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【転載歓迎】「JAPANデビュー第2回」全内容-Part.2

伊藤博文は、1885年、明治18年、それまでの太政官制度を廃止しました。内閣制度を作り、自らが内閣総理大臣となったのです。そして、憲法作りに取り掛かっていきます。

★國學院大學図書館の映像

東京渋谷の國學院大學です。
明治時代に作られた大日本帝国憲法の起草に関する、膨大な資料が残されています。

★日本帝国憲法草案の映像

憲法の草案。
諸外国の憲法の翻訳。
外国人法学者との問答集など、全部で6000点を超えています。

これらの資料を残したのは、大日本帝国憲法の草案を書いた井上毅です。治法省にいた井上は、法律専門の官僚として、憲法の草案作りに当たるよう、伊藤博文に命じられました。
井上は天皇の位置付けについて、憲法の條文を何度も書き直し、推敲を重ねていきました。

天皇が日本を統治することの根拠を、明文化しなければならないと考えたのです。

井上は天皇が日本の歴史の中で、どう位置付けられて来たのか、歴史書を改めて研究します。古事記などの古典を調べ、日本の国の成り立ちの中に、天皇が国を治める正当性を見出そうとしました。古事記には、天照大神の子孫である神武天皇が、第一代の天皇となったと記されています。

★『岩倉公実記』の映像

そこから出発し、後の世、天皇は武士が台頭した時代であっても、絶えることなく、連綿と受け継がれたとされてきたことから、井上はその連続性を重視しました。そして明治になって、天皇の歴史的由来を示す言葉として、頻繁に使われるようになっていた表現に着目します。それは「萬世一系」。先祖代々絶えることなく、今に続いていることを意味するこの言葉を、井上はそのまま憲法の草案に用いようとします。

京都大学・山室信一教授:
「萬世一系という言葉がですね、まあ、あの普通に考えますと、ずっと江戸時代以前からですね、存在しているように考えがちでありますけれども、それまでのですね、その常用の言葉ではないんですね。えー、むしろ、それがですね、その明治期に入って、えー、外交文書に使われている、多く使われたことからも分かる、明かなようにですね、その徳川幕藩体制を壊して成立したですね、明治政府というものの正当性というものをですね、いわば諸外国に対してですね、証明する、という、まあちょっと修飾語として使われ始めたというのが、私は、まあ事実だろうと思います。で、そういう中でですね、その同時に今度は、国内におきましてはですね、その天皇というものが何故支配するのかについてですね、まあこれは、その旧支配階級などは、非常に不満を持っているわけでありますから、それに対しても教えなければならない、つまり、その正当性を伝えなければならない、という点で、国内向けに今度は使われ始める。それがですね、次第に天皇制の支配、あるいは、天皇の支配というものをですね、まあ、その正当性、根拠であるということに使われてくる、ということになると思います」

★神奈川・夏島の風景

1887年、明治20年、伊藤博文は神奈川県夏島で、井上毅と共に憲法の草案作りに取り掛かります。

これがその時、議論された夏島草案です。
井上は第一條に、「日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と書きました。ところが、この「萬世一系」の用語を憲法條文に書くことに反対する意見が持ち上がります。反対したのは、明治政府の法律顧問、ドイツ人のヘルマン・ロエスレルでした。ロエスレルの憲法修正案に関する意見書です:

「第一條に萬世一系の天皇と過大な誇称を書こうとしているが、これから先の百年を予測することは出来ない。ましてや、今後幾百年、幾千年の後まで皇統が連綿と続いていくことを、一体、誰が予想出来るだろうか」

ロエスレルは、萬世一系という漠然とした文言は、成文法に馴染まないとして、止めるように意見したのです。しかし、伊藤と井上は、この意見を採り入れませんでした。

京都大学・山室信一教授:
「井上や伊藤に取りましてはですね、その、日本の国家というもの成り立ちというものを説明するために、まあ、萬世一系と、重要でしたし、同時にですね、えー、その、まあ様々な地でですね、論争もあり、そして、対立もあった日本社会というものを、統合していくためにはですね、天皇というものが、その言ってみれば、統合の中心としてですね、その存在していなければならない、という風に思ってましたし、逆に言えば、百年後も、二百年後も、そういう体制であって欲しいということを示すという点ではですね、これは伊藤や井上は、むしろそれを書きたいという風になるのは、当然ではないでしょうかね」

1888年6月、出来上がった憲法の草案について、天皇の諮問機関・枢密院で審議が始まりました。天皇臨席の下、議長は伊藤博文です。審議された項目の一つが、「天皇は憲法に従って統治する」と書かれた第四條でした。その時の模様が描かれた絵です。

「第四條 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」

山田顕義・司法大臣から意見が出ます:
「この憲法の條規以下の文字を削除することを望みます。この文字を置くと天皇の統治権は、元々在った権限ではなく、憲法を設置したことで、新しく始まったかのような感覚を持ってしまいます」

これに対し、議長の伊藤博文は、自らこう説明しました:
「本條は、この憲法の骨子です。憲法政治といえば、即ち、君主権を制限することなのです。この條項が無ければ憲法は、その核となるものを失うことになります。憲法の條規により、という言葉が無くては、憲法政治ではなく、無限専制の政体となってしまうのです」

第四條は、多数の賛成を以て可決されました。1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布されました。天皇、議会、司法、国民の権利、義務などを明記、近代国家の骨組が出来上がりました。

語り・礒野佑子:
憲法の制定によって、天皇、内閣、そして議会という三つの権力による、立憲政治システムをスタートさせた大日本帝国。天皇の下、内閣と議会が実際の政治を運営していくことになります。
しかし、議会を担う政党は、政権に固執して党利党略に陥り、やがて自滅。一方で権力を強めていくのが、軍部です。憲法に定められた、天皇が陸海軍を統帥す、という統帥権を盾に大きく肥大化。遂には、憲法が作り上げた立憲政治システムは崩壊。
この時代の象徴ともいうべき人物が、犬養毅です。犬養が、第一回帝国議会で国会議員となり、五・一五事件で暗殺されるまでを描き、立憲政治システムの始まりから崩壊までを追っていきます。
プロフィール

JIF-情報統括

Author:JIF-情報統括
すべての拉致被害者の
 生存と救出を祈って…

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