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【転載歓迎】「JAPANデビュー第2回」全内容-Part.3

第2部 政党政治の自滅

語り・濱中博久:
憲法が制定された翌1890年、明治23年、第一回帝国議会が招集されます。

自由民権を推し進めてきた政党、所謂「民党」にとっては、待望の立憲政治の始まりです。民党の闘将と言われた犬養毅は、立憲改進党の一員でした。政党が力を持つことによって、国民の声を反映させる政治を目指します。

『朝野新聞 論説』より:
「出来上がった憲法は、世界の基準と成る優秀な憲法である。しかし、如何に優れた憲法であっても、運用が良くなければ、優秀の美を為すことは出来ない。一致協力して天皇が作った立派な憲法を、無にすることがないよう務めよう」

こうした犬養ら民党と激しく対立するのが、時の総理大臣・山県有朋でした。明治維新以来、長州と薩摩などによる藩閥政治を推し進めてきた山県は、台頭する政党政治に対抗するための制度を打ち立てます。
陸海軍大臣、及び次官に任じられるのは、現役の軍人のみに限定する制度です。現役の軍人が大臣に就くには、軍の許可が必要となります。

たとえ政党が政権を獲っても、軍部が許可せず、大臣候補を挙げなければ、内閣は組閣出来ません。
更に山県は、軍の法令などについて、総理大臣の署名は必要とせず、陸海軍大臣の署名だけで成立するように改めました。

こうした軍部の台頭を可能にしたのが、大日本帝国憲法第十一條に掲げられた、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という條文でした。これによって、陸海軍に指揮命令するのは天皇のみとされ、統帥権は、内閣や議会に干渉されない独立した軍の存在を可能にしたのです。

★陸軍特別大演習(1934年)の写真

何故、藩閥内閣の山県は、犬養ら政党を押さえ込もうとしたのでしょうか。明治時代から現代までの日本の政党政治を研究している東京大学教授の御厨貴さんです。

東京大学・御厨貴教授:
「当時は、やっぱりこう党派っていう、何か、何かあるイデオロギーなら、ある、その主張を持った党派が、要するに、政治を私する、という感覚を持ってましたから、そりゃ今日の目から見たら、藩閥の方がよっぽど国家を、その、私しているように見えますが、彼等にとってみれば、自分が国家ですから、だから要するに、政党は政党に有利なこと、だからその地方の利益であるとか何とかっていうのを主張してくる、それはイカンと、国家の利益全体のことを考えていれば、だから自分達だけだ、これは勿論、今から考えると、非常に独善ですよ。だけど彼等は、それを本当に信じていたわけですよね。だから政党は部分利益だからダメ、国家利益を代表していないからダメ、こういう形ですね」

政党と軍部の対立により、伊藤博文や井上毅など憲法起草者が予想もしなかった事態が、日本の立憲政治システムに起きていきます。

語り・礒野佑子:
この頃、世界は大きく変動していました。1914年、第一次世界大戦が勃発します。この大戦によって、これまでの世界の君主国が、崩壊していったのです。1917年、ロシア革命により、300年余り続いた王朝が滅亡。1918年、戦争に敗れたドイツ帝国と、オーストリア・ハンガリー帝国で皇帝が退位。一方、アジアでも1911年、辛亥革命が起こり、清朝が瓦解。中華民国が成立し、アジアで最初の共和国が生まれていました。

日本でも、大きな変化が起きていました。1912年、明治45年7月、明治天皇が世を去ります。大正天皇が皇位を継承しました。しかし、大正天皇は病気がちで、公の場に姿を見せることが少なくなりました。その一方で、国内には自由と平等を求める動きが強まり、民主主義を求めていく、所謂「大正デモクラシー」の空気が満ち溢れていきました。

語り・濱中博久:
犬養毅は、民衆が広く政治に参加出来るように、普通選挙の実現を訴えていきました。

『1925年5月の演説』より:
「先ず国民が一致して国政に参加すること。国難に当たるには、普通選挙の断行を促したい」

1925年、大正14年、普通選挙法制定。納税額による制限は廃止され、25歳以上の男子に選挙権が与えられました。普通選挙が実施されると、有権者の数は一気に四倍に膨れあがりました。政党は、選挙に勝つために、一票でも多くの票を獲得しようとします。

政策や理念ではなく、政権獲得のため、党利党略に走るようになります。普通選挙が実施されたことで、藩閥政治から政党政治の時代へと、大きく変化を遂げたものの、一方で、民意に大きく影響される政治を生み出しました。

東京大学・御厨貴教授:
「そりゃ二面ありましてね、だから一つは、良い方、良い方って、まあ、あの、ある意味で言うと、その、まあ、国民みんなに、せ、政治に対する、要するに参加意識を持ってもらって、それで政友会と、その後には民政党という二大政党による、その政党の政党政治というものが、まあ、形の上で出来上がっていく。で、それが出来上がることによって、政党総裁以外は総理大臣になるということは、ないという、そういう時代になった。だから、その意味では、これは、あの、民主主義の、まあ発展なんですよね。と同時に、その国民が、その、政党や政治を見る時に、日本がやっぱり勇ましく、外へ出て行く、あるいは、ソ連がまた、もしかすると出てくるかもしれない、という状況の中にあって、かなりですね、ナショナリズムみたいなものがね、刺激をされて、日本は一応、国威発揚しなくちゃいけないんだから、そのためには、外に出て行くべきだ、という一種の対外強行主義みたいなものを、その草の根の人達が支える、で、その上に政党が乗っかる、というね、形になっていく。これを、まあ抑えるよりは、むしろそれを受け入れっていくって筋が出てくる」

普通選挙実施の翌年、犬養毅は二大政党の一つ、政友会の総裁に担がれました。犬養は、従来から訴えてきた、軍の合理化を、党の公約に掲げました:

「軍制を整理し国防の経済化を図る」

この時、政権は対立する民政党にありました。首相の浜口雄幸も緊縮財政に取組み、軍縮を推進する姿勢を示していました。1929年、昭和4年、ロンドンで海軍軍縮会議が開かれることになり、会議の前に、財部毅・海軍大臣が政友会総裁の犬養を訪ね、軍縮への了承を求めました。この席で犬養は、異論は無いと述べています:

「日本のような貧乏所帯でいつまでも軍艦競争をやられては国民が堪らない。こんな問題は政争の具にすべき問題ではない」

ところが、ロンドンでの会議の後、犬養は大きく態度を変えていきます。ロンドン海軍軍縮会議には、日本をはじめ、イギリス、アメリカ、フランス、イタリアの五ヶ国が参加。巡洋艦や駆逐艦、潜水艦などの制限が話し合われました。会議は難航、成立した協定案は、海軍軍令部が確保を主張していた、軍艦の目標総トン数を下回っていました。浜口内閣は、海軍軍令部の反対を押し切り妥結、調印しました。

これに対し、猛然と政府を責め立てたのが、犬養率いる政友会でした。政友会が問題にしたのが「統帥権」でした。政友会は、条約の調印は、天皇の大権である統帥権を侵すものであると政府を攻撃。海軍軍令部の主張を認める方針を打ち出しました。

政友会が軍との繋がりを深めたのは、犬養の前の総裁だった田中義一の時です。田中は軍人出身であり、軍関係者の組織票を頼りに選挙を戦っていました。犬養は、そうした政友会を党首としてまとめるために、それまでの自説を大きく変えたのです。

東京大学・御厨貴教授:
「犬養には、もう残された時間は無かった。しかも、その総理大臣の椅子というのは、もう、目の前にぶら下がっている、いう時に、彼は、権力の方を獲った訳です。だから、そこで大胆な妥協をする。やっぱり政治家って疼くんですよ、その権力を目の前にした時に、その権力って魔物なんだけど、俺は自由に出来る、俺の力で自由にしてみたい、それはもう歴代の、累代の政治家、みんなそう思うみたいだから、だから、これ、軍拡路線に何故、その、政友会が乗っかっていくかというと、軍拡路線に乗っかることによって、次の選挙に勝てるに違いない、と思うからですよ。あるいは、次の選挙に負けないと思うからであって。で、そうこうしてるうちに、本当に軍に取り込まれちゃう」

★満州事変 1931年(昭和6)の映像

ロンドンでの条約調印の翌年、満州事変が勃発します。関東軍が、独断で満州を占領。時の民政党、若槻礼次郎内閣は、満州での不拡大方針を巡って、閣内で意見が分かれ、総辞職しました。その年の12月、遂に犬養に天皇から大命が下ります。第一回帝国議会から41年、漸く手にした総理大臣の座でした。

総理大臣官邸前に集まった500人の人々、犬養の地元、岡山の支持者達です。その真ん中で、カメラに収まる犬養毅。民衆の声を政治に反映させるという夢を、いよいよ実現出来ると、意欲に燃えていました。総理大臣になった犬養は、満州国の承認に反対の意志を示しました。軍部や党内から激しい反発を受けます。

★五・一五事件 1932年(昭和7)の映像

そして、総理大臣就任から僅か5ヶ月、海軍の青年将校らによって、犬養は射殺されます。この「五・一五事件」以降、政党内閣は成立せず、犬養は政党政治・最後の総理大臣となりました。

東京大学・御厨貴教授:
「政党政治ってのは、それ自体としては非常に脆いものであって、それ以外のもの、つまり政党総裁以外のものは、総理大臣候補になれない状態を、要するに枠組として、その、ずっと維持し続ける、これはもう、それこそ日々努力していなければダメな訳ですよ。これをきちんと確立した上で、その、政党が相互に争うならいいんだけども、そこのところの枠を全部破って、やっぱり反政党的な機関と結ぶことによって、全体としての政党政治の基盤が壊れていったってのが1930年代ですから。だから自殺なんですよ、これ」

★皇居の空撮映像

語り・礒野佑子:
政党の自滅、軍部の台頭によって、立憲政治システムを崩壊させた日本。その崩壊の過程で、急速に日本を支配していったのが、天皇絶対主義でした。この天皇を絶対視する思想をもたらしたのが、国体論と呼ばれる国の在り方を問う議論でした。
天皇が治める国家体制は、どうあるべきか。その議論を激化させる大きな切っ掛けとなったのが、東京帝国大学の美濃部達吉が説いた「天皇機関説」です。天皇機関説を巡る論争は、やがて日本を戦争の道へと駆り立てます。天皇機関説論争の始まりから、日本が敗戦し、新憲法が誕生するまでを検証していきます。
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JIF-情報統括

Author:JIF-情報統括
すべての拉致被害者の
 生存と救出を祈って…

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