が立たないが、厚地のアメリカ製なら競争出来るかもしれない。三井物産の経営会議では、アメリカ綿布への対抗策が話し合われました。

「日本の綿布は、値段で競争するより他、良策は無い」

語り・礒野佑子:
アメリカの綿布には、日本が真似出来ない有利な点がありました。アメリカ南部は、世界最大の綿花地帯でした。その綿花を原料にして、東部ニューイングランドでは、世界第二位の綿産業が発達していました。

★アメリカ東インド艦隊司令長官:マシュー・C・ペリー

日本を開国させたマシュー・ペリー司令官。アメリカがペリーを派遣した主要な目的は、綿製品を中国へ運ぶことでした。日本の港で石炭が補給出来るようになると、中国への貨物船に積む石炭が減らせます。その分、綿製品の積載量を大幅に増やすことが出来るのです。ところが、日本経由で中国への輸出を始めた途端、南北戦争が勃発し、貿易は中断。それから30年、漸く念願の中国市場に進出していたのです。

寺島実郎:
「アメリカが中国に、本格的に登場してきたタイミングと、日本が中国に登場していったタイミングとがですね、あのシンクロナイズしたっていうか、同時化したってところにね、日本の二十世紀の歴史の悲劇の始まりがあるわけですよ。この日本近代史の宿命的な構図がですね、僕は日米中という日本と中国とアメリカと、このトライアングルの関係だと思うんですね」

語り・濱中博久:
インド、ムンバイ。アメリカに対抗するため、三井物産はここに支店を置きました。その頃の三井の活動を知る手掛かりがあります。

★インド・ムンバイ

「昔の取引が記載された帳簿です。三井&カンパニー。これが取引内容です。彼らは非常に積極的で奥地まで買い付けに行っていました」

三井物産の社員は、デカン高原の奥地まで足を運びました。その一つ、ダヂャコット村です。
彼らはこうした村で綿花を直接買い付けました。中間商人のコストを省き、自分の目で商品を確かめるためです。他の国がやらない方法で、安い原料を輸入しました。

★日露戦争(1904~1905)

日露戦争。三井物産は、この戦争を切っ掛けに、満州のアメリカ製綿布を一気に追い落とします。戦争が始まると、三井物産は軍のために食料や資材の調達、通訳などの後方支援に当たりました。上海支店長となった山本条太郎は、物資を買い占め、ロシア軍が中国で石炭や食料などを調達出来ないようにしました。やがて、ロシアのバルチック艦隊が日本に向かって来ます。進路は太平洋か、日本海か。計りかねていた時、山本の部下、森恪(もりつとむ)は小型船でフィリピン沖から艦隊を追跡しました。森は、バルチック艦隊がバシー海峡を通過するのを確認、艦隊が日本海へ向かうと推測し、打電したと言われます。
プロフィール

JIF-情報統括

Author:JIF-情報統括
すべての拉致被害者の
 生存と救出を祈って…

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